マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第6主日 聖餐式 『イエス様の言葉に聞き入る』

 本日は聖霊降臨後第6主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、創世記18:1-10bとルカによる福音書10:38-42。『マルタとマリアの話』から、「主の足もとに座って」主の言葉に聞き入ることこそが必要であることを知り、このような態度で、日々、神様の前に身を置き、主の言葉を聴くことができるよう、祈り求めました。フェルメールの「マルタとマリアの家のキリスト」や英隆一朗神父の「イエスに出会った女性たち」も活用しました。

   イエス様の言葉に聞き入る

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第6主日です。旧約聖書は「創世記」のアブラハムが三人の旅人に給仕する箇所、福音書では「ルカによる福音書」のマルタとマリアのイエス様一行へのもてなしの箇所が読まれました。

 福音書を中心に考えます。
 先主日福音書では、ある律法の専門家が「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」とイエス様に問いました。イエス様は彼に「律法には何と書いてあるか」と逆に問われました。専門家は、「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と正しく答えます。そこで語られたのが有名な「善きサマリア人のたとえ」です。それは「隣人を自分のように愛しなさい」に関わったたとえ話でした。
 今日の箇所では、残された一つ、「心を尽くして神を愛する」とはどういうことかに重点が置かれています。

 今日の箇所を振り返ってみましょう。
 今日登場するのはユダヤ人の二人の女性です。当時の女性は社会の中心にはいませんでした。神殿においても、女性が入れる場所は限られていました。今で言えば、この聖堂に入れるのは成人男性だけで、女性や子どもは玄関までということです。しかし、イエス様の周りには12弟子を始めとする男性の弟子たちと共に女性たちがいました。これは当時の社会にあっては考えられない状況でした。今日の箇所を読むに当たって、そういう社会的背景を頭に入れておくことは重要だと思います。

 このマルタとマリアの話は多くの画家が題材にしています。今日はフェルメールの「マルタとマリアの家のキリスト」をプリントアウトしてきました。

フェルメールにしては珍しい宗教画(二枚のうちの一枚)です。この絵は、マルタがイエス様の許へパンを持ってくるところに、イエス様がマリアを指差しながらマルタに話しかけている様子が描かれています。イエス様の表情はマルタの気持を静めているように見え、マリアの方は、低い台に腰をかけてイエス様の話に熱心に聞き入っています。

 聖書本文に入ります。本日の福音書の最初はこうです。38節です。「さて、一行が旅を続けているうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタと言う女が、イエスを家に迎え入れた。」
 ここでイエス様と弟子たちの一行がある家に「迎え入れられた」のは、宣教の旅での出来事です。前提とされていることは、マルタの信仰です。彼女は信仰によってイエス様たちを迎え入れたのです。

 そのマルタにマリアという妹がいました。39節です。「彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた」のでした。
 この箇所で「座る」と訳された言葉は、原文では「かたわらに座る」という意味の言葉です。通常の「座る」に「かたわらに」を意味する言葉がついている合成語です。「足元に」とあるのですからそれだけで意味は通じるのに、わざわざ「かたわらに」を付け加えています。その家の中には大勢の人がいるのです。12弟子がいたでしょうし、共に旅をしている他の弟子たちもいたと考えられます。そういう人々が大勢いる中で、マリアはまるで当時のユダヤ人男性がラビ(律法の教師)から学んでいるように、イエス様の足元の最も近い所に座って、「その話を聞いていた」のです。ここの直訳は「彼の言葉に聞き入っていた」です。「話」ではなく「言葉」、ギリシア語では定冠詞がついた「言葉(ロゴス)」、それも「彼の言葉」、つまり「主」の言葉です。その言葉によって人が生きもし死にもする。そういう重要な言葉です。その言葉をマリアは主の足元、かたわらに座って一心に聴いていたのです。

 そのマリアを見て姉のマルタが腹を立てました。40節の前半にこうあります。『マルタは、いろいろのもてなしのために忙しくしていたが、そばに立って言った。』
 「もてなし」とは他の箇所ではしばしば「給仕」や「奉仕」と訳される言葉(ディアコニア)で、極めて大切な言葉です。本日の旧約日課アブラハムの三人の旅人への「給仕」がギリシャ語では「ディアコニア」です。ここで「忙しく」と訳されている言葉は「脇へ」と「そらす」の二つの言葉の合成語で、ここでは受身形ですから「脇へそらされて」という意味です。
 続いて、マルタはイエス様のそばに立って、こう言いました。
「主よ、姉妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
 マルタは言葉としては「主よ」と言っています。しかし、彼女には「この家の主人は私だ」という思いがあるように思います。彼女はマリアにも腹が立っているのですが、そのマリアを目の前にし、自分が忙しく働いているのを見つつ、何もおっしゃらないイエス様にも腹を立てたのです。
 
 そのイエス様はこうおっしゃいました。41・42節です。
「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」
 聖書の中で、神様やイエス様が名前を二度呼びかける場面は、いずれも重要なことを語る場面です。ここでの繰り返し「マルタ、マルタ」は愛情のこもっている呼びかけです。マルタは今、「いろいろなことに気を遣」っている、とイエス様は言われます。そして、「思い煩っている」と。愛情のこもった助言です。
 さらに、イエス様は「マリアは良いほうを選んだ」と言われます。その「良いほう」とは何でしょうか? それはイエス様の言葉を聴くことです。私たちは、御言葉を一心に聴くことによって、初めて神を愛し、隣人を愛することができるのであります。

 この本、英隆一朗神父の「イエスに出会った女性たち」の「8章 マルタの姉妹、マリア-イエスに聴く」の中にこうあります。

『イエスにとって「必要なことは一つだけである」。イエスはまずご自分の救いの言葉をじっくりと聞いてほしいのだ。もてなしもうれしかっただろうが、それよりも自分の教えに耳を傾けてほしいのである。そうでなければ、結局、私たちの思い煩いや、心の乱れは直らないからである。だからこそ、マリアの態度に貴重な意義があると言えるだろう、イエスの言葉をじっくり聴くところに、信仰者の基本的な態度が示されているのである。(中略)イエスは全ての信者にパーソナルで親密なかかわりを求めておられる。イエスと言葉を交わし、心の触れ合いを味わったマリアは、たしかに良いほうを選んだのである。』
 イエス様は私たちがイエス様の言葉、御言葉を聴くことを望んでおられます。それに応えるにはどうしたらいいでしょうか? 日々、神様の前に身を置き、主の足元、かたわらに座って、聖書を読み祈ることではないでしょうか? 

 私は、特別なことがない限り、聖務日課として毎日、祈祷書の「朝の礼拝(または「朝の祈り」)」を行っていますが、その中で聖公会手帳の「聖書日課」の「第1日課及び第2日課」の箇所を読み、祈っています。最近は、病床にある人が多いので、「朝の祈り」の後、名前を挙げて癒しを願い「ロザリオの祈り」を捧げています。これは、皆さんにもお勧めできる神様とのパーソナルな時間です。

 皆さん、今日の聖書個所で神様は、もてなしや奉仕は大切だが、あれこれ手をつけ「気を遣い、思い煩ってい」る状態でなく、「主の足元に座って」主の言葉に聴き入ることこそがお望みであることを示されました。私たちはこのマリアのような態度で、日々、神様の前に身を置き、主の言葉を聴くことができるよう、祈り求めたいと思います。