マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

「エリザベス女王葬送式」に思う

 英国の女王エリザベス2世は去る9月8日に逝去され、国葬が19日(月)に行われました。女王は英国聖公会の首長(Defender of the Faith)でもありました。葬送式は、現地時間午前11時(日本時間午後7時)からロンドンのウェストミンスター寺院で執り行われました。この「葬送式」は、全く「The service(礼拝)」と呼ぶに相応しいものでした。
 今回はこの「エリザベス女王葬送式」について思い巡らしたいと思います。

 この式文は、下のURLからダウンロードすることができます。
https://www.westminster-abbey.org/media/15467/order-of-service-the-state-funeral-of-her-majesty-queen-elizabeth-ii.pdf

   BBCは聖歌の楽曲や聖書の朗読場所の選定にはエリザベス女王本人の希望も反映されていると伝えています。聖書朗読はイギリス連邦の長官や英国の首相、祈りはスコットランド教会(長老派)やローマ・カトリックの聖職等も行い、多方面から、そしてエキュメニカルなものでした。
 最初から最後まで、美しい聖歌隊の賛美と聖書朗読、参列者の交唱と聖歌が続き、まるでオラトリオを聞いているようでした。ダイアナさんの葬送式の時のようにCDが出されたら、繰り返し聞いてみたいと思いました。
 主な楽曲は以下のようでした。
 4つの幻想曲、 オーランド・ギボンズ (1583-1625)
 Romanza (Symphony no 5 in D), ヴォーン・ウイリアムズ (1872-1958)
 Reliqui domum meum、マックスウェル・デイヴィーズ (1934-2016)
「ブラザー・ジェームズのアリアについての黙想、ハロルド・ダーク (1888-1976)
「Ecce jam noctis」による前奏曲 作品 157 の 3、ヒーリー・ウィラン (1880-1968)
 詩篇前奏曲1 の 2、ハーバート・ハウエルズ (1892-1983)
「田舎で」 作品194の2、ヴィリヤーズ・スタンフォード (1852-1924)
「オー・パラダイス」のファンタジー、マルコム・ウィリアムソン (1931-2003)
 Elegy Op 58, Edward Elgar (1857-1934) 
 Andante espressivo (Sonata in G Op 28), エドワード・エルガー
 Sospiri Op 70、エドワード・エルガー
  「味わい、見よ、主の恵み深さを」ヴォーン・ウイリアムズ (1872-1958)

 読まれた聖書は最初にⅠコリント15章20–26節、53節でした。そこではキリストの復活が初穂であり、私たちは死に勝利したものとして終わりに日に新しいからだで復活すると約束されています。
 その後、先日就任したばかりのリズ・トラス首相がヨハネによる福音書14章1–9aを朗読しました。そこでは「私が道であり、真理であり、命である⋯⋯私を見た者は父を見たのだ」という有名な言葉が記されています。NHKの同時通訳者は、「Truth(真理)」を「真実」と訳していました。なお、ここの聖書は欽定訳で格調高い英語でした。

 その後、ジャスティン・ウェルビーカンタベリー大主教の説教がありました。大主教は、「この日の悲しみは、亡き女王の家族だけでなく、英国、イギリス連邦、世界のすべての人々が感じており、今はもう私たちの前から消えてしまった、彼女の豊かな人生と愛に満ちた奉仕から生じている」と述べ、「21歳の誕生日に、生涯、公務に身を捧げると宣言したのはよく知られている。これほどまでに約束が守られたことはほとんどない」と述べました。さらに、女王の生き方について「国に仕え人々に仕えるというリーダシップである」いうふうに語られました。そこでは「どのように生きるか」というよりも、「誰に仕えていたか」という視点の大切さを強調していました。女王は、終生キリストに仕え、国民に仕えて来たというものでした。
 
 参列者が歌った聖歌は3曲でした。女王自身が選んだもののようで、どれもよく知られており、私たちも礼拝でよく歌います。
The day thou gavest, Lord, is ended,(聖歌32「この日も暮れゆきて 今朝のほめ歌」)
The Lord's my shepherd, I'llnot want;(聖歌461「主はわが飼い主 われは羊」)
Love divine, all loves excelling,(「聖歌491「あめなる喜び こよなき愛を」)

 今回はこの中の2曲目、The Lord's my shepherd, I'llnot want;(聖歌461「主はわが飼い主 われは羊」)に焦点を当てます。
 メディアはこの聖歌が1947年の女王の結婚式で歌われたことを強調していました(確かにこれによってこの聖歌は親しまれるようになりました)が、聖歌461の歌詞は詩篇23編に基づくもので、この詩篇は葬送式では必ず唱えられるものであり、この場にふさわしい選曲と言えます。
 以下のURLでこの葬送式での歌唱を聞く(見る)ことができます。
https://twitter.com/i/status/1571823888966848513

 原詩はこうです。
1 The Lord's my shepherd; I'll not want. He makes me down to lie
 in pastures green; he leadeth me the quiet waters by.
2 My soul he doth restore again and me to walk doth make
 within the paths of righteousness, e'en for his own name's sake;
3 Yea, though I walk in death's dark vale,  yet will I fear no ill; 
 for thou art with me, and thy rod and staff me comfort still.
4 My table thou hast furnished in presence of my foes;
 my head thou dost with oil anoint, and my cup overflows.
5 Goodness and mercy all my life shall surely follow me,
 and in God's house forevermore my dwelling place shall be;

聖歌461はこうです。
1.主はわが飼い主 われは羊  み恵みによりて すべて足れり
2.緑の牧場に われを伏させ  憩いの水辺に 伴いたもう
3.主はわが魂 生きかえらせ  正しき道へと 導きたもう
4.死の陰の谷を 行くときにも  わざわい恐れじ 主 ともにます
5.恵みにあふるる 宴ひらき  油そそぎたもう わが頭に
6.命ある限り 幸は尽きず  主の家にわれは 永遠に住まわん

 この聖歌は詩篇23編をパラフレーズしたスコットランド詩編歌です。詩篇23編そのものといえるほど聖書に忠実です。
  この聖歌は「主はわが飼い主 われは羊」で始まります。これは神である主が羊飼いで、私はその羊飼いから世話を受ける羊だということです。ここでは羊飼いである神に導かれていく歩みを「み恵みによりて すべて足れり」と歌い、その豊かさを具体的に述べています。羊飼いが、緑の牧場に羊を導き、牧草を食べさせ、また、水場に伴われ、水を飲ませるように、神は、厳しい日々の私の歩みを支え導き、必要を備えて下さると歌っています。4節に「死の陰の谷を 行くときにも  わざわい恐れじ 主 ともにます」とあります。今まさに死のうとしている、その時にあっても「わざわい恐れじ」と言います。それは「主が私と共にいてくださる」からです。最後に、この聖歌は、私が帰るところは神の家で、私は永遠にその家に住むと歌っています。

 葬送式の終盤で、カンタベリー大主教は女王に「告別の祈り」を捧げました。この祈りは、故人の魂を神のもとにゆだねる祈りとして唱えられているものです。

 エリザベス女王の葬送式は、ほぼ日本聖公会祈祷書の葬送式文の流れに沿っていました。女王というより一人のキリスト者が神のものとで安らかに憩うことができるように、参列者が共に祈りを捧げる礼拝といえるものでした。
 全世界の多くの人々がまた日本の多くの人々が、女王の葬送式を通して、キリスト教の死生観や福音の核心に触れることができました。

 女王の逝去が伝えられた2時間後にカンタベリー大主教が公表した「祈り]はこのようでした。

    女王もまた神の僕であり、彼女の信仰や義務を果たしたことを神に感謝しています。そして、女王の見本が私たちに霊感を与え続けるように祈っています。
 私たちも、信仰を大切に、与えられた義務を果たすことができるよう、聖霊の導きにより主の御心を行うことができよう祈り求めたいと思います。

 

 

聖霊降臨後第15主日 聖餐式 『正しさに優先する愛と赦し』

 本日は聖霊降臨後第15主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、テモテへの手紙一2 :1-8とルカによる福音書16 :1-13。「不正な管理人のたとえ」から、管理人はイエス様で主人は神様であること、愛と赦しは正しさより優先していることを知り、私たちも貧しい人に施しを行うよう、愛と赦しを日々の生活の中で実践できるよう祈り求めました。「神に忠実で神に仕えること」を身をもって示した例として、祭壇のイエス様の磔刑の姿についても言及しました。

 

   正しさに優先する愛と赦し

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第15主日、聖書日課は特定20です。使徒書は、パウロが弟子のテモテに送った手紙で、そこには教会をどのようにキリストの愛で形づくっていったらいいか記されています。そして、福音書は、ルカによる福音書16章1節から13節で、この箇所は、聖書協会共同訳の聖書では「不正な管理人のたとえ」という小見出しがついています。ここでイエス様が語っている対象は弟子たちで、聖書の中でも難解なたとえ話と言えます。
 
 この箇所を説明を加えて振り返ってみましょう。
『あるところに、金持ちがいました。この金持ちは、自分の財産を管理人に預けて管理させていました。
 告げ口をする者があって、「この管理人が主人の財産を無駄遣いしている」と訴えました。そこで、主人は、この管理人を呼んで言いました。
 「お前について聞いていることがあるが、お前に任せてある私の財産は、どうなっているのだ。すぐに会計報告を出しなさい」と。
 管理人は、「どうしよう」と、あわてました。「私は土を掘る力もないし、物乞いするのも恥ずかしい。」追い詰められた気持ちの中で思いつきました。
 「そうだ、こうしよう。この仕事をやめさせられるなら、今のうちに、私を迎え入れてくれるような人たちを作っておけばいいのだ」と。
 そこで、この管理人は、主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、「私の主人にいくら借りがあるのか」と言いました。「油100バトスです。」1バトスは23リットルですから、2,300リットルです。ドラム缶11本以上です。それを聞いてこの管理人は「ここにあなたの証文があります。急いでそこに座って、50バトスと書き直しなさい」と言いました。
 また、別の人に言いました。「私の主人にいくら借りがあるのか。」「小麦100コロス借りています。」1コロスは、230リットルですから、23,000リットルになります。従来訳で100石(こく)です。「ここにあなたの証文があります。急いでそこに座って、80コロスと書き直しなさい」と。
 このようにして、それぞれの証文を書きかえてやりました。
 管理人のしたことは、すぐに主人に知られました。すると、主人はなんとこの管理人を、「おまえは賢い、たいしたものだ」と褒めたのです。
 イエス様は、この話をされてから、弟子たちに教えられました。『不正の富で友達を作りなさい。ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と。』
 こんなお話でした。

 今日の箇所が私たちに伝えているのはどんなことでしょうか?
 自分の財産を預けている管理人のこの不正な行為を、主人が褒めるなどということは通常は考えられません。勝手に証文を書き換えたら、主人の儲けがどんどん減っていくのですから。
 ここで、不正な管理人とは誰のことを言っているのか、そして不正な管理人を褒める主人とは一体誰なのかということを考えてみたいと思います。
 不正な管理人とは誰でしょうか? これに当てはまる人は、イエス・キリストでしょう。そして、それを褒める主人は誰かといったら、父なる神様であると思います。
 では、証文を勝手に書き換えるとは一体どういうことでしょうか? これはイエス様が私たちの罪を赦すということと考えられます。借金とはいったい何か? 私たちにとってはそれは罪です。イエス様が私たちの罪の借金をご自身で書き換えるということは、イエス様ご自身が私たちの罪を赦してくださっているということです。それを父なる神様が褒めておられるのです。
 よく考えてみると、「罪の赦し」というのは不正義です。正しさに適っていない不正義です。 罪に対する正しい態度は普通、罰を与えるということだと思います。大きな罪を犯した人ほど、大きな罰を与えるというのがこの世的には正しいことです。でも、イエス様は私たちが大きな罪を犯そうが小さい罪を犯そうが、何の代償もなしに罪の証文を書き換えて赦してくださっています。神様の赦しそのものを私たちに与えてくださっているのです。赦しというのはこの世的な正しさに適っていない好意だということです。私たちが正しい行いをするから神様が愛してくださるのではなく、私たちがどのようであっても愛してくださるのが神の愛です。それは英語でUnconditional Loveという、コンディションによらない無条件の愛であり、それがキリスト教の最も重要な点です。別の言葉で言えば、愛は正しさに優先するということ。愛と赦しは正しさより優先しているということです。

 私たちがなすべきことはどのようなことでしょうか?  それは9節に示されています。
「そこで、私は言っておくが、不正の富で友達を作りなさい。そうすれば、富がなくなったときあなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」
 「不正の富」とは「この世の富」のことで、「友達」とは、「貧しい人々、助けを求めている人々」をいいます。「不正の富で友達を作りなさい。」とは「この世の富を使って、貧しい人に施しをしなさい。」ということです。「富」とは「世の命」とも言えますので、「富がなくなったとき」とは「死を直前にしたとき」であり、貧しい人に施しをすれば神の住む永遠の住まいに迎え入れてもらえる、ということです。私たちがなすべきことは、この世の富(命)を使って貧しい人に施しをすることです。
 また、私たちに求められているのはどのようなことでしょうか? それは、イエス様がこのたとえ話を用いた後、最後に示された「神に忠実であること」と「神に仕えること」の2つであります。このようなことを、今日の箇所は私たちに伝えていると考えます。

 さらに言えば、「神に忠実であること」と「神に仕えること」、このことを、身をもって示したのがイエス様ご自身の十字架への道であり、磔刑の姿にほかなりません。
 この聖堂の奥にある祭壇の十字架上のイエス様をご覧ください。

 体がやや曲がり、重さによって少し沈んでいるようで、頭も下に下がっています。胴はやせ細っているのに、脚や腕はしっかりとしています。伸ばされた両腕は、なお力がみなぎり、その脚にも、地上から天上へと旅立とうとするような力が感じられます。このような姿のうちに、主イエス・キリストの神と人を仲介する働きが示されているのではないでしょうか?

 本日の使徒書のテモテへの手紙一2 :1-8の中の5-6節にこうあります。「神は、唯一であり、神と人との仲介者も唯一であって、それは人であるキリスト・イエスです。この方はすべての人の贖いとしてご自身を献げられました。これは、定められた時になされた証しです。」と。
 イエス様は「神に忠実であること」と「神に仕えること」の証しとしてご自分を献げ、罪深い私たちを贖ってくださったのです。それが十字架につけられたイエス様の像が示していることであり、また、今日の福音書箇所の愛と赦しを生きている「不正な管理人」が行ったことです。

 皆さん、私たちも十字架で示された「神に忠実で神に仕える」イエス様の心を生きるようにと呼ばれています。そして、イエス様がなされた愛と赦しを私たちも日々の生活の中で実践していくことが求められていると思います。しかし、それは自分の力でできることではありません。神様のみ守りと導きによって、神様のみ力によって、実現されるものであります。 
  
 イエス様が私たちに無条件に与えてくださった愛と赦しに感謝して、神に忠実で神に仕え、貧しい人に施しを行うよう、愛と赦しを日々の生活の中で実践できるよう、祈り求めたいと思います。

 

 

マヘリア・ジャクソンとゴスペルソング

 前々回のブログで映画「真夏の夜のジャズ」について記し、特に映画の最後に登場したマヘリア・ジャクソン及び彼女がこのステージの最初に歌った曲「An Evening Prayer(夕べの祈り)」等について思い巡らしました。
 今回は、マヘリア・ジャクソンの略歴や1958年のニューポート・ジャズ・フェスティバルで「An Evening Prayer(夕べの祈り)」に続いて歌った「Walk Over God's Heaven(神の国を歩もう)」等について述べたいと思います。

 映画「真夏の夜のジャズ」における「Walk Over God's Heaven(神の国を歩もう)」の映像は下のアドレスで観ることができます。
https://www.bing.com/videos/search?q=Mahalia+Jackson+-+Walk+Over+God%27s+Heaven&view=detail&mid=A78F9A5CED2A9E1A76D3A78F9A5CED2A9E1A76D3&FORM=VIRE

 マヘリア・ジャクソン (Mahalia Jackson) の略歴を下に示します。 
1911年、ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれ。市内アップタウンの黒人が多く住むBlack Pearlと呼ばれる地区で育ち、バプティスト教会で歌い始める。響き渡るコントラ・アルトの歌声。篤い信仰に裏打ちされたストレートなゴスペル。「ゴスペルの女王」と称される。
1950年、カーネギー・ホールでコンサート。 
1958年、ニュー・ポート・ジャズフェスティバルに出演。
1960年、ケネディ大統領の就任前夜祭で歌う。
1963年、公民権運動さなか、ワシントン大行進の日、大群衆を前にキング牧師の"I have a dream"の演説の前にゴスペルを歌う。
1971年、来日し、天皇の前でもゴスペルを披露。
1972年シカゴにて没。死後、ゴスペル・ミュージック協会から「ゴスペル・ミュージックの名誉」との称号を与えられた。

 映画ではカットされている部分もありますが、私は以前に購入したこのCD(1958年ニュー・ポート・ジャズフェスティバルでの全曲ライブ盤)で「Walk Over God's Heaven(神の国を歩もう)」を聞きました。

「Walk Over God's Heaven(神の国を歩もう)」の歌詞と和訳はこうです。

I've got a robe, you've got a robe
All of God's children got a robe
When I get to Heaven goin' to put on my robe
Goin' to shout all over God's Heaven
私は衣を持っている、あなたは衣を持っている
神の子供たち全員が衣を手に入れた
天国に行って衣を着たとき
神の天国全体を叫ぶために行く

Heav'n, Heav'n
Ev'rybody talkin' 'bout Heav'n ain't goin' there
Heav'n, Heav'n
Goin' to shout all over God's Heaven
Heav'n、Heav'n
Ev'rybody talkin '' bout Heav'n ai n't goin 'there
Heav'n、Heav'n
天国について語っても天国には行けない
天国、天国
神の天国全体を叫ぶために行く
天国、天国
天国について語っても天国には行けない
天国、天国

I've got a crown, you've got a crown
All of God's children got a crown
When I get to Heaven goin' to put on my crown
Goin' to shout over God's Heaven
私は王冠を持っている、あなたは王冠を持っている
神の子供たちはみな王冠を得た
天国に行って王冠をかぶったとき
神の天国を叫びに行く

I've got shoes, you've got a shoes
All of God's children got shoes
When I get to Heaven goin' to put on my shoes
Goin' to walk all over God's Heaven
私は靴を持っている、あなたは靴を持っている
神の子供たちは皆靴を履いていた
天国に行って靴を履いたら
神の天国を歩く

I've got a harp, you've got a harp
All of God's children got a harp
When I get to Heaven goin' to play on my harp
Goin' to play all over God's Heaven
ハープがある、ハープがある
神の子供たち全員がハープを手に入れた
ハープで演奏するために天国に行ったとき
神の天国でくまなく演奏する

I've got a song, you've got a song
All of God's children got a song
When I get to Heaven goin' to sing a new song
Goin' to sing all over God's Heaven
私は歌を持っている、あなたは歌を持っている
神の子供達全員が歌を歌った
天国に着いたら新しい歌を歌う
神の天国を歌う

 この歌の大意は「天国を語っても天国には行けない。信仰篤い者はみな衣を、靴を、冠を受けて、歩み、そして主の栄光を叫ぶ」ということです。
 この歌をマヘリアは情熱的に霊的に、信仰を持って歌いあげています
「天国について語っても天国には行けない」の歌詞が心に響きます。信仰を持って、神から恵みを受け神の栄光を叫ぶ、そのような毎日が神の国を生きることになるのだと気づかされます。

 

聖霊降臨後第14主日 聖餐式 『捜し、見つけ、喜ぶ神』

 本日は聖霊降臨後第14主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、出エジプト記32 :1、7-14とルカによる福音書15 :1-10。神は見失った1匹の羊や無くした1枚の銀貨を捜し、それを見つけて大いに喜ぶことを知り、すべてを神に任せて、み手に導かれこの世の旅路を歩むことができるよう祈り求めました。この箇所から思い浮かぶ聖画や聖歌についても言及しました。

   捜し、見つけ、喜ぶ神

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第14主日、聖書日課は特定19です。
 旧約聖書出エジプト記32章からで、出エジプトという神の大いなる救済に預かり歓喜したイスラエルの民が程なくして偶像崇拝に走り神から離れたこと、そして神様の執念と怒りがモーセのとりなしによって和らぎ、人々は本来の神に従う道に戻されたことが記されています。
 そして、本日の福音書は、ルカによる福音書15章1節から10節です。
 ルカによる福音書15章には、イエス様が話された3つのたとえ話が記されています。聖書協会共同訳聖書の小見出しで示せば、1つ目は、「見失った羊のたとえ」、99匹の羊と迷子になった1匹の羊のたとえ(1-7節)、2つ目は、「無くした銀貨のたとえ」(8-10節)、そして、今日の福音書では読まれていませんが、3つ目は、「いなくなった息子(放蕩息子)のたとえ」(11-32節)です。
 この3つのたとえには、共通のテーマがあります。それは、どれも「失われたものが見つかった喜び」ということです。英語聖書の小見出しではこの3つのたとえにはどれもThe Lost Sheep, The Lost Coin, The Lost Sonと「Lost(失われた)」という言葉が入っています。神様は、失われた人、言いかえれば、罪人(神から離れた人)を見つけ出して救うのに、どれほど心をつかわれるか、そして見つかった時には、どれほど大きな喜びを持って迎えて下さるかという、神様の思い、神様の心を表しています。

 「見失った羊のたとえ」は、100匹の羊のうちの1匹、100分の1を失った話です。「無くした銀貨のたとえ」は、ドラクメ銀貨10枚のうち1枚をなくした話で、10分の1を失った話です。なお、「ドラクメ銀貨」は当時の労働者一日分の賃金に当たります。
 この2つのたとえ話は、7節「このように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある。」、そして、10節「このように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の天使たちの間に喜びがある。」と、それぞれ喜びの言葉で締めくくっています。
 どれも「一人の罪人が悔い改めるなら」神様は、どれほど喜ばれるかという結論で語られています。
 
 さて、イエス様は、このようなたとえ話を、いつ、誰に向かって語られたのでしょうか?
 それは、1節にありますように、徴税人や罪人が皆、話を聞こうとして、イエス様に近寄って来た時でした。それを見たファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを受け入れ、一緒に食事をしている」と文句を言いだしました。
 このファリサイ派の人々や律法学者たちに向かって、イエス様は、このたとえを話されたのです。
 当時のファリサイ派の人たちや律法学者たちは、異邦人や徴税人、娼婦、律法を守れない人たちに、「罪人」というレッテルを貼り、差別していました。彼らは、罪人とは一切交際しない、口もきかない、一緒に食事をするなどとんでもないと思っていました。その罪人たちと言われている人たちが、イエス様の話を聞こうとして、集まり、一緒に食事までしていたのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、それに対してとんでもないことだと文句を言いました。その様子を見てイエス様が語られたのが、このたとえ話です。

 当時のユダヤ人、特にファリサイ派の人々や律法学者たちが「罪人」と見ていた人たちは、神様のもとから迷い出た人たち、神様を見失っている人たちです。神様から見れば、「失われた人々」です。
 それが、今、見つけ出されたのです。そして、それを捜し出した人、見つけ出した人とは、神様ご自身です。その神様が、見つけ出された人たちを大きな喜びをもって迎えてくださるというのです。
 イエス様は、神様と、私たちとの関係は、そのようなものだと言われます。「ファリサイ派の人々や律法学者たちの発想こそ罪(的外れ)である」と言わんばかりです。
 神様のもとから離れてしまった人、すなわち罪人と見られていた人が、神様のもとに帰ってきた、見つかった、その時には、神様は大きな喜びをもって迎えてくださるという「神の愛」がここに語られています。

 このことから思い浮かぶ聖画があります。ルーブル美術館所蔵のフランス古典主義時代に活躍した画家、フィリップ・ド・シャンパーニュの「善き羊飼い」です。

 この絵では、迷い出た羊を見つけて大いに喜び肩に担ぐ羊飼いであるイエス様が描かれています。羊の足をしっかりつかむ様子から「もう離さないよ」「私と一緒にいてほしい」というイエス様の思いが伝わってきます。
 
 本日の福音書のこのたとえで語られている教えは、なくしたもの、失ったものが、見つけ出された時、見つけ出した者の喜びが語られています。
 神様から見て、私たちは、神様のもとから迷い出した羊の一匹であり、神様の手もとから転がりおちた一枚の銀貨です。
 そのような、迷い出した私たちを、神様は、捜しだし、見つけだしてくださいます。
 そして、見つけだした時には、肩に担いで喜び、「一緒にいてほしい」と言ってくださるのです。神の喜びが、神の愛が、ここに語られています。

 このたとえ話の中心は、「一人の罪人が悔い改めるなら、大きな喜びがある」というところにあります。誰が喜ぶかと言えば、それは神様です
 ここで、罪人が悔い改めるということの意味を確認したいと思います。聖書が語る罪とは、神から離れている状態を意味します。いわゆる悪いことをしたということではありません。そして、悔い改めるとは「ごめんなさい」と謝るというより、元に戻る、神様と共にいる生活に戻るということです。簡潔に言えば、罪は神から離れること、悔い改めは離れた神のところに戻ることです。神様はそのことを望んでおられます。それゆえ、神様は神から離れている私たちを見つけだし、担いで本来のところに戻されるのです。そして、私たちの手を取って共に歩んでくださるのです。
 
 本日の退堂聖歌の聖歌520番をご覧ください。この聖歌は数年前の大河ドラマ「八重の桜」の主人公、新島襄の妻、新島八重の愛唱聖歌であり、日本最初の知的障害者施設「滝乃川学園」の創設者、石井亮一の妻でその施設の2代目の園長である石井筆子の愛唱聖歌です。実は、私の愛唱聖歌でもあります。
 1節にこうあります。
『いつくしみ深き 主の手にひかれて
 この世の旅路を 歩むぞうれしき
 いつくしみ深き 主の友となりて
 み手に導かれ よろこびて歩まん』
 このように、いつくしみ深き主の手に導かれ、この世の旅路を歩みたいと願うものであります。

 皆さん、神様は見失った1匹の羊や無くした1枚の銀貨を捜し、見つけて大いに喜ぶ愛あるお方です。私たちはその神様に信頼し、すべてを神様にお任せして、そのみ手に導かれこの世の旅路を歩むことができるよう、祈り求めたいと思います。

 

『映画「真夏の夜のジャズ」に思う』

 もう夏も終わりですが、先日、DVDで映画「真夏の夜のジャズ JAZZ ON A SUMMER'S DAY」を観ました。

 「真夏の夜のジャズ」は1958年夏、4日間にわたって開催された「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」の模様を撮影した音楽ドキュメンタリー映画です。下のアドレスで予告編を見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=NI1MWLXL5KQ

映画「真夏の夜のジャズ」の基本情報は以下の通りです。
製作・監督:バート・スターン
撮影:バート・スターン、コートニー・ハフェラ、レイ・フィーラン
出演:ルイ・アームストロングセロニアス・モンクチャック・ベリーアニタ・オデイほか。
 ニューポートはアメリカの東海岸の歴史ある高級避暑地で、マリンスポーツが盛んな地。ヨットが停留している海岸の景色もまた美しいです。
 第二次大戦後13年を経て、平和を謳歌する雰囲気が満ちています。
 ファッションセンスが光る観客たち。男性もジャケットやハットをまとっています。中には聖公会の聖職者とおぼしき黒のクラージーシャツにラウンドカラーをまとった人もいました。

 そんな粋な大人たちの遊び場となっている『ニューポート・ジャズ・フェスティバル』を映像でとらえたのは、後に大御所フォトグラファーとなるバート・スターン。オードリー・ヘップバーンエリザベス・テイラー、マドンナらを撮影し、死去直前のマリリン・モンローを撮影した写真集を発売して大反響を呼んだ伝説の人物でもあります。町全体がお祭り騒ぎで浮かれている様子だったり、ファッションセンスが光る観客をとらえたり、ニューポートの美しい景色が切り取られていたり。撮影当時は28歳の新進気鋭のフォトグラファーだった彼は、大胆な撮影方法で美しい映像をフィルムに収め、魅力的な作品に仕上げることに成功していると言えます。

 映画の中の演奏者と曲名は以下の通りです。
・Jimmy Giuffre Three(ジミー・ジュフリー・スリー)
「Train and The River(トレイン・アンド・ザ・リヴァー)」
Thelonious Monkセロニアス・モンク
「Blue Monk(ブルー・モンク)」
Sonny Stittソニー・スティット
「Blues(ブルース)」
・Anita O' day(アニタ・オデイ
「Sweet Georgia Brown(スウィート・ジョージア・ブラウン)」「Tea For Two(二人でお茶を)」
・George Shearing Quintetジョージ・シアリングクインテット
「Rondo(ロンド)」
・Dinah Washington(ダイナ・ワシントン)
「All Of Me(オール・オブ・ミー)」
Gerry Mulligan Quartet(ジェリー・マリガン・カルテット)
「As Catch Can(アズ・キャッチ・キャン)」
・Big Maybelle Smith(ビッグ・メイベル・スミス)
「I Ain't Mad At You(アイ・エイント・マッド・アット・ユー)」
Chuck Berryチャック・ベリー
「Sweet Little Sixteen(スウィート・リトル・シックスティーン)」
・Chico Hamilton Quintet(チコ・ハミルトン・クインテット
「Blue Sands(ブルー・サンズ)」
Louis Armstrong & All Stars(ルイ・アームストロング・オール・スターズ)
「Lazy River(レイジー・リヴァー)」「Tiger Rag(タイガー・ラグ)」
Louis ArmstrongJack Teagarden
ルイ・アームストロング&ジャック・ティーガーデン)
「Rockin' Chair(ロッキン・チェア)」
Louis Armstrong & All Stars(ルイ・アームストロング・オール・スターズ)
「When The Saints Go Marchin' In(聖者の行進)」
・Mahalia Jackson(マヘリア・ジャクソン)
「An Evening Prayer(夕べの祈り)」「Shout All Over(神の国を歩もう)」
「Didn't It Rain(雨が降ったよ)」「Lord's Prayer(主の祈り)」

 どれも楽しいステージであり熱演ですが、圧巻は映画の最後に登場したマヘリア・ジャクソンです。ゴスペルソング全4曲を熱唱しています。映画では司会のウィリス・コノヴァーが「皆さん、日曜日です。世界最大のゴスペル・シンガー、マへリア・ジャクソン女史をここにご紹介します。」と簡潔にアナウンスして、彼女が登場しました。

 今回は彼女がこのステージの最初に歌った曲「An Evening Prayer(夕べの祈り)」の歌詞と訳を下に示します。

If I have wounded any soul today
If I have caused one foot to stray
If I have lost in my own weak pathway
Dear Lord forgive
もし私が誰かの魂を傷つけたなら
もし私の片足が迷い出したなら
もし私が弱さの中を迷っているなら
主よ、どうか赦してください

Forgive a sin I have confessed to thee
Forgive my secret sins that I do not see
Oh please any time my Keeper be
Dear Lord forgive
あなたの前に告白する罪を赦してください
また私が気がつかない罪をお赦しください
どうか私を保ってくださいますように
主よ、どうか赦してください

 「An Evening Prayer(夕べの祈り)」は、エルヴィス・プレスリーも彼のゴスペル・アルバム「至上の愛 He Touched Me」の中で歌っています(若干歌詞の違うところもありますが)。神への敬虔な祈りの歌で、マへリアの信仰の篤さとエモーションがひしひしと伝わってきます。ジャズ・フェスティバルそして映画の最後に彼女の歌を持ってきた主催者や映画制作者の思い、それを見聞きする観客、アメリカ人の共通言語としてのゴスペル・ミュージックの存在の大きさを感じました。

 ゆく夏を惜しむように、DVDで映画「真夏の夜のジャズ」を観ました。64年前の夏のジャズ・フェスティバルのドキュメンタリー映画。避暑地で平和を謳歌し、演奏を楽しみ、神への愛を歌った映像を見て、現在のウクライナでの戦闘やコロナによる不安等にも鑑み、音楽と信仰等について様々に思い巡らしました。



 

 

聖霊降臨後第13主日 聖餐式 『イエス様の弟子になる条件』

 本日は聖霊降臨後第13主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、申命記30 :15-20とルカによる福音書14 :25-33。イエス様が弟子になるため示した3つの条件の真意を知り、「執着心を捨て日々十字架を負う覚悟でイエス様に従う」という目標に少しでも近づけるよう日々祈ると話しました。弟子の原語「マセーテース」の意味にある「学習者」から、日々学び続けることの重要性についても語りました。

   イエス様の弟子になる条件

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第13主日、聖書日課は特定18です。旧約聖書申命記30:15-20で、モアブの地で主がモーセに命じてイスラエルの人々と結んだ契約の言葉の一部です。そこでは、神の民は、その前におかれた「命と幸い、死と災い」のうち命の方を選ぶ決断をし、主に付き従うようにと求められています。
 そして、今日の福音書ルカによる福音書14章25節以下で、聖書協会共同訳聖書では「弟子の条件」という小見出しがつけられています。
 イエス様の弟子になるための条件はこれだ、ということが示されています。
 今日の福音書は「大勢の群衆が付いて来た」という言葉から始まります。人々はエルサレムに向かうイエス様に付いて来ました。エルサレムでは十字架上での死が待っていました。イエス様はそのことをよく分かった上での旅でした。しかし群衆はそのことを知らずに付いて来ています。その大勢の人たちの方を振り向いて、イエス様は語り始めます。 
 その言葉は、愛の人、イエス様とは思えないような厳しい言葉ばかりです。
 今日の箇所では、「私の弟子ではありえない。」という言葉が3回出てきます。26節・27節・33節 の3つの文です。
 文字通り読むなら、イエス様の弟子になるには、①家族や自分の命を憎むこと、②自分の十字架を負って付いて来ること、③自分の財産をことごとく捨てること、この3つが必要であると言っています。これを忠実にできる人でなければイエス様の弟子になれないなら、誰がイエス様の弟子になれるというのでしょう? 
 イエス様がこのように言う真意はいったい何なのでしょうか?
  この3つの文(3つの条件)について思い巡らしてみましょう。

 まず第1の条件、26節です。
「誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない。」
 これをそのまま読めば、かなり衝撃的な言葉です。しかしここで使われている「憎む」という言葉は、ギリシャ語の辞書を見ますと「敵意や憎しみをもつ」という意味ではなく「より少なく愛する」または「放棄する」という意味のユダヤ的表現とのことでした。そうであれば、こう考えます。
 自分の家族への愛情は、時には見知らぬ人に対しては排他的で、利己的になりがちです。深い関係に結ばれた家族にとらわれずにいることができるかどうか、自分を切り離すことができるかどうか、そのことをイエス様は尋ねておられると言えます。

 続いて第2の条件、27節です。
「自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない。」 
 イエス様の弟子になるには「自分の十字架を負う」ことが求められています。「十字架を負う」という言葉は日ごろ使われている意味とは少し違います。十字架刑はローマ帝国の処刑方法の1つで、死刑にされる人を最大限に苦しめ、人々に対して「見せしめ」として殺す残虐な処刑方法でした。私たちの語彙としては、「十字架を負う」とは「悲しみを負う」とか「辛いことに耐える」という意味に受け止められがちですが、当時の人々にとって「十字架を負う」とは死刑になることでした。つまり「自分の十字架を負って付いて来なさい」とは、あなた自身が死刑になることを覚悟して付いて来なさい、ということです。イエス様の言動、言葉と行いが「十字架」という結論を導き出したのですから、そのイエス様の弟子として生きるということは、イエス様のような言葉と行いが、たとえ十字架刑という結末を招いたとしても妥協することなく、神様の御心に添う生き方を貫いて、十字架への道を歩む覚悟を持たなければならない、そうでなければイエス様の弟子にふさわしくはないということだと思います。
 さらに言えば、これは「自分の十字架」であり、殉教の覚悟というよりは、その覚悟に基づく日常生活の中で実現すべき態度であると考えられます。その意味で、この十字架は「日々」負い続ける十字架であります。その覚悟で、日々イエス様に従うことが求められています。

 最後に第3の条件、33節です。
「自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ、あなたがたのうち誰一人として私の弟子ではありえない。」
 「自分の財産」とは、土地・家屋やお金などの所有物だけでなく、私たちが大事だとしている価値観、欲望や野心も含めて、すべてのものをいうと考えられます。「これをことごとく捨てなければ、イエス様の弟子にはなれない」と言われるのです。「ことごとく捨てる」というのは、物質的にも、また自分の内面的なことなど、すべてに対して執着しないということ。そしてイエス様だけを唯一の支えとするということです。 
 第3の条件の言葉を導いている28節からの「塔を建てる人のたとえ」と31節からの「戦いをはじめる王のたとえ」とは、どちらも「はじめる前には腰を据えてよく考えるはずだ」ということを示しています。
 だから「あなたがたも同じようによく考えてほしい」とイエス様は語ります。そして、「すべてのものへの執着心を捨てて私に従いなさい」と。「それが私の弟子になるために必要なことだ」と。

 今まで見てきたように、イエス様は弟子になる条件として、①家族や自分の命を憎むこと、②自分の十字架を負って付いて来ること、③自分の財産をことごとく捨てること、この3つを示されました。どれも私たちには厳しく、常識では計り知れないものでした。
 その真意は何だったでしょうか?  
 イエス様は、今エルサレムへ、十字架へ向かっています。群衆はこのエルサレムへの旅の本当の意味を知りません。イエス様はこのように厳しい言葉を使うことで、共に歩む群衆に、この旅の真の意味を知らせようとしたのではないでしょうか?
 そしてそれは、群衆と同様にイエス様と歩む人生の旅の本当の意味を知らないこの私たちにも向けられています。
   弟子になるとはどういうことか。それは「価値観を変えられ、何が大切かという優先順位も変えられてしまう」ということです。執着心を捨て日々十字架を負う覚悟でイエス様に従うこと。これこそイエス様の弟子になる条件と言えます。

 なお、本日のキーワードである「弟子」と訳されたギリシャ語原語の「マセーテース」には「学習者」という意味があります。弟子はいつも学び続けていくということです。昨日、「教会問答勉強会」があり、5名の参加者と一緒に主にこの本、竹内謙太郎先生の「教会に聞く」により「使徒信経」について学びました。

 この勉強会はキリスト教の教理を学ぶもので一つの例ですが、弟子である私たちは、このように学び続けることが求められているのです。
  
 今日の福音書でイエス様が厳しい言葉を言われた真意をつかみ、この世の価値や所有物に執着せずそれぞれの十字架を背負い、イエス様に従って歩むことが私たちに求められています。これが弟子として歩む人の目標です。
 私たちは人生のある時イエス様に出会い、弟子となり、価値観が変えられ新しい生き方が始まりました。しかし、長く信仰生活を送っていると往々にしてその時の気持ちを忘れがちになっているではないでしょうか? 
 イエス様の弟子であることを自覚しましょう。私たちは真の救い主であるイエス様に従っていきたいと願います。 

    そのために、「執着心を捨て日々十字架を負う覚悟でイエス様に従う」という弟子としての目標、イエス様が示される「イエス様の弟子になる条件」に少しでも近づけるよう日々祈って参りたいと思います。

 

『映画「エルヴィス」に思う』

 今年7月1日から映画「エルヴィス」のロードショーが始まりました。なかなか観に行くことができず、終了2日前の8月9日(水)に109シネマズ高崎でこの映画を観ました。

 エルヴィス・プレスリーについては、この前のブログ「オーガスチンとマルコの家」で4回に渡って記しました。最初のものは「プレスリーとゴスペル(1)」で以下のアドレスです。
https://markoji.hatenablog.com/entry/2020/10/08/001733?_ga=2.27553788.1326484268.1661856836-207727299.1496466150
 エルヴィス・プレスリーは1977年8月16日に亡くなっており、もう逝去から45年が経ちます。レコードの売り上げでは未だに彼を超えるソロアーチストはいません。今回は、この映画「エルヴィス」と彼の聖と俗の部分にスポットを当てて述べてみたいと思います。

 映画「エルヴィス」について映画の公式HP等ではこう紹介されています。
「貧しい家庭に生まれ、黒人音楽の中で育ったエルヴィス。ブルースとゴスペルをベースにした革新的な音楽とパフォーマンスで脚光を浴びる彼は、マネージャーのトム・パーカー大佐と共に数奇な人生を送っていきます。小さなライブハウスに始まり、彼の名声はまだ保守的だったアメリカに瞬く間に響き渡ります。しかしブラックカルチャーを取り入れた彼は非難され、警察にまで目をつけられてしまいます。etc.」
 この映画の予告編は以下のアドレスから観ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=8OYM0s2vb70

 映画では彼の少年時代、米国南部の黒人居住地区に接していてゴスペルテントでの黒人の礼拝に顔を出していたことも描かれていました。黒人音楽のブルースにも慣れ親しんでいたことから、最初のレコーデイングで「That's all right.」という黒人カントリー・ブルース歌手アーサー・クリューダップの曲を取り上げたこともうなずけます。
 映画「ボヘミアン・ラプソディ」にも影響を受けたような音楽伝記映画ですが、随所に実際のエルヴィスの演奏が挿入されていました。映画の冒頭のところで、「An american trilogy (アメリカの祈り)」の演奏シーンがありました。この曲は、15億人が見たと言われる全世界同時テレビ中継のハワイ・ライブ(1973年1月14日)によって初めて全世界に伝えられました。私もこの時にこの曲を知りました。私はこのライブ盤のLPレコードも買いました。

 この時の映像を以下のアドレスで見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=0FT3SmZ_zx0

「An american trilogy (アメリカの祈り)」の歌詞と訳は以下の通りです。

An american trilogy   アメリカの祈り

Oh I wish I was in the land of cotton
Old times there are not forgotten
Look away, look away, look away Dixieland
ああ 綿畑の広がる地に帰りたい
古き良き 忘れられぬ故郷に
見よ遙かに 見よ遙かに 見よ遙かなるディキシーランド

Oh I wish I was in Dixie, away, away
In Dixieland I take my stand to live and die in Dixie 
ああ、デキシーに帰りたい 遙か 遙か彼方のディキシーに
ディキシーランドに誓おう ディキシーに生きそして骨を埋めることを

For in Dixieland, I was born
Early Lord one frosty morning
Look away, look away, look away Dixieland
ディキシーランドは私の生まれた土地
それは霜のおりたある寒い朝早くだった
見よ遙かに 見よ遙かに 見よ遙かなるディキシーランド

Glory, glory hallelujah
Glory, glory hallelujah
Glory, glory hallelujah
His truth is marching on
栄光あれ 主に栄光あれ
栄光あれ 主に栄光あれ
栄光あれ 主に栄光あれ
主の真実は押し進んで行く

So hush little baby
Don't you cry
You know your daddy's bound to die
But all my trials, Lord, will soon be over
幼な子よ 泣くのはおやめ
父さんは死んでいくのだから
でも 私の試練は 主よ 間もなく終わる・・

Glory, glory, hallelujah
His truth is marching on
His truth is marching on
主に栄光あれ
神の真実がやってくる
神の真実がやってくる

この曲はアメリカの「南部・北部・黒人」の代表曲を一つにしたものです。
・ Dixie (デキシー ・・南部の歌)
・ The Battle Hymn of the Republic (リパブリック讃歌 ・・北部の歌) 
・ All My Trials (私の試練 ・・古いアメリカの黒人霊歌
 ここにエルヴィスの願いが現れていると考えます。アメリカ南部で育ち北部で音楽活動をしゴスペルから影響を受けたエルヴィスの面目躍如という感じです。

 映画「エルヴィス」では、純粋に音楽を愛し神を愛する思いとこの世で栄誉を得たいという世俗の願望の間で揺れ動くエルヴィスの姿がありました。それが興行の成功をもくろむマネージャーのパーカー大佐(トム・ハンクスが演じていました)との協力関係や反目という形で描かれていました。公民権運動のキング牧師への賛同を表す場面やそれを表す楽曲披露もありました。映画の後半では、徐々に薬物に依存していく様子も描かれていました。
 エルヴィスは聖人ではありませんでした。罪(神から離れること)を犯し、悔い改め(神に帰ること)る、その繰り返しの人生だったように思います。そしてそれは、私たちの信仰生活そのものではないかと感じました。私たちの人生も、罪を犯すことと悔い改めることの繰り返しです。だからこそ、聖霊の働きと主の導きを祈り求めるものであります。
 映画「エルヴィス」から、このようなことを思い巡らしました。