マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第5主日 聖餐式 『隣人となられる神』

 本日は聖霊降臨後第5主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、申命記30:9-14とルカによる福音書10:25-37。「善きサマリア人のたとえ」から、神様が「見て、憐れに思い、近づいて」隣人となられることに思いを馳せ、憐れみの行いを続けることができるよう、祈り求めました。ゴッホの絵画「善きサマリア人」も活用しました。

   隣人となられる神

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
  
 本日は聖霊降臨後第5主日(特定10)です。福音書の箇所はルカ10:25-37で、有名な「善きサマリア人のたとえ」です。 
 今日の箇所を振り返ります。この箇所は大きく二つに分かれます。まず25-29節です。ここが第1部です。
  ある律法の専門家がイエス様を試すために、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と聞きます。「永遠の命」は、聖書では、天の国とか、神の国とか、救いという言葉と同じ意味で使われています。
 「律法の専門家」とは、旧約聖書の律法に永遠の命に至る救いがあることを信じ、学んでいた人です。さらに、律法の教師として民を指導していました。ですから自分は救いに至る道を知っているという自負があったと思われます。イエス様は、逆に、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」と問い返します。それを受けて、律法の専門家は、「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と答えました。これは、ほぼ前半は申命記6:5、後半はレビ記19:18からの引用です。イエス様は「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」とおっしゃいました。
 それに対して、この専門家は、今度は自分を正当化しようとして、もう一つの問いを発しました。「では、私の隣人とは誰ですか」と。私が愛する隣人とは誰なのかと問うのです。「自分を正当化しようとして」の表現から、隣人の範囲、つまり「同胞ですよね」というニュアンスが感じられます。
 ここまでの所が前半です。少し解説します。
 原文のギリシャ語では、25節で律法の専門家が言った「何をしたら」は「何をただ一度行って」という意味の分詞形で書かれていました。ですから、律法の専門家はただ一度で永遠の命を得る行為は何かとイエス様に尋ねたことが分かります。そのことに対するイエス様の答えは28節で「実行しなさい。」と言い、原文では「行い続けなさい」と継続・反復を意味する形で書かれていました。つまり、律法の専門家の質問は一回の行為を表しているのに、イエス様は継続的な行いを命じているとみることができるのです。イエス様は「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と命じておられます。それとは『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』ということで、それを継続的に行うことで永遠の命に至る救いが得られると、イエス様はおっしゃっておられます。ここでは、誠心誠意、全精力でもって「神を愛し隣人を愛し続ける」ことが求められていると言えます。律法に込められた神様の思いを行い続けるとき、人は永遠の命を受け継ぐことになるのです。
 それに対して、律法の専門家は「では、私の隣人とはだれですか」と隣人の範囲を聞いてきました。この背景には、新約聖書の時代となり、民族主義が高まるにつれ、他民族は隣人から除外される傾向が強まっていたことがあります。
 
 そして、イエス様は「善きサマリア人のたとえ」をお語りになりました。第2部に入ります。こんな話です。
 ある人がエルサレムからエリコに向かっていく途中に追い剥ぎに襲われて道で倒れます。この人について何も記していませんが、ユダヤ人と考えられます。そこに、先ず祭司が通りかかります。祭司というのはユダヤ人社会における宗教的な指導者です。エルサレム神殿で儀式を執り行う、非常に地位の高い人でした。しかし、倒れている人を見ると、反対側を通って行きました。続いて、神殿で祭司を補佐していたレビ人が通り掛かるのですが、同じように、反対側を通って行きました。三番目に、当時、ユダヤ人と敵対しユダヤ人から見下されていたサマリア人が通り掛かります。このサマリア人は、道端で倒れているユダヤ人に目を留めて、気の毒に思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯をし、自分の家畜(ロバか馬)に乗せ、宿屋に連れて行って介抱し、その代価を払ったのです。このサマリア人は精一杯の消毒や手当を行い、さらに、宿屋の主人に「費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」とまで約束したのです。

 この「善きサマリア人のたとえ」を描いた絵画はたくさんありますが、私が思い浮かべたのは、ゴッホのこの作品です。

 彼は小柄な若い男性を抱き上げる、たくましいサマリア人を描いています。ゴッホの特長である黄色や黄土色にうねる線が一種の迫力を生み出しています。画面の左には道を立ち去るレビ人、その先に祭司の姿が見えます。

  たとえの後、イエス様はこの専門家に次のように問いかけます。「さて、あなたはこの三人の中で、誰が追い剥ぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法学者は、「その人に憐れみをかけた人です」と答えます。それに対して、イエス様は、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。これは28節の「実行しなさい」と同様に継続・反復の意味が込められています。さらに「あなた」も強調されていますので、「あなた自身が行い続けなさい」とイエス様は命じておられることが分かります。助けを必要とする人の隣人になるのは他の誰かではなく「あなた自身」であり、憐れみを行うという生き方を続けていくことが求められています。

 有名なたとえ話で、日曜学校でもよく話をして、この話は、「誰でも隣人ですよ。だから困っている人を助けましょう」という話と思っていたところがありますが、今回原文に忠実に読み直して、新たな視点が与えられました。
 祭司とレビ人は追い剥ぎに襲われた人を見て、反対側を通って行ったとありますが、その理由は書かれていません。おそらく重要でないと思われたのでしょう。原文では「その場所に来て、そして見て」「反対側を通り過ぎて行った」とありました。場所に関心があり「追い剥ぎに襲われるような危ない場所だから、そこを避けた」というニュアンスで、倒れた人に目が向いていませんでした。しかし、サマリア人は「その人を見て気の毒に思い、近寄っ」たのでした。原文では「見て、憐れに思い、そして近づいた」とありました。サマリア人は傷ついた人に関心を持ち、彼に目を留め、憐れに思い近づいていき、介抱したのです。
  ここで「気の毒に思い(憐れに思い)」と訳された言葉は、以前にもお話ししましたが、ギリシア語で「スプランクニゾマイ」という言葉です。この言葉は「スプランクナ(はらわた)」を動詞化したもので、「人の痛みを見たときに、こちらのはらわたが痛む」「はらわたがゆさぶられる」ことを意味する言葉です。 新約聖書ではこの言葉「スプランクニゾマイ(憐れに思い)」によってイエス様や神様の業、行動が導かれています。 
 「気の毒に思い(憐れに思い)」は群馬弁で言えば「おやげねー」ということでしょう。ギリシア語の「スプランクニゾマイ」の意味に合う方言としては、沖縄の「ちむぐりさ(肝苦(ちむぐ)りさ・・・心が苦しい)」が思い浮かびます。人の心の痛みを自分のものとして一緒に心を痛めること。あなたの苦しみを自分の苦しみとする、そんな意味です。

 「善きサマリア人のたとえ」と同様に「その人を見て憐れに思い、近寄っ」てという言い回しが用いられている例としては、有名な「放蕩息子のたとえ(いなくなった息子のたとえ)」があげられます。ルカによる福音書15:20にこうあります。「そして、彼(息子)はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」放蕩息子の父親が息子を「見つけ」「憐れに思い」「走り寄って」という行いが表現されています。この父親は人を憐れむ神様を表していると思われます。二つのたとえの表現から、神様の愛は「見て、憐れに思い、近寄っ」て傷ついた人を命の危険から助け出し、生きる場を失った人に一方的に与えられることに、気づかされました。
 
 皆さん、神様は傷つき倒れる者を見過すことなく、「見て、憐れに思い、近づいて」隣人となってくださいます。この神様の愛に出会うとき、人は傷つく人の「隣人となる」ことができるのだと思います。
 憐れむ神様がそばに来ていることを語る「善きサマリア人のたとえ」は、神様の愛に支えられて、人は愛する者の隣人になることができると教えています。

 私はこれまで障害のある子どもや保護者の隣人として、教育やミュージックケアなど自分のできることで尽くしてきました。私には、その子らによって救われた経験があり、実はその子らは神様が私を愛するがゆえに姿を変えて現れてくださったと思っています。
 先日、ミュージックケアを昨年12月まで行っていた障害者施設の施設長から、「またセッションを再開してほしい」との連絡があり、明日からまた、月二回その施設で知的障害のある利用者とミュージックケアを行うことになっています。昨年ミュージックケアを行った「吾妻郡手をつなぐ親の会」からもまた依頼があり、9月にセッションを行います。このような活動を今後も続けていきたいと思っています。人には必ず、何かそのようなことが与えられていると思います。

 私たちは常に神様が「見て、憐れに思い、近づいて」隣人となってくださっていることに思いを馳せ、憐れみの行いを続けることができるよう、祈り求めたいと思います。