マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『「聖歌第520番(いつくしみ深き 主の手にひかれて)」に思う』

 先主日、前橋では礼拝後、墓地礼拝がありました。そこで短い説教をしました。その中で礼拝の最初に歌った聖歌520番(いつくしみ深き 主の手にひかれて)から、キリスト教の死生観等について話しました。
 聖歌520番は私の愛唱聖歌であり、石井筆子や新島八重の愛唱聖歌でもあります。

 聖歌520番の歌詞は以下の通りです。
1いつくしみ深き 主の手にひかれて この世の旅路を 歩むぞうれしき (おりかえし)
いつくしみ深き 主の友となりて み手に導かれ よろこびて歩まん 
2深き闇路にも 荒き海路にも 主は共にまして 心は安けし (おりかえし)
3世の旅終わりて 死の波せまるも 恐れなく進まん み恵みによりて (おりかえし)
https://www.youtube.com/watch?v=mLJB4idxUsg

 この聖歌の英語原詩と訳を下に示します。
1  He leadeth me: O blessed thought! O words with heavenly comfort fraught!
Whate'er I do, where'er I be, still 'tis God's hand that leadeth me.
「彼は私を導く」、おお、祝福された考え。 天の慰めあふれる言葉よ。
私が何をしていても、私がどこにいても なお私を導くのは、神の御手。
Refrain:
He leadeth me, he leadeth me; by his own hand he leadeth me:
his faithful follower I would be, for by his hand he leadeth me.
彼は私を導きます、彼は私を導きます、 彼自身の御手によって私を導かれます、
私は、彼に忠実に従う者でありたい なぜなら御手によって彼は私を導かれるから。
2  Sometimes mid scenes of deepest gloom, sometimes where Eden's flowers bloom,
by waters calm, o'er troubled sea, still 'tis God's hand that leadeth me. Refrain
深い苦難のふちでも、 エデンの楽しみの園でも、
平穏の水面でも、荒れ狂う海でも、 すべては私を導かれる主の御手にあります。
3  Lord, I would clasp thy hand in mine, nor ever murmur nor repine;
content, whatever lot I see, since 'tis my God that leadeth me. Refrain
主よ、私の手を取って、 長道を歩ませてください。
幸いの時も、苦しみの時も、 すべてを私を導く主の手に委ねますから。
4  And when my task on earth is done, when, by thy grace, the victory's won, 
e'en death's cold wave I will not flee, since God through Jordan leadeth me. Refrain
地上での私の使命が終わる時、 あなたの恵みによって勝利が得られる時
私は死の冷たい波さえも恐れません。 神は、私を導きヨルダン川を渡らせてくださるから。

 日本語の聖歌は3番まで、英語の聖歌は4番まであります。英語の2番と3番のエッセンスを日本語の2番としているように思います。
 今回はこの日本語の聖歌の1番と3番について思い巡らします。

 1番について、日本語の聖歌では「うれしき」と気持ちを表現します。神の導きによって歩めるのは「うれしい」と自らの気持ちを表現して神を讃えます。
 英語は神に注目をしています。英語の歌詞は、「神が私を導く」ということは、祝福であり天の慰めに満ちた事柄であると歌っています。「神が私を導く」、これは慰めと幸いに満ちたことです。
 日本語の「おりかえし」は「いつくしみ深き 主の友となりて み手に導かれ よろこびて歩まん折り返し」です。
 英語の歌詞は「神が私を導く」を4回歌います。「神が私を導く」という表現が伝える祝福と天の慰めを味わうように導きます。そして神に忠実に従う者でありたいと信仰を表明しています。

 日本語の3番、英語の4番については少し詳しく述べます。
 訪れる死の時、それを英語の歌詞では、「地上での私の使命が終わる時」とします。日本語の聖歌は「世の旅終わりて」と生涯の終わりの時が来たら、 とします。死とは「地上での私の使命が終わる時」、使命が完成した時と歌う英語の歌詞こそ、キリスト教における死の考えをよく表していると思います。 地上の生活から神の御国に向かうとき、境界を越えなければなりません。それを川でたとえています。神様の導きによりそれを越えて私たちは向こう岸へ、御国に導かれます。
 昔イスラエルの民が奴隷状態から解放され、神が与えてくださる約束の地に向かって旅しました。彼らはヨルダン川を渡って約束の地に入りました。そのことをイメージして神様が私たちを死を越えてこの世から天の御国へ連れて行ってくださる、だから冷たい波さえも恐れない、と原文の英語の歌詞は言っています。
 仏教でも、死後の世界に行くには「三途の川」を渡ると言います。川が此岸(この世)と彼岸(あの世)を隔てていて、この川を渡って死後の世界に行くとされています。ヨルダン川と三途の川の違いはありますが、川を渡って死後の世界に行くということは共通しています。先ほどの聖歌では「神が私を導く」と歌い、その「み手に委ねます」と決意を述べています。まるでイエス様の十字架での最後の言葉のようです。こうありたいと願うものです。 

 先日の墓地礼拝では、最後にこのように話しました。
「この墓地に眠っている私たちの信仰の先達も、地上での使命を終え、神様に導かれ川を越えて天の御国に迎え入れられました。
 聖歌第520番「いつくしみ深き 主の手にひかれて」で歌われたように、神様は私たちと手を繋ぎ、支え、一緒に歩んでくださいます。そして、地上での使命を終えた時は、川を越えて天の御国へと導いてくださるのです。」
 このことに感謝し、主のみ手にすべてを委ねて日々を過ごしたいと思います。