主イエス命名の日『マリアに倣いイエス様と共に歩む』
本日は1月1日、主イエス命名の日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。おそらく私が元旦の礼拝をマッテア教会で司式するのは最後だと思います。

聖書箇所は、民数記6:22-27、詩編 8、ガラテヤの信徒への手紙4:4-7及びルカによる福音書2:15-21。説教では、イエス様が「イエス(主は救い)」と命名されたことの意味を考え、「神の言葉や出来事をすべて心に留めて、思い巡らしていたマリア」に倣い、その姿勢を持ち続け、生涯、イエス様を信頼して歩むことができるよう祈り求めました。
本日のテーマと関係するイエス様の存在の意味を表した「主よ、人の望みの喜びよ」をケルティック・ウーマンのCDで聞きました。
本日の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
皆さん、新年あけましておめでとうございます。元旦、お正月の朝に皆さんと一緒に礼拝を捧げることができ、感謝いたします。
皆さんご存じのことと思いますが、私は今年の3月31日で定年退職いたします。髙橋主教様が昨年の教区会の主教告示で、私に関してこうおっしゃっています。主教告示は教区時報(見せる)にも掲載されています。こうあります。
『未だ先ですが、来年3月末日をもって、福田弘二司祭が定年退職となります。経験と賜物を活かされ北関東教区で奉仕くださったことへ深く感謝いたします。』
私は60歳で定年退職してから神学校に入学しました。それまで38年間、教員として過ごしました。最初の10年間が通常教育、その後の28年間が特別支援教育です。それが私の経験です。また、私は10歳の時からピアノを習いましたが、それは小学校や養護学校の音楽の授業等で大いに役立ちました。それが私の賜物かもしれません。今もそれらを活かして月2回、障害者施設でミュージック・ケアのボランティアをしています。私は3月末で牧師を退職しますが、司祭は死ぬまで、いや天国に行ってもイエス様と共に司祭として司式します。今後も、主教様がお話しされたように私の経験と賜物を活かして、聖務(ministry)を、神が私に託した務めを果たしたいと思っております。
さて、本日は教会の暦では、「主イエス命名の日」という特別の日です。カトリック教会では「神の母聖マリアの祝日」であり「世界平和の日」でもあります。
「神の母」と言いますが、本当は神様には母親はいないのですが、マリアはイエス様の母だったので、「神の母(テオ・トコス)」という称号で賛えられています。「ロザリオの祈り」の後半では「神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。」と祈っています。
イエス様は、生まれて8日目に、当時のユダヤの習慣に従って、割礼を受けられました。そして、「イエス」と名がつけられました。この名前は、母マリアの胎内に宿る前に、天使から示された名前であります(ルカ1:31)。
「イエス・キリスト」と言いますと、イエスが名前で、キリストが苗字だと思っている人がいるかもしれませんが、そうではありません。「キリスト(ギリシャ語でクリストス)」とは、ヘブライ語ではメシア、「油注がれた者」、「救い主」という意味です。後の時代にイエス様を神の子と信じた人たちから、つけられた称号、身分を表す肩書きです。
「イエス」は、ギリシャ語で「イエスース」と言い、その意味は「主は救い」です。ヘブライ語では「ヨシュア」と言い、「ヤーウェは救いである」を意味しています。イエスという名は、ユダヤ人の間で、ありふれた名前で、非常に多かったようです。そこで「ナザレのイエス」のように出身地を入れて特定したようです。日本でも苗字がなかった時は「~村の○○」と言っていましたね。
「主イエス命名の日」は、単に、生まれたばかりの幼子に、イエスという名前がつけられたことを記念するだけではありません。日本には「名は体をあらわす」という言葉がありますが、名前は、物事の本質、または存在そのものを意味するしるしでもあります。イエス様は「主は救い」という名前の本質、そのものなのです。
私たち聖公会では神の子となった時に洗礼名をいただきます。それはキリスト者としての名前で、新たな人生の始まりを意味します。
私の洗礼名はマルコです。私が洗礼を受けるときのマッテア教会の牧師であった斎藤章二司祭様と話し合って決めました。マルコは世界最初の福音書を記しました。マルコ福音書の中で、イエス様が捕まったときに、人々に上着を捕まれてそれを取られても走り逃げた若者のことが記されていますが、それがマルコであると考えられています。このように信仰の薄かったマルコですが、イエス様の復活後は信仰に目覚め、イエス様のことを後世に残さなければと思い、マルコ福音書を記しました。そして最期は殉教したと考えられています。私もこのマルコのように信仰に目覚め、イエス様のことを伝えたいと願います。
私たちは「主イエス命名の日」に、「イエス(主は救い)」と名付けられた神の御子への信頼と感謝を、新たにしたいと思います。
先程読んでいただいた本日の使徒書、ガラテヤの信徒への手紙4章7節に「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人でもあるのです。」とあります。相続人ということは神様の恵みをいただく相続人ということ。そして、奴隷でなく子であるということは、解放され神様の恵みを全ていただく者ということです。そのことを思い起こしたいと思います。
本日の福音書では、誕生したイエス様を最初に礼拝しに来たのは羊飼いたちで、イエス様の誕生を伝えた天使の話などを聞いて、「マリアはこれらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた。」(ルカ2:19)とあります。
ここの「これらのこと」の「こと」はギリシャ語では「レーマ」の複数でした。「レーマ」は通常「言葉」と訳されますが、「出来事」と訳されることもあります。本日の福音書の15節の「主が知らせてくださったその出来事」の「出来事」がレーマでした。また、17節の「天使から告げられたこと」の「こと」もレーマでした。
「レーマ」とは出来事となる言葉であり、出来事となった言葉です。「マリアはこれらのことをすべて心に留めて」とある「心に留める」は未完了形でした。未完了形は動作の継続や反復を表します。ですからマリアは「レーマ」を心に留め続けたのです。マリアの神の言葉に対するこの姿勢を持つことを、神は私たちに求めているのだと思います。
また、「心に留める」と訳されたギリシャ語は「シュンテーレオー」です。この語は「心に忘れないように留め置く」ことを意味します。「シュンテーレオー」は「共に」を意味する「シュン」と、「守る」を意味する「テーレオー」の合成語です。マリアは「共に守った」のです。誰と共にかと言えば「主と共に」「イエス様と共に」であり、マリアはイエス様と一緒に、イエス様と共に「心に留め守り続けた」のでした。
さらに、「思い巡らす」と訳されたギリシャ語は「シュンバロー」で、こちらも「共に」を意味する「シュン」と、「投げる」を意味する「バロー」の合成語です。それは、本来、「共に投げ合う」ことを意味し、論じ合ったり、助け合ったりすることであり、そこから派生して、「(心の中で)じっくり考える、熟考する」といった意味にもなりました。マリアは一人で思い巡らしたのではなくイエス様と一緒に、イエス様と共に、「じっくり考えた」のでした。
そのイエス様とは、私たちにとってどのような存在でしょうか? そのことを表した曲があります。有名な「主よ、人の望みの喜びよ」です。今日は、ケルティック・ウーマンのCDで聞いていただきたいと思います。

週報の裏の歌詞をご覧になりながらお聞きください。
https://www.youtube.com/watch?v=JA1P2jG-EnE
Jesu, joy of man's desiring
Holy wisdom, Love most bright
Drawn by Thee, our soul aspiring
Soar to uncreated Light
Word of God, our flesh that fashioned
With the fire of Life impassioned
Striving still to truth unknown
Soaring, dying round Thy throne
イエスよ、人の望みの喜びよ
聖なる知恵、最高に輝く愛よ
汝が惹かれし、我らが魂の切なる望みは
永遠の光を求めてやまぬ
神の言葉よ、我らが肉体は
熱き命の火によって創られ
いまだ知らぬ真理を追い求めつつ
汝の玉座のかたわらに果てん
"Jesu(イエス), Joy of Man's Desiring"は直訳すれば、「主(イエス)こそが、人の望む喜び」であり、イエス様自身が私たち人類が望む「喜び」そのものであることを示しています。その主イエス様に信頼しつつ、召される時までイエス様と共に歩むことができるようにと願います。
皆さん、新しい年の始まりにあたって、イエス様が「イエス(主は救い)」と命名されたことの意味を考え、解放され神の相続人となった私たちに神様が何を求めているか考えたいと思います。2025年もウクライナやパレスチナの戦闘の終結の道が見通せない状況で、能登半島地震の復興もまだ余り進んでおりませんが、神様は必ず脱出の道を示してくださることを信じます。私たちは「神の言葉や出来事をすべて心に留めて、思い巡らしていたマリア」に倣い、その姿勢を持ち続け、この一年、そして生涯、イエス様を信頼して歩むことができるよう祈り求めて参りたいと思います。
新年を迎え、一言お祈りいたします。
父なる神様、主イエス命名の日、また「神の母聖マリアの祝日」であり、一年の始まりの元旦の礼拝に、私たちをお招きくださり、ありがとうございます。あなたは、独りの御子をこの世に送り、「主は救い」を表すイエスと名付けられました。罪の奴隷になっていた私たちを解放し子としての身分を授けるため、イエス様をこの地上に遣わしてくださり感謝します。私たちは「神の言葉や出来事をすべて心に留めて、思い巡らしていたマリア」に倣い、その姿勢を持ち続け、イエス様を信頼して新しい年も歩んでいきたいと願います。この一年の間、そして生涯、そうできるよう、私たちを守り導いてください。
また、世界に平和が訪れることができるよう、すべての人が平穏に過ごせるよう、私たちに知恵をお与えください。
これらの感謝と祈りを、私たちの主イエス・キリストのみ名によって御前にお捧げいたします。アーメン