マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

顕現後第1主日・主イエス洗礼の日『無心の祈りと信仰により神とつながる』

本日は顕現後第1主日・主イエス洗礼の日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、イザヤ書43:1-7、詩編29、使徒言行録8:14-17及びルカによる福音書3:15-17・21-22。説教では、洗礼の意味をつかみ、無心の祈りと信仰により神様とつながり、イエス様の弟子として歩んでいくことができるようよう祈り求めました。
 本日のテーマと関係するハレスビーの「祈りの世界」の文章を紹介し、活用しました。
 本日の説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 2025年になり、初めての聖餐式です。
 皆さん、新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 私は一昨日の1月10日で70歳になりました。3月末日で牧師や管理牧師の職務は退職となります。しかし、司祭としての職位はずっと続き、名前の通り聖餐式等の祭りは司っていきます。
 
 さて、本日は教会の暦では、顕現後第1主日・主イエス洗礼の日です。
 顕現日(カトリック日本キリスト教団では公現日)は1月6日で、英語やフランス語ではEpiphanyといい、もとのギリシア語「エピファネイア」は「出現」を意味する語です。英語のappearなどの語源です。顕現日は、異邦人であった博士がイエス様と出会ったことから、救い主がユダヤ人だけでなく、異邦人にも現れて下さったことを記念する日です。ユダヤ教では救いの対象はユダヤ人だけであると信じられていました。しかし救い主であり、神の独り子であるイエス・キリストは、公に異邦人にも現れて下さったのです。このことを感謝し、記念するのが顕現日・公現日です。
 実は、もともとは、イエス様の洗礼を祝うことが、この祝日の意図だったようです。 本日の福音書の箇所で、イエス様は、ヨルダン川で洗礼を受けられたときに、「あなたは私の愛する子」と神様によって宣言されたことにより、神の子とされて世界に現れたのだと言って、この日を顕現日としました。イエス様の洗礼を祝うことと、顕現を祝うことは同じことであったのです。
 顕現日(1月6日)が主日になるとは限らないので、その後の主日にイエス様の洗礼を祝う日を一緒にしたようです。

  今年は聖書日課のC年で、主にルカの福音書が読まれ、先ほどは3:15-17、21 -22が朗読されました。今日の箇所は2つの部分から成り立っています。人々が洗礼者ヨハネをメシアと考えた15-17節とイエス様がヨハネから洗礼を受けた21 -22節です。

 今日の箇所はそれほど長くないので、それぞれ読みながら考えてみましょう。 まず15節です。
『民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。』
 「メシア」(ヘブライ語)は「キリスト」(ギリシア語)と同じく「油注がれた者」の意味で、神様が遣わす救い主を意味します。「ヨハネ」はもちろん洗礼者ヨハネのことです。ヨハネの説教があまりにも力強かったので、人々はこの方がキリストではないかとさえ、思ったのでした。なお、「民衆」と訳されたギリシャ語は「ラオス」で「救いを受け入れる準備のできた民」を指し、雑多な「群衆」とは区別されています。
 続いて16・17節です。
ヨハネは皆に向かって言った。「私はあなたがたに水で洗礼を授けているが、私よりも力のある方が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる。その手には箕がある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる。」』
 この洗礼は私たちが受けたような滴礼でなく、浸礼です。現在、バプテスト教会がするような水に浸かるやり方です。履物のひもを解くことは、しもべが主人にすることですが、ヨハネはそれさえもできないほどキリストが尊い方であると話しています。
 ヨハネは「水」で洗礼を授けましたが、それは「悔い改めの洗礼」(ルカ3:3)であり、「主の道を整える」(ルカ3:4)ための準備にすぎません。「聖なる霊と火」における洗礼は、個々人を対象とする洗礼ではなく、すべての者を含み込む「聖霊降臨」という出来事を指すと思われます。
 洗礼者ヨハネは、民衆に、自分の後に来られる方こそ、聖なる霊と火において洗礼を授ける偉大な方なのだと示したのです。そこには私たちを包み込むイメージがあります。そして、その方は裁きを行いますが、麦は倉に納めます。つまり、良い実は救われるのであります。

 最後に21 -22節です。
『さて、民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。』
  聖霊と火で洗礼を授ける方が、なんと民衆と一緒に洗礼を受けに来られていたのです。だれも、この方がキリストであると気づかなかったでしょう。イエス様は、他の人と特に変わるところはなく、人々の中に交じっていたのです。
 天から聞こえた「あなたは私の愛する子、私の心に適う者(直訳「私はあなたを喜ぶ」)」という言葉は、私たちすべてに向けて語られている言葉だと言えます。私たち自身の洗礼はこのことを意味しています。天の父なる神様が私を愛する子と言ってくださり、喜んでおられるのです。
  洗礼とは、神様とつながり、それを受ける者が、神様の愛される子、神様のみ心に適う者であることが、はっきりと示されることです。
  また、洗礼は主イエス様を信じ聖霊を受けることとも言えると思います。

 今回、この箇所を読んで注目した言葉があります。
 それは21節の「イエスも洗礼を受けて祈っておられると」というところの「祈っておられると」という言葉です。ここは原文のギリシャ語では「プロセウコマイ」の現在分詞形で動作の継続を表し、直訳すると「祈りつつ」となります。 「プロセウコマイ」は、「プロス(前に)+エウコマイ(置く)」ですが、では「何の前に何を置くか」と言えば、「神様の前に自分自身を」ということではないかと思います。つまり、「祈る」とは「神様の前に自分を置く」ことなのであります。「祈り」とは神様との関わりを求めることであり、この箇所では、イエス様はいわば民衆を代表して神様との交わりを求めていると言えます。
 イエス様は、大切な時にはいつも「神様の前に自分を置く」いう祈りをしています。本日の洗礼を受ける時の他、12使徒を選ぶ時にも(ルカ6:12)、変容の時にも(ルカ9:29)、主の祈りを教える時にも(ルカ11:1)、、受難を前にオリーブ山(ゲッセマネ)に行った時にも(ルカ22:39)、イエス様は祈っています。
 本日の箇所では、この祈りに応えて、天が開かれます。それはイエス様の祈りに対する神の応答であり、その内容が22節で視覚と聴覚で明らかにされました。視覚は「聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降って来た」ことであり、聴覚は「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という天からの声です。
 この天からの声を受けて、受肉され神の具体的な姿であるイエス様は重い務めを果たしていきます。先ほど福音書朗読の前に歌った聖歌112の2節はこのことを歌っています。こうあります。
ヨルダン川に 立たれしときに  愛のみ声を 天より受けて
 重きつとめを 担いたまいぬ  世にあらわれし 神をたたえよ』
 この洗礼後、イエス様は公生涯を始め、聖務(Ministry)を果たしていくことになります。

 イエス様は生涯で大切な時にいつも祈っていましたが、私たちも人生の大切な時には祈ってきたと思います。「祈り」とはどのようなことなのでしょうか?
 そのことでは、この本、ハレスビーの「祈りの世界」が参考になります。

 この本は以前は「祈り」という題で聖文舎から出ていましたが、この会社が解散したため長らく絶版となっていました。

 以前の本は英訳本からの翻訳でしたが、新しい版は原文のノルウェー語からの直訳でかなり著者の意向を正確に反映したものになっていると思われます。
 著者のオーレ・ハレスビー(1879年-1961年)はノルウェールーテル教会の著名な神学者です。この本「祈りの世界」(見せる)の中にこうあります。
「祈りとは心を開いてイエスをお迎えすることです。イエスが私たちを動かして祈らせてくださるのです。昔から祈りは霊的な呼吸と言われてきました。(P.9-10) 祈りは、私たちの心の中の一つの姿勢です。それは心の姿勢です。神が聞かれる心の姿勢とはどのようなものでしょうか。これについては二つのことを挙げることができます。一つは無力さということ、もう一つは信仰です。祈りは、本質的には無力な人のためにのみ備えられたものだと思います。祈りが最期の逃れ場なのです。無力な人だけが本当に祈ることができるのです。(P.14-15) 私たちの祈りが聞かれるためには、信仰を持って祈らなければなりません。信仰のしるし、それはその人がキリストに来ることです。悩みの時に、イエスの所に行き、まごころから信頼を持ってイエスに告げる時、無力さは瞬間的に祈りに変わります。(P.27-30)」
 これらの言葉から、私は特に次のことを思います。私たちは、祈りに対しても信仰に対しても無力で弱いものだと悟った時、そしてそれらをすべて主にゆだねた時、その無力さこそが祈りの力になるのだ、無心で信仰を持って行う祈りこそが真実の祈りなのだと。

 皆さん、教会の暦は顕現節に入りました。イエス様が、この世に姿を現され、様々な業(わざ)をなさったことを記念する期節です。その顕現節の第一主日であり、また主イエス洗礼の日である本日、「イエス様の洗礼」という神様の働きが具体的で見て分かる形で行われたという、その神秘を皆さんと共に分かち合い、神様とつながり、イエス様の弟子として歩んでいきたいと思います。
 神様とつながるためには何をすればいいでしょうか?
 それは、祈ることだと言えます。そして、それを無心で信仰を持って行うことが大切なのだと思います。 
 皆さんも日々、無心で信仰を持って祈り続けることをお勧めします。
 このように礼拝のため教会に来ることも「祈り」であり、神様の前に自分を置き、神様とつながることになるのだと思います。 
 
 顕現後第一主日、そして主イエス洗礼の日である本日、私たちが無心で信仰を持って祈ることで神様とつながり、イエス様の弟子として歩んでいくことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。

 最後にお祈りいたします。
 全能の父なる神様、今年最初の新町での聖餐式に私たちをお招きくださり、ありがとうございます。顕現節の第一主日であり、また主イエス洗礼の日である本日、「洗礼とは、神様とつながり、それを受ける者が、神様の愛される子、神様のみ心に適う者である」という神様の働きが見て分かる神秘をお示しくださったことを感謝します。私たちはその神秘を共に分かち合い、神様とつながり、イエス様の弟子として歩んでいきたいと願います。そのためには無心で信仰を持って祈ることが大切だと分かりました。
 主よ、私たちが日々の生活の中で、無心で信仰を持って祈り続けることができるよう、お導きください。
 2025年、世界では戦争や内戦で、日本では自然災害や貧困等で苦しんでいる方々がたくさんいます。あなたの御翼でお守りください。そして、私たちのできることを示し、それを行うことができるようにしてください。
 この感謝と祈りを、私たちの主イエス・キリストによってみ前にお捧げいたします。アーメン