本日は 聖霊降臨後第24主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
聖書箇所は、申命記6:1-9、詩編119:1-8、ヘブライ人への手紙9:11-14、マルコによる福音書12:28-34。説教では、神と隣人を愛するという、この最も重要な戒めを私たちの生活の中で実践する恵みを願い、神の愛の中に生きていることを思いながら日々過ごすよう共に祈りを捧げました。
本日のテーマから思い浮かべた言葉、「マザー・テレサの二つの聖体拝領」ついても言及しました。
説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
福音書朗読の前に聞いていただいた聖歌500番「主イエスの教えたまいしは」は、関西を中心に活動している聖公会信徒である「MAKI&LILY」のCDからです。
このグループはVo.&Pf.の坂本真紀さんとVo.の喜多ゆりさんの二人組です。この演奏は、澄んだ歌声と心のこもったピアノの伴奏だったと思います。聖歌500番の歌詞は本日のテーマを含んでいます。
https://olive-church.net/2020/11/artistchain-20201101/
さて、本日は聖霊降臨後第24主日です。福音書箇所は、マルコによる福音書12:28-34。イエス様がエルサレムに入った最後の一週間の火曜日、神殿の境内でのイエス様と律法学者との律法論争の一つで、聖書協会共同訳聖書の小見出しは「最も重要な戒め」です。
本日の箇所を、解説を加えて振り返ってみます。
イエス様の所に一人の律法学者がやって来て、イエス様に尋ねました。
「あらゆる戒めのうちで、どれが第一でしょうか。」
モーセが神から授けられたとする戒め、律法は、全部で613あると言われていました。後世の言い伝えや「ラビ(先生)、誰々が言った」と伝えられる律法の解釈も、すべて戒めとして守られていたと言いますから、その当時は、戒め、律法の数は、無数にあったと考えられます。その無数にある戒め、律法の中から、「どの戒めがいちばん重要でしょうか」と、律法の専門家である律法学者がイエス様の所に来て、尋ねたのです。
これに対して、イエス様は、こうお答えになりました。29節から31節です。
「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めはこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる戒めはほかにない。」
この第一の戒めというのは、先ほど読んでいただきました本日の旧約聖書の申命記6章4節から5節に、記されている戒めです。
「聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」です。
これは、十戒の中にはないのですが、モーセが、神から啓示を受けた言葉です。当時のユダヤ人なら、誰でも知っている、最も大切な戒めの一つでした。「私たちの」神とわざわざ断るのは、出エジプトなど、神との親密な歴史を思い起こさせ、神の愛に注意を促すためです。その愛に気づいた者に「あなたの」神を愛しなさい、と呼びかけているのです。「心、魂、思い」など、人間存在のすべてをかけて神を愛しなさいと命じていますが、そうできるのは、神が先に人を愛したからです。
そして、イエス様は、続いて、「隣人を自分のように愛しなさい」と、第二の戒めを語られました。これも旧約聖書のレビ記19章18節にある戒めです。
「復讐してはならない。民の子らに恨みを抱いてはならない。隣人を自分のように愛しなさい。私は主である。」という律法です。これは自己愛を肯定するのではなく、自己愛に含まれる熱心さに目を向けさせ、自分を愛するあの熱心さで隣人を愛するように、と求められているのです。
申命記とレビ記に記された、この二つの戒めは、両方とも、当時のユダヤ人なら誰でも知っている戒めでした。この二つの戒めを並べて、「この二つにまさる戒めはほかにない」と、イエス様は言われたのです。
神への愛が「第一」とされ、隣人愛が「第二」とされますが、この区別は戒めの優劣を示すのではなく、単純に順序を示し、「(同じように重要な戒めの)一つ目は…二つ目は…」という意味です。イエス様にとって大事なことは、「これら(神と隣人への愛)よりも大きい、他の戒めはない」ということです。つまり、イエス様によれば、神と人への愛は他の戒めに抜きん出た戒めであり、律法全体を集約する戒めであるということです。こう言い切ったところに、旧約聖書と比べてイエス様の新しさがあると言えます。
このイエス様の答えに対して、律法学者は言いました。32節から33節です。
「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』と言われたのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くすいけにえや供え物よりも優れています。」
律法学者はイエス様の考えに賛意を表しますが、二つの点でイエス様の考えを補強しています。まずは、32節で「ほかに神はない」を加え、神の「唯一」性を強調しています。次に、33節で「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を共に「優れています」の主語としていることから分かるように、二つの愛をいっそう緊密に一つとし、それを「どんな焼き尽くすいけにえや供え物よりも優れています」と述べ、愛を欠いた祭儀のむなしさを主張しています。
そして、最後にイエス様は律法学者の答えを適切と認めた上で、「あなたは神の国から遠くはない」と言われました。この時、イエス様が言われた「遠くはない」とは、どういう意味でしょうか?
イエス様が「遠くはない」と言われたのは、まだすべきことが残っているからと考えられます。律法の理解はこの律法学者と一致している。しかしこれだけでは不十分である。では何が足りないか? それは「イエス様の福音を信じること」と考えます。これに「聞き従うことがまだ行えていない」とイエス様は言っているのだと思います。この後は誰も質問しませんでした。
このような話でした。
さて、本日の箇所で神様が私たちに伝えたいと思っているのは、どのようなことでしょうか?
それは、一言で言えば「神と隣人を愛しなさい」ということであると言えます。しかし、愛は命じられて行うことなのでしょうか? ここの「愛しなさい」と訳されたギリシャ語原文を見ると、神の愛を表す「アガパオー」の二人称・単数・未来形でした。「あなたは神と人を愛するでしょう」ということであり、英語の聖書(NRSV)ではYou shall love ~. とありました。神から愛された経験が先にあり、だから、「神と隣人を愛するだろう」というのであります。神と隣人を愛する前提には神がまず先に人を愛したということがあり、それに応えて人が神を愛しその愛に生きるとき、隣人も愛することができるということなのだと思います。神様はそのことを私たちに伝えたいのではないでしょうか?
私たちが神を愛し隣人を愛することの前提に、先に神が私たちを愛しておられること、そのことで思い浮かぶ言葉があります。それは「マザー・テレサの二つの聖体拝領」です。この言葉は、粕谷甲一神父の書かれたこの本「キリスト教とは何か⑧ 新しい霊性を求めて」の中にあります(P.204)。
この本に、1976年のシンガポールで行われた第1回宗教者平和会議でのマザー・テレサの10分間のスピーチが紹介されています。
そこで、マザーは「自分は1日2回聖体拝領をする」とおっしゃり、そしてそれは「1回は毎朝のミサでの聖体拝領(陪餐)で、2回目は修道院の外で貧しい人との出会いの中でする聖体拝領だ」と言われたそうです。粕谷神父がその宗教者平和会議に参加していて、そのスピーチを記したのです。
マザー・テレサと彼女の修道会のシスターたちは毎朝のミサでイエス様の体である御聖体をいただいていました。それは神が私たちを愛しておられることの証明です。それが1回目の聖体拝領です。そしてマザーとシスターたちは、道を歩いている時、路上で倒れて死にかかっている人を「死を待つ人の家」に連れて帰り、体を洗って人間らしい死を迎えさせ、また、食べ物がなく弱っている人に食料を運ぶことをされていました。その中で、この貧しい人々の中におられるイエス様とも出会っておられたのです。それを「2回目の聖体拝領だ」とマザーは言っておられました。それは隣人愛の実践ですが、神からの恵みでもあるのです。
私も毎朝、朝の祈りとロザリオの祈りを捧げています。そして、月2回、休みの月曜に障害者施設でミュージック・ケア(集団音楽療法)を行っています。神と隣人を愛する実践ですが、神の恵みを感じる時でもあり、「二つの聖体拝領」と言えるかもしれません。神は私たちが愛を行う前に私たちを愛してくださり、それに応えて、私たちは神を愛し人を愛するのであります。
ところで、本日は礼拝後、午後1時30分から嶺公園の教会墓地で「逝去者記念の式」が行われます。本日この式を行うのは、一昨日11月1日が諸聖徒日、昨日2日が諸魂日であり、これらの日に最も近い主日であることによります。諸聖徒日は世を去ったすべての聖徒(聖人)たちのために祈る祝日であり、諸魂日は世を去ったすべての信徒・死者の魂のために祈る日です。
また、本日の墓地礼拝では、S・A兄のお骨出しも行われます。A兄のお骨は分骨され、一部はこのまま前橋の墓地に置かれ、本日出されたお骨はしばらく前橋の教会の祭壇の下に安置され、来年の春に高崎の教会墓地に埋葬される予定です。来週からしばらく、毎主日、一緒に礼拝に預かることになりますのでご承知おきください。
先ほど、神がまず先に人を愛したということを話しましたが、私たちの教会墓地に葬られている信仰の先達も神に愛されてこの世の人生を全うされたのであります。
皆さん、人が神を愛する前に、神は私たち人間を愛しておられるのであります。この神の愛を生きて示したイエス様の福音に耳を澄まし聞き従うとき、人は神と隣人への愛を生きる者へと変えられていきます。
神と隣人を愛するという、この最も重要な戒め、それを私たちの生活の中で実践することができるよう、そして、神の恵み、神の愛の中に生きていることを思いながら、感謝のうちにこれからの日々を過ごせるよう共に祈りを捧げたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン