マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨日『真理を導く聖霊』

 本日は聖霊降臨日(ペンテコステ)です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 本日の聖書箇所は、使徒言行録2:1-21、詩編104:22-32・33b、ローマの信徒への手紙8:22-27及びヨハネによる福音書15:26-27・16:4b-15。説教では、神が私たちに真理を導かせるために聖霊を送られていることを知り、真理の霊である聖霊を祈り求めました。
 テーマと関連するエル・グレコの絵画「聖霊降臨」も活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨日(ペンテコステ)です。クリスマス、イースターと並ぶキリスト教の3大祝日の一つです。聖霊降臨日はイエス様の復活から50日目に聖霊が降ったことを記念する日です。伝統的に、復活節(イースターシーズン)の終わる今日までパスカルキャンドル(復活ろうそく)をともします。明日からは聖霊降臨後の節に入ります。  

 先ほど読んでいただいた使徒言行録2章では、五旬祭というお祭りで人々が集まっている時に弟子たちに聖霊が注がれた出来事が語られています。五旬祭は、イスラエル民族がエジプト脱出(過越)から50日目にシナイ山モーセを通して神の言葉(十戒)を受けたことを祝うお祭りです。そのお祭りの日にイエス様の弟子たちに聖霊が降ったのです。ちなみに聖霊降臨日を「ペンテコステ」というのは、ギリシア語の50番目・50日目を意味する言葉(ペンテコステ)に由来します。そして聖霊が最初のメンバーにくだった後から、そこにいた弟子たちは励まされて、聖霊の力によって多くの人々に福音を伝えるようになりました。聖霊を受けたこの日、弟子たちは清められ信仰が強められ、宣教の働きが始まったのです。そこで、聖霊降臨日は信仰共同体である教会の誕生日とも言われます。

 この箇所は多くの画家が描いていますが、今回はエル・グレコのものを紹介します。

 ここでは、突然、天から烈しい風が吹いてくるような音が聞こえて、弟子たちのいた家に満ち、炎のような舌が現れ、分かれて、おのおのの上にとどまりました。すると、彼らはみな聖霊に満たされ、霊が言わせるままに、いろいろな国の言葉で話し始めたところを描いています。この絵では、皆さんから向かって左側にはこの奇跡を前にして両手を広げて驚いているペトロ(黄色い服)を、右側には大きく左手を広げて驚きと賛美を表すヨハネ(薄い青の服)を配置しています。上部には聖霊のハト、中心には、ただ1人静かに祈る聖母マリアがいます。この絵には男性12名と女性3名が描かれてています。男性はマティアを含む12使徒聖母マリアの隣りの女性はマグダラのマリア、ペトロの隣りの女性はクロパの妻マリアと私は想像します。女性3人はイエス様の十字架を目撃した3人のマリアではないかと。この一人一人の上には、聖霊を現す炎のような舌がとどまっています。これが使徒言行録が伝える「聖霊降臨」の出来事です。
 
 さて、本日の福音書の箇所は、ヨハネによる福音書15:26-27と16:4b-15です。この箇所はヨハネ13章から始まったイエス様の告別説教において、イエス様が弟子たちに語った話の一つです。その主な内容は、イエス様が世を去り、目に見える形ではいなくなるが、違う形で居続ける、という大きな約束です。告別説教では聖霊を送る約束が4箇所ありますが、今日の箇所はその最後の部分です。この約束はイエス様の復活・昇天後に実現します。

 15章26節をご覧ください。
「私が父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなさるであろう。」
 ここで「弁護者」と訳されたギリシャ語は「パラクレートス」ですが、この語は「パラ〈わきに〉」と「カレオー〈呼ぶ〉」による合成動詞「パラカレオー〈呼び寄せる・慰める・励ます〉」から派生した名詞で、「誰かを救助するために呼び出された者」を意味します。「弁護者(パラクレートス)」は口語訳では「助け主」と訳されていましたが、聖霊のことです。その方がイエス様を証しするというのです。

 続いて、16章5-6節をご覧ください。
「しかし、今私は、私をお遣わしになった方のもとに行こうとしている。それなのに、あなたがたのうち誰も、『どこへ行くのか』と尋ねる者はいない。かえって、私がこれらのことを話したので、あなたがたの心は苦しみで満たされている。」
 そうイエス様は弟子たちに語られました。弟子たちは、イエス様のおっしゃる言葉の意味が分かっていません。しかし、もし主イエス様と別れるのであれば、自分たちは迫害を受けるかもしれないという恐れ、不安で満ちています。愛する主イエス様との別れ、自分に迫る迫害。これは具体的で現実的な恐れ・不安・苦しみをもたらします。この恐れ・不安・苦しみに対して、イエス様はどう弟子たちを支え、慰め、導くと言われるのでしょうか?
 イエス様は7節でこう言われました。
「しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」
 主イエス様が弟子たちにこの時与えられた約束は、「弁護者を送る」ということでした。この時、弟子たちはまだこれを知りませんでした。ですから、弁護者、助け主、聖霊が来ると約束されても、弟子たちは少しも慰められず、励まされることもなかったのです。しかし、イエス様が十字架に架かられた後、復活し、昇天され、聖霊が送られました。弟子たちはそのことを実際に経験して、聖霊が送られるということがどんなことなのか、どれほど力あることなのかを知りました。主イエス様が「私が去って行くのは、あなたがたのためになる。」と言われたのは「本当のことだった」と、その時、彼らは知ったのです。

 では、主イエス様が去り、聖霊が与えられることによって得られるものは何でしょうか? ここでは、三つのことが挙げられています。
 8節に「その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする。」とあります。
 第一に、罪について世の誤りが明らかにされます。罪について、世はどう考えているかといえば、してはいけないと定められていること、その代表的なものが十戒であり律法ですが、これをしてしまうことが罪だと考えています。しかし、本当の罪は「的外れ」、神様の方を向かないことです。神様から離れていること、これが根本的な罪であります。
 次に、義についてです。義については、人々は自分が善い人間になって、義しい生き方をすることだと世は思っています。しかし、そうではなくて、イエス様が「父のもとに行き、あなたがたがもはや私を見なくなること」(10節)、つまり、イエス様が十字架に架かり、復活されて天に昇る、ここに義がある、と言われるのです。この義とは、神の義、神の義しさです。神様が、愛する独り子を十字架に架けて、その独り子を死から復活させ、天の御国への道を開いてくださった、ここに義があります。この神の義によって、私たちの罪は赦され、神の子とされ、永遠の命へと招かれるのです。
  第三に、裁きについてです。裁きといえば「この世の支配者が人々を裁く」と世は思っています。しかし、イエス様は「そうではない、この世の支配者が裁かれる」と言うのです。イエス様は、この世の支配者によって十字架につけられました。この世の支配者によって裁かれたのです。しかし、本当の裁きとは、主イエス様を十字架につけたこの世の支配者が、神様によって裁かれることだというのです。イエス様は、これらのことを聖霊が明らかにすると言われたのです。

  イエス様は続けてこう言われました。12~13節前半です。
「言っておきたいことはまだたくさんあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。」
 イエス様は、罪と義と裁きについて、御自身の十字架と結びつけてでなければ何も分からないし、そのことを真理の霊である聖霊は明らかに教えてくれると言われました。真理の霊が来て、初めてイエス様の言っていることがどういうことなのかが、後になって分かるとイエス様はおっしゃっています。その時は分からないけれど、後になってみて、「あの時のことはこうだった」と、真理の霊に照らされて初めて分かるというのです。聖霊が弟子たちに教えてくれることは、罪と義と裁きについてだけではありません。「あらゆる真理に導いてくれる」と言われているとおりです。この真理とは、主イエス・キリストの十字架と復活の救いの恵みが明らかにされるすべての真理ということだと考えられます。主イエス様の十字架と復活について教えられることによって、私たちは自分の罪の姿(つまり、神から離れている姿)がいよいよ明らかにされ、悔い改めないではいられない(つまり、神に立ち帰る)者とされるのであります。
 イエス様は真理の霊である聖霊について、こう語りました。13節後半~14節です。
「その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方は私に栄光を与える。私のものを受けて、あなたがたに告げるからである。」
 「その方」とは聖霊のことです。聖霊は、イエス様と無関係に新しいことを私たちに教えるのではありません。イエス様が語られたことを、本当のことだと分からせてくださるのが、真理の霊である聖霊です。聖霊は、イエス様が栄光を受けるために働かれるのです。
 聖霊を受けた弟子たちは、ここから新たな歩みが始まります。「イエス様が誰であるのか」を人々に伝える使命は、ここから始まります。
 15節にこうあります。
「父が持っておられるものはすべて、私のものである。だから、私は、『その方が私のものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
 父なる神様のものはすべて子なるイエス様のものです。そして御子イエス様は、父なる神様から命じられたままを語り、「その方」と表記されている聖霊はイエス様の言葉を語ります。神様が、この世の弟子たち、そして私たちを、真理に導くために働いておられるのです。

 皆さん、本日は、「聖霊降臨日」です。神様は私たちを真理に導くために聖霊を送られました。聖霊はいつも私たちに与えられています。聖霊は太陽の光のように私たちに注がれて、炎のような舌が分かれて私たち一人一人の上にも、とどまっているのです。これにより私たちは清められ信仰が強められ、宣教の働きを行うことができるのです。これからも聖霊が私たち一人一人をあらゆる真理に導いてくださいますように、祈り求めて参りたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 

「星野富弘さんと私のストーリー」

 多くの人に生きる希望を与えた星野富弘さんが、去る4月28日に帰天されました。富弘さんの御国での魂の平安を祈ります。富弘さんの詩画は多くの人に感動を与え、富弘さんの人生は神様から特別の使命が与えられた一生だったと思います。
 富弘さんの訃報は5月1日に新聞各紙等で一斉に報じられましたが、富弘さんがキリスト者であることやその信仰について触れたものは全くありませんでした。これでは富弘さんの詩画や生き方を生み出した原動力が分からず「あまりに不十分だ」と思っていたところ、5月12日(日)に朝日新聞の「天声人語」が富弘さんのことを取り上げました。その文章は以下の通りです。

『先日の訃報が心に残り、母の日にあたって星野富弘さんの詩を思い出している。〈神様がたった一度だけ/この腕を動かして下さるとしたら/母の肩をたたかせてもらおう/風に揺れる/ぺんぺん草の実を見ていたら/そんな日が/本当に来るような気がした〉▼体育教師だった星野さんは24歳で大けがをし、首から下が動かなくなった。つきっきりで世話をしてくれる母にさえ、絶望から怒りを爆発させてしまう。自分一人では一生、何も出来ないのか▼生きる意味を教えてくれたのは、それまで気にもとめていなかった野の草花だった。〈この花は/この草にしか/咲かない/そうだ/私にしか/できないことが/あるんだ〉。口にくわえた筆で四季の花々を描き、言葉を添える。初めて出来た時、絵というより希望が浮かび上がった、とふり返っている▼作品に多くの人が勇気づけられたのは、そこに人間の限りない強さとやさしさがあるからだろう。小さな命をいとおしみ、目に見えぬ何かに感謝する。入院中に洗礼を受けた信仰の力もあったに違いない▼享年78。先日訪れた群馬県みどり市の富弘美術館では、記帳のノートが「ありがとう」の文字で埋まっていた▼著書に書いている。「散ってゆく花の横に、ひらきかけたつぼみがあり、枯れた一つの花のあとには、いくつもの実がのこされます。人間が生きているということは、なんと、ひと枝の花に似ているのでしょう」。星野さんが残していった種の一つひとつを思う。』

 ここでは富弘さんの作品の秘密について「信仰の力もあったに違いない」と記しており、さすが「天声人語」と思いました。朝日の「天声人語」はこれまでも、富弘さんの「愛、深き淵より」が出た時すぐに取り上げ、これ以降も「風の旅」が出時や「富弘美術館」が創立された時も紹介していたと記憶しています。それにより全国に富弘さんの存在が知れ渡りました。当時の「天声人語」のライターがキリスト者だったからと思ったことを覚えています。

 「天声人語」氏はじめ多くの方が富弘さんの詩画や生き方に影響を受け、一人一人それぞれのストーリーをお持ちだと思います。そのことを分かち合えないかと思って、前橋ハレルヤブックセンターに提言したところ「5周年記念読書会」として実施できることになりました。そのチラシを下に示します。

 この読書会は6月1日(土)午後1時30分からハレルヤブックセンターで開催され、私がコーディネーターをさせていただきます。ぜひ、電話やメールでお申し込みいただき、富弘さんの作品の中で心に響いたものを紹介し、富弘さんとご自身のストーリーを語ってほしいと思います。

 私にとって最も心に響いた富弘さんの作品は、三浦綾子との対談『銀色のあしあと』です。この本は、2年前の前橋ハレルヤブックセンターの三浦綾子生誕100年記念フェアの一環で行われた「私の三浦綾子の一冊を語る会」でも紹介しました。私の持っている本は、「百万人の福音スペシャル」版で、発行日は昭和63年10月1日です。『銀色のあしあと』は現在新装版が刊行されていますが、私の持っているバージョンには写真がたくさん掲載され、かなりヴィジュアルに訴える内容でした。

 この本の最初の「自然は最高の教師」の項目にはこのような文章があります。『小さな花でも描いていると、だんだん大きくなって、反対におれは虫のように小さくなって、花の中を歩いているんです。それから、花を描いているようで、実は自分を描いているんですね。虫食いの穴があったり、汚れていたりしているのは、まさに、自分の姿なんです。』(P.18)
 富弘さんの詩画を製作する秘密を知る思いです。
 富弘さんが闘病中にキリストに出会った経緯が、「神さまの布石」の項目に次のように記されています。
『「塩狩峠」の本を持って来てくださったのは、病院で検査技師をやっていたクリスチャンのかたです。その前には米谷さんという大学の先輩がいて、聖書を持って来てくれた。それが、そもそもの初めなんですね。でも、あれですねぇ神さまというのは、時には遠回りをさせて、いつの間にか味なことをされるなあと思いますね。本にも書いたことがあるんですけど、裏の畑の土手に小さな十字架が建ったんです。それに、「労する者、重荷を負う者、我に来たれ」という文句が書いてあって、それを、高校1年生のとき見つけたんですね。豚の肥やしをかごでしょい上げているとき、いきなり目の前に現れて、それが聖書の言葉との最初の出会いでした。たまたま豚の肥やしという重荷を負ってましたから、その「労する者、重荷を負う者」という言葉は印象的でした。(笑』(P.28)
 富弘さんの信仰生活の最初に聖書や三浦作品があり、神様の導きがあったことが分かります。
 「人間はどこから」の項目にはこうあります。
『どこへ行くかわからないけど、神さまは自分が死んだあともいてくださる。いつも誰かが見ていてくださるというのは心強いですね。誰も知らないで何か喜んだり大事(おおごと)をしたりするよりも、誰かいつも、そばで見ていてくれるというのは・・・。』(P.44)
  ここには、キリスト教の死生観が分かりやすい言葉で示されています。

  私がこの本を手に取ったのは33歳の頃で、小中学校の教員を10年勤めた後、養護学校に移って2年目の時でした。1年目は副担任で主担任の言うとおりに指導・支援していました。2年目になり主担任になりましたが、目の前の障害児はできることに制限があり、通常教育のように決められたカリキュラムがなく、何をどのように教育していいか悩んでいました。
 首から下が動かない富弘さんが口に筆を加えて絵を描くことを、この本では「不自由から生まれた産物」と言っていますが、それは「できないことでなく、できることに目を向ける」ということだと思いました。私も目の前の子供の「できないことでなく、できることに目を向けよう」と発想の転換を行いました。知的には障害があっても、体力や感性に障害はない。そこで体育や音楽や図工等を充実させようと思って、その子に合わせて色々工夫をしました。その結果、この子らとの楽しい時間を共有することができました。できることを充実させることで、知的理解の向上や精神の安定等、他にもいい影響が出て、生活全般を豊かにすることができたと思います。

 皆さんも、ご自身にとっての星野富弘さんのとびきりの一冊や作品とご自分のストーリーをぜひ紹介してほしいと思います。皆さんと前橋ハレルヤブックセンターでお目にかかるのを楽しみにしています。

 

復活節第7主日(昇天後主日)『イエス様の「とりなしの祈り」に倣う』

本日は復活節第7主日(昇天後主日)です。新町の教会で聖餐式を捧げました(前橋は信徒司式による「み言葉の礼拝」)。
 本日の聖書箇所は、使徒言行録1:12-17、21-26、詩編1、ヨハネの手紙一5:9-13及びヨハネによる福音書17:6-19。説教では、世に派遣された弟子たちが聖なる者となるよう、神様に「とりなしの祈り」をしてくださるイエス様について知り、イエス様がされたように、他の人のため、「とりなしの祈り」を日常的に捧げることができるよう祈り求めました。
 テーマと関係する来住英俊神父の目からウロコシリーズ「とりなしの祈り」の文章や「ファティマの祈り」も活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は復活節第7主日(昇天後主日)です。この前の木曜日に私たちは昇天日を迎えました。イエス様が天に昇られた日です。マッテア教会では5名の参列者を得て聖餐式が行われました。そして、来週の日曜日が聖霊降臨日となります。今日私たちは、昇天日と聖霊降臨日の間にいます。管区から送られた「み国が来ますように(Thy Kingdom come)」という「祈りのしおり」では第4日目に当たります。毎日この冊子を用いることで、主の御心を知り祈りの姿勢を整えることができますので、ぜひご活用下さい。

 さて、本日の福音書箇所はヨハネによる福音書17:6-19です。
 ヨハネ福音書の最後の晩餐の後、ユダが出て行ってからの13章31節~17章の終わりは「告別説教」と呼ばれるイエス様の遺言のような言葉です。特に17章は「大祭司の祈り」と呼ばれているところです。この章は、大きく三つの部分に分けられます。初めは1節から5節までで、イエス様はご自身のことを祈っています。次が6節から19節で、ここではイエス様は弟子たちのために祈っておられます。そして20節から26節までは、私たちを含む全世界の教会のための祈りです。
 本日取り上げられた箇所は6節から19節までで、イエス様がこの世に残していく弟子たちのことを、父なる神様にとりなして祈られた箇所です。ここでは、イエス様は、父なる神様とイエス様が一つであるように、弟子たちも一つとなるように守ってください、と祈っておられます。イエス様ご自身が弟子たち、さらには、私たちのために「とりなしの祈り」をしてくださっているのです。
 
 6節で、イエス様は「世から選んで私に与えてくださった人々に、私は御名を現しました。」とおっしゃっています。イエス様の弟子たちは、神様が世から選んでイエス様に与えてくださった人たちでした。その彼らに、イエス様は御名、神の名前を現しました、と語っています。神の名前を現すとは、神ご自身、つまり父なる神様の本質を弟子たちに示したということです。最後の晩餐で、イエス様は「私を見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:9)とおっしゃいました。弟子たちは、イエス様と共に生活をする中で、その姿の中に父なる神様を見たのです。神様とはどんな方なのか、それはイエス様を見れば分かるのです。その弟子たちについて、イエスは6節の最後で「彼らは、あなたの言葉を守っています」と言って、弟子たちを褒めているのです。
 11節に「私は、もはや世にはいません。」とあります。もうすぐ自分はいなくなってしまう、そのときに「聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。」とイエス様は祈ってくださいます。これが私たちを思うキリストの、祈りの言葉です。
 12節には「私が保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。」とあります。この「滅びの子」とは「滅びに向かっている者」を示し、ここでは直接的にはイスカリオテのユダと考えられています。今日読まれた使徒書の使徒言行録の箇所では、このユダの滅びとこのユダに替わって12使徒の一人に選ばれたマティアのことが記されています。このマティアが前橋聖マッテア教会の守護聖人であるマッテアです。
 13節に「しかし今、私は御もとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、私の喜びが彼らの内に満ち溢れるようになるためです。」とあります。ここの「喜び」はギリシャ語では「カラー」です。「カラー」ば、神からの救いを見いだした人間の喜びを表します。
 死はイエス様にとって「神様のもとに」行くことであり、もといた場所に戻ることです。そして「私の喜び」とは、「神様のもとで」享受していた喜びであって、イエス様が自分だけで作り出した喜びではありません。神様のもとで享受した喜びを世へ運ぶことがイエス様の仕事であり、この喜びは父なる神様との交わりによって引き起こされました。この喜びは父なる神様からイエス様へ、そしてイエス様から弟子へ、さらに弟子から私たち信じる者へと伝わっていくのであります。
 15節に「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」とあります。イエス様の願いは、神様が弟子たちをこの敵意と憎悪に満ちた世から取り去ることではなくて、この世において彼らを悪者から守ることなのです。さらに、17節で弟子たちの共同体を悪い者から守るとはどういうことか説明しています。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの言葉は真理です。」とイエス様は祈っておられます。弟子たちが聖なる者になること、それが実は悪い者から守られることになるのです。 

 今日の福音書では、イエス様は残される弟子たちのために、十字架につかれる前に、悪い者から守られるよう、聖なる者となるよう神様へ「とりなしの祈り」をされました。
 私たちもイエス様がされたように、他の人のために「とりなしの祈り」をしたいと願います。
 実は、私たちは毎主日、礼拝の中で「とりなしの祈り」をしています。それが代祷です。世界の聖公会や管区、北関東教区の他の教会や東京教区のためや、当教会在籍信徒で記念日を迎える方々等のために祈っています。特に能登半島地震や聖地の人々のための祈りも捧げています。他者に代わって、その人のためにする祈りが代祷であり「とりなしの祈り」です。私たちはそれを、毎主日だけでなく日常的に行うことが大切であると考えます。
 
 「とりなしの祈り」については、この本、来住(きし)英俊神父の目からウロコシリーズの中の「とりなしの祈り」が参考になります。

 この本では「とりなしの祈り」の仕方を具体的に提案しています。私たちは、世界・日本の社会・苦しむ人々・愛する人々のために祈りたいと願います。しかし、それを継続的に祈るのはやさしいことではありません。粘り強く祈り続けるためにはどうすればいいか? その具体的な方法を提案しています。
 この本の冒頭にこうあります。
 『「とりなしの祈り」とは、自分以外の人のために神に願うことです。とりわけ、苦しんでいる人たちのために祈ることをいいます。』
 私は、平日、「朝の祈り」と「ロザリオの祈り」をしていますが、「ロザリオの祈り」の最後に「ファティマの祈り」を捧げています。それは、ポルトガルのファティマに現れた聖母マリアが3人の牧童たちに「ロザリオの祈り」の中で唱えるように依頼した祈りです。こうです。
「主イエス・キリスト、わたしたちの罪をゆるしてください。
わたしたちを滅びから救い、すべての人々、ことにおんあわれみをもっとも必要としている人々を天国に導いてください。アーメン」
 この祈りこそ、まさに「としなしの祈り」だと思います。  

 皆さん、イエス様は十字架につかれる前に、残された弟子たちが悪い者から守られるよう、聖なる者となるよう、父なる神様に「とりなしの祈り」をされました。それは私たちにも向けられています。
 神様はいつも私たちと共におられますので、私たちもイエス様がされたように、他の人のため、「とりなしの祈り」をして参りたいと思います。代祷や「ファティマの祈り」のような「とりなしの祈り」を、私たちが日常的に捧げることができるよう祈り求めて参りたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 

昇天日 『イエス様の昇天という福音』

 本日は昇天日です。前橋の教会でその記念の聖餐式を捧げました。
 本日の聖書箇所は、使徒言行録1:1-11、詩編47、エフェソの信徒への手紙1:15-23及びルカによる福音書24:44-53。説教では、イエス様の昇天とは、神様の普遍的な愛と私たちも天においてイエス様と共にいるという希望の福音であることを知り、その恵みに感謝し、私たちが今も後も絶えずイエス様と共にいることができるよう祈り求めました。
 テーマと関係する聖歌498番の歌詞や星野富弘さんの詩画集「足で歩いた頃のこと」の中の文章も活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は昇天日です。本日は復活日から40日目の日に当たります。昇天日は7つある主要祝日の一つです。昇天日以外の主要祝日は、復活日・聖霊降臨日・三位一体主日・降誕日(12/25)・顕現日(1/6)・諸聖徒日(11/1)であります。 
 復活したイエス様は40日にわたって弟子たちに姿を現した後、天に上げられました。そこから、昇天日は復活日後40日目の復活節第6木曜日に祝われることになりました。多くのキリスト教国、フランスやドイツなどでは昇天日は法定休日となっています。

 本日の福音書ルカによる福音書24:44-53で、ルカ福音書の結びにあたります。この箇所は2つの段落からなっています。44-49節と50-53節です。本日は昇天日ですので、主に後半について見ていきます。
 50・51節に「それからイエスは、彼らをベタニアまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」とあります。「祝福」という言葉が2回続いて使われています。天に昇る直前も、そして天に上げられながらも、イエス様は弟子たちを祝福されたのです。イエス様は私たちをも祝福されるでありましょう。
 さらに52・53節に「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに戻り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」とありますが、この「伏し拝む」は「礼拝する」ことを表す言葉で、弟子たちがイエス様を礼拝したことが記されています。ここで初めて弟子たちはイエス様とはどういう方であるかを本当に悟ることになったのです。

 イエス様の昇天については2つの意味があると考えられます。
 一つはイエス様が天に昇り、神様の右の座に着いたということから人の子であるイエス様が神の栄光の状態に上げられ、御父のもとで最高の権威に参与されたことです。父なる神様と一つであることが示されたのです。また、イエス様が天に昇られたので、ユダヤ人だけでなく、どんな国の人も神様のもとに私たちは共に歩むことができるようになりました。「天」からなら世界中の人にイエス様のメッセージを届けることができるのです。それは、神様の普遍的な愛、それを全ての人が受けられるようになった、ということです。
 もう一つは、イエス様の昇天が私たちの昇天の原型であり、保証でもあるということです。本日の特祷に「わたしたちは独りのみ子イエス・キリストが天に昇られたことを信じます。どうかわたしたちも心と思いを天に昇らせ、絶えず主とともにおらせてください。」とありますように、私たちも、私たちに先駆けて天の栄光に入られたイエス様に倣って、いつかイエス様とともにいることができるという希望のうちにこの出来事を祝うのであります。

 このことを示している聖歌があります。先ほどの福音書前の聖歌 498番「主われを愛す」の3番です。こうあります。
『みくにの門(かど)を ひらきてわれを 招きたまえリ いさみて昇(のぼ)らん
  わが主イエス わが主イエス わが主イエス われを愛す 』
 天に昇られたイエス様は、天国の門を開いて私たちを招いて下さいます。私たちも喜び勇んで天国に昇っていきましょう、という意味です。
 なお、ここのオリジナルの英語を直訳すればこうなります。
「イエスは私を愛しておられる! 主はいつも私のそばに寄り添ってくださる。私が主を愛すると、私が死ぬとき、主は私を天のふるさとに、つれていってくださる。」
 これは天のふるさとに入れる信仰、確信への賛美であり、私たちが天国に招かれるのはイエス様の昇天のお陰なのです。今日はそのことを感謝する昇天日の礼拝であります。
 
 さらに、「復活→昇天→聖霊降臨」を時間的な流れの中で起きた出来事としてとらえたいと思います。「復活」は、イエス様が死に打ち勝ち今も生きているという面を表します。「昇天」は、イエス様が神様のもとに行き、そこで神様とともに永遠の命を生きる方となったという面を表します。そして「聖霊降臨」は、イエス様が目に見えないけれども私たちのうちに今も働いていてくださることを表していると言えます。特に、「昇天」から「聖霊降臨」については、今日からの11日間を、神様とイエス様の恵みを覚え、管区から送られてきた小冊子「み国が来ますように(Thy Kingdom come)」という「祈りのしおり」を毎日使用することで、この意味も実感することができると考えます。

 なお、この運動は、祈りを通してイエス様との交わりを深め、主を証し、他の人をイエス様のもとに導くことを目的としています。ぜひ、皆さんの周りでイエス様のもとに導きたい5人の方の名前をご自分のしおりに書いて祈っていただきたいと思います。私も福音を宣べ伝えたい5名の名前を記しました。

 今回私の心に響いたのは、イエス様の本当の故郷は神のもとだということです。人間のイエス様の故郷はナザレでしたが、本当の故郷は神様のもとだったのです。では私たちはどうなのかというと、私たちの本当の故郷も、イエス様と同じように、この地上にあるのではありません。私たちもイエス様と次元は違いますが、私たちも神様のもとから来て神様のもとに帰っていく存在であるということを、イエス様の昇天と共に、もう一度思い起こしたいと思うのであります。

 先日の星野富弘さんの前橋キリスト教会での葬儀では、祭壇に「私たちの国籍は天にあります」というプラカードが掲げられていました。
 司式された内田和彦牧師は、こう祈っておられました。「あなたは、富弘兄をお召しになりました。富弘兄はその不自由な身体から解放され、天の故郷に帰って行かれました」と。
 私は、イエス様が富弘さんを大きな手を広げて招いておられる様子が目に浮かびました。このことを、富弘さんはこの詩画集「足で歩いた頃のこと」の中の「真っ直ぐに」(P.42)の詩画で表していると思いました。

 こうあります。
「坂道もあるけれど 
 この道の先には 両手を広げて待っている人がいる 
 真っ直ぐにこの道を行こう」
 私たちも、両手を広げて待っておられるイエス様に向かって真っ直ぐに歩いて行きたいと願うものであります。
 
 皆さん、イエス様の昇天の出来事は、神様の普遍的な愛と私たちが天においてイエス様と共にいることができるという希望の福音を伝えています。天に昇る直前も、天に上げられながらも、弟子たちを祝福されたイエス様は、私たちをも祝福し、私たちを両手を広げて招いておられます。私たちはその恵みに感謝し、今も後も絶えずイエス様とともにいることができるよう祈り求めて参りたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 

 

 

復活節第6主日 『愛の本質を示した友なるイエス様』

 本日は復活節第6主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 本日の聖書箇所は、使徒言行録10:44-48 、詩編98、ヨハネの手紙一 5:1-6 及びヨハネによる福音書15:9-17。説教では、イエス様が私たちに示した愛の本質及びイエス様は友であることを知り、すべての人を大切にして、愛を生きることができるように、そしてイエス様とつながる喜びを分かち合っていけるように祈り求めました。
 テーマと関係する聖歌482番の歌詞や星野富弘さんの「愛、深き淵より」の中の文章も活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 星野富弘さんが、一週間前、4月28日に逝去されました。富弘さんの御国での魂の平安を祈ります。富弘さんの詩画は多くの方に感動を与え、神様から特別の使命が与えられた一生だったと思います。5月3日のご葬儀にYoutubeで参列しました。司式をされた内田和彦牧師は説教で富弘さんが苦難を通して神に救われたことを話し、遺族挨拶で昌子夫人は、富弘さんは文や絵をかくことが遺言のようで、作品は子供のようだった、今は天に帰って寂しいと話しておられました。

 さて、本日は復活節第6主日です。復活節も終わりに近づきました。今週の木曜、9日は昇天日、復活日(イースター)から40日後にあたります。その日はマッテア教会では聖餐式がありますので、参列していただければうれしいです。
 本日の福音書箇所はヨハネによる福音書15節9節-17節です。先週の「ぶどうの木と枝」のたとえに続く箇所です。イエス様が最後の晩餐の席上で弟子たちに行った長い告別説教の一部であります。
 この箇所には3つの内容があります。「愛の本質」についてと「友」について、そして「神の選び」についてです。それぞれの中心聖句を基に思い巡らしたいと思います。

 11節・12節に「これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。」とあります。
 「これらのこと」は1-10節全体を指しています。「喜び」はイエス様と私たちが、ぶどうの木と枝のように愛によってつながっていることです。
 「私があなたがたを愛したように」とイエス様は、まず御自分が先に弟子たちを愛してきたことをお示しになり、そのように「互いに愛し合いなさい」と命じておられます。
 この「愛する」の原語(ギリシャ語)は「アガパオー」です。神の愛を表す「アガペー」の動詞形です。原文は命令形ではなく、直訳は「[あなたたちは]愛するようになる」であり、現在形で表されており継続を意味しています。つまり私があなた方をまず愛したから、あなたがたは「続けて愛し合うことになる」というニュアンスです。そのように生き続けていく中で、イエス様の喜びが私の喜びとなっていくということと考えられます。
  大阪の釜が崎で日雇い労働者と共に生活しながら、聖書の翻訳をしている本田哲郎神父の訳では12節はこうなっています。
 「わたしがあなたたちを大切にしたようにあなたたちが互いに大切にしあうこと、これこそ、わたしの掟である」と。
 本田神父はこれまで「愛する」と訳されていた部分を「大切にする」と訳し変えているのです。
 これは、日本の戦国時代のキリシタンたちが「神の愛」を「デウスの御大切」と訳していたのと似ています。当時は、仏教では、「愛」=「愛欲」であり、浄化すべきものと捉えられていたので、キリスト教の教義の中心となる「神の愛」という概念を正しく伝えるために、「愛」でなく「御大切」という言葉を使ったようです。
 キリスト教における「愛」とは、その人のことが好きということとイコールではありません。それは相手のことを思いやり、共感し、受け入れ、理解し、ゆるそうと努力することです。たとえ、その人が憎らしくても、その人のことを大切にしていこうとするのが、キリスト教における「愛する」ということであります。
 「この私を愛してくださった」というイエス様の愛を深く受け取ったからこそ、弟子たちは愛することができるし、愛さずにはいられなくなります。これは義務や命令ではなく、「恵み」なのであります。
 
 13節・14節はこうです。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。」
 13節ではイエス様の愛が語られています。ここの「捨てる」の原語(ギリシャ語)は「ティセーミ」、直訳は「置く」です。13節全体を直訳すれば「自分の命を友のために置くことより大きい愛はない」であり、十字架に示されたイエス様の愛を指していると考えられます。14節の原文では、最初に「あなたがたは私の友である」と述べてから、その条件に触れ、「私が命じたことを行うなら」と説いています。条件を後に述べるのは、「私の友である」ことを強調し、イエス様の友となるという希望の中で、戒めの実行に向わせるためであります。
 さらに15節でイエス様はこうおっしゃっています。
「私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」
 僕は主人のしていることを知りません。しかし、イエス様は父から聞いたことをすべて弟子たちに知らせました。だから弟子たちはイエス様の友なのです。私たちもイエス様は友と呼んでくださるのです。

 16節はこうです。
「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである。」
 弟子たちがイエス様を選んだのでなく、「私が」彼らを選んだ。このようにイエス様のイニシアチブを強調した後で、「(あなたがたを)任命した」と述べています。何のために任命したかと言えば、「あなたがたが行って実を結び、その実が残る」ためであり、「私の名で父に願うなら何でも、父が与えてくださる」ためです。ここで「任命した」と訳している言葉の直訳は「置いた」であり、この語は13節で「(命を)捨てる」(直訳では(命を)「置く」)と訳した動詞と同じです。十字架に命を置くイエス様が、同じ愛をもって、弟子を使命へと置くのであります。

 今回、この福音書箇所では、14節以下の「私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。私はあなたがたを友と呼ぶ。」のみ言葉が響きました。イエス様が私たちを友としてくださる。親しい友だちとしてくださるということです。このことをしっかり受けとめたいと思います。
 「イエス様が友である」ということでは福音書前に歌った聖歌482番「いつくしみ深き友なるイエスは」をご覧ください。この聖歌は一昨日の星野富弘さんの葬儀でも歌われました。1節はこうです。
「いつくしみ深き 友なるイェスは 罪 咎(とが) 憂いを 取り去りたもう 心の嘆きを つつまず述べて などかは降ろさぬ 負える重荷を」
 イエス様は慈しみ深い友なるお方、言い換えれば、私たちを愛し、大切にしてくださる友だちです。そして、私たちの罪や過ちやつらい思いを取り去ってくださるお方です。「などかは降ろさぬ」とは、「なぜ降ろさないのか」という意味の反語的疑問文です。現代語にすれば「イエス様に心の嘆きをすべて話して、背負っている重い荷物をなぜ降ろさないのですか?(降ろしましょう)」となります。
 以下、2節では、「イエス様は、私たちが弱いことを知っていてお腹を痛めるほど思ってくださり、私たちが悩んだり悲しんだりして落ち込んでいる時も、祈りに応えて慰めてくださる」ことが歌われています。さらに、3節では、「イエス様は、ずっと私たちを愛して導いてくださり、世の友だちが私を捨てたとしても、祈りに応えて大事にしてくださる」ことが示されています。
 イエス様は、このように私たちの友なのであります。

 ところで、星野富弘さんが、多くの方に知られるようになったのは、手記等を収めた最初の著作「愛、深き淵より」の出版によります。今回、この本の新版を読んで、気づかされたことがあります。

 この本の題名となった「愛、深き淵より」の「愛」は、本日の福音書で述べられている「神の愛」、私たちを大切にしてくださるアガペーです。「深い淵」は詩篇130編の冒頭の言葉であり、私たちの人生にふりかかって来る災難や困難、苦しみなどを指すと考えられます。不慮の事故で手足の自由を失った富弘さんですが、神様はそれで終わりになさらず、「詩画」という賜物を与え、さらにキリスト者としての新たな生き方をお与えになりました。
 富弘さんの洗礼について、この本にこうありました(P.181)。それは1974年12月22日のことでした。「私の額に牧師の手によって三滴の水がつけられ、私が神の言葉に従って、この地上での道を天国の故郷に帰れるその日まで、神の愛によって力強く歩んでいくことができるよう祈ってくれた。」私は、今、天国の故郷で友であるイエス様と共におられる星野富弘さんを思うのであります。

 皆さん、イエス様は私たちをも、友として大切にしてくださっています。
 私たちはそのことを感謝し、今度は私たちが、今、関わっている家族や友だちなど、すべての人を大切にして、愛を生きることができるように、そしてイエス様とつながっている喜びを分かち合っていけるように、そのようにイエス様の心を生きることができるように、祈り求めて参りたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 

『前橋上泉町教会献堂20周年記念礼拝説教』

 4月29日に前橋上泉町教会献堂20周年記念礼拝に招かれ、奏楽と説教の奉仕をしました。

キリスト教はなぜ十字架なのか?」というテーマを与えられ、30分以上話し、30名弱の会衆の方が熱心に耳を傾け頷いたりメモをとったりしていました。以下のその説教原稿を記します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 前橋上泉町教会の献堂20周年、おめでとうございます。
 私は日本聖公会の司祭で、前橋聖マッテア教会牧師のマルコ福田弘二と申します。既に、今回の記念集会のはがきでお知らせしてありますが、簡単に自己紹介をさせていただきます。私は現在69歳ですが、60歳の定年まで公立学校の教師として38年間務めました。最初の10年間は小中学校の通常教育、残りの28年間は特別支援学校(当時は養護学校)などの特別支援教育に携わり、退職してから神学校(聖公会神学院)に入学しました。そして、2018年に執事、2019年に司祭に按手(叙階)されました。現在、前橋・高崎・新町の教会の牧師と玉村の幼稚園(認定こども園)のチャプレンをしています。
 聖公会は、受付でお渡しました「前橋聖マッテア教会の教会案内」の中の解説にありますように、プロテスタント的でありながらカトリック教会と共通する多くの伝統や考えを残している教派です。言い換えれば聖書と伝統を重んじる「中道」ということですが、部分的にはカトリックよりも伝統的ではないかと感じるときもあります。例えば聖餐式で使う聖品(チャリス・ベール)や礼拝で行う所作(ひざまずく)などです。今回、事前の打ち合わせで、私に関しては聖公会の方法で進めてよろしいとなりましたので、そうさせていただきます。皆様には違和感を感じるところがあるかもしれませんが、ご理解をお願いします。

 今回、内田彰先生から記念礼拝で「キリスト教はなぜ十字架なのですか?」というテーマでお話をしてほしいと依頼を受けました。内田先生とは30年近くの知り合いで、先生がまだ教員で、前橋市養護学校にお勤めの頃に出会いました。私はその頃、県教育委員会特別支援教育の指導主事で、国の教育課程の研修会でご一緒したのを覚えています。 
 その後、内田先生が牧師になられてからは何度か前橋上泉町教会の礼拝や祈祷会に参列し、そして公民館で実施していた三浦綾子読書会にも参加したことがあります。これまでの長いお交わりに感謝しております。

 さて、「キリスト教と十字架の関係」ということでどの聖書箇所がいいか色々と考えましたが、今回は、先ほど朗読し皆さんにも部分的に唱えていただきましたマルコによる福音書15:1-39としました。聖書は一番新しい訳の聖書協会共同訳を使いました。ここは聖金曜日(受苦日)の夜明けの裁判から午後3時にイエス様が息を引き取られるまでを描いた箇所です。
 あらすじはこうです。
『夜が明けると、祭司長たちはイエス様をピラトに渡しました。ピラトは祭りのたびに囚人を一人釈放していた慣習に従い、イエス様を釈放しようとします。しかし、祭司長たちに扇動された群衆たちの声に負けて、ピラトはイエス様を十字架につけるために引き渡しました。兵士のあざけりを受けた後、イエス様はゴルゴタの丘に引かれて行き、十字架につけられました。途中でキレネ人のシモンに十字架を担がせました。通り掛かった人々も、一緒に十字架につけられた強盗もイエス様を侮辱しました。イエス様が十字架の上で息を引き取ると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、百人隊長は「まことに、この人は神の子だった」と言うのでした。』
 
 マルコ福音書は、異邦人、特にローマ人向けに書かれましたので、この当時の読者(主にローマ人)にとっては十字架刑は馴染みのあるものですが、現代の私たちがこの聖書箇所を理解するには、当時の十字架刑について知る必要があります。
 十字架刑は、ギリシア人及びローマ人が発明した刑です。元々は反乱した奴隷に限って用いられ、その後すべての犯罪者に適応されました。見せしめのために長く苦しむ死刑の方法です。十字架刑は、刑を受ける人が十字架を担いで行きます。その向かう途中で群衆の嘲りを受けます。この刑の本来意味していることは、かつて反乱した者が、今は「ローマ法に従順に服している」という姿を見せることでした。

 今回は読みませんでいたが、使用聖書箇所のプリントの2ページの後半にあるマルコによる福音書8:34をご覧ください。
「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。』とあります。
 「自分の十字架」とは、イエス様と同じような苦しみの十字架を担げという意味ではありません。「自分の十字架」とは、比喩的表現で「自分の思いと神の思いが交差する時、自分の思いを捨てて神の思いに従順になりなさい」という勧めです。
 つまり、「十字架を運ぶ」「十字架を負う」とは「従順の勧め」です。十字架刑が意味しているのは、ローマ法への従順、つまり、「支配している権威への従順」です。イエス様は、父なる神に従順に歩まれました。どこまで従順だったかというと、「死に至るまで」です。そのように、私たちも、神様の御心に従順になる必要があると思います。自分の思いを優先させたい、自分の欲望を満たしたいと思う時に、そうではなくて、神様の御心に従順になること、それが「自分の十字架を負う」という意味であると言えます。
 ですから「自分の十字架を負う」とは「自分の問題、悩み、傷等を背負って生きる」ということではありません。そうではなく、「主に従う」ということです。言い換えれば「神様の御心に従う」ということが、「自分の十字架を負う」ということであると思います。

 また、先ほど聖書朗読をしたマルコによる福音書15:1-39の中では、21節にこうあります。
「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、畑から帰って来て通りかかったので、兵士たちはこの人を徴用し、イエスの十字架を担がせた。」
 イエス様が十字架を担いで歩いているときに、この十字架が重過ぎてもう担げなかったのです。倒れてしまって、もう、持てなかったので、担ぐ人を探し、キレネ人のシモンに十字架を担がせたのです。
 キレネ人のシモンは、「何で自分がこんな十字架を背負わなければならないのか」と心の中でつぶやきながら担いだと思います。マルコの福音書は「アレクサンドロとルフォスとの父で」と、息子の名前2人を記していますが、それはこの2人が初代教会のリーダーでよく知られていたからです。そこから考えられるのは、キレネ人のシモンはこの後に回心して、キリストに従う者になったということ。一緒に十字架を担ぐことがきっかけで、彼は洗礼を受けた、ということが考えられます。一緒に十字架を担いだことは、彼の生涯において宝物になった、と思います。それは私達にとっても、同じだと思います。自分で苦しんでるだけならば、それはただの苦しみですが、その苦しみをイエス様と共に苦しむならば、どれほど恵みと価値があって、自分の宝物になるのかということです。
 十字架は本来、死刑の方法で、見せしめであり権力者への従順を示す悲惨なものですが、主に従い、イエス様と担ぐことでパラドクス(逆説)として、宝物となるのであります。

 十字架について、さらに思い巡らします。
 25節にありますように、イエス様が十字架につけられたのは午前9時です。罪状書きには、「ユダヤ人の王」とあり、ただの犯罪人の一人としてイエス様はあげられました。人々は頭を振りながら、イエス様を罵って言いました。29節・30節です。
『そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って言った。「おやおや、神殿を壊し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」』
 誰も十字架を意識していません。十字架にかからない賢い生き方、それこそが、救いだと思っているのでしょう。律法学者や祭司長たちはこう言いました。
「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。」
 彼らは上手に困難をくぐり抜け、結局は自分が良いところに置かれるために、信仰を生きようとしているように思われます。

 次に、イエス様が十字架上で述べられた言葉に注目します。34節にこうあります。
『三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。』
 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」はイエス様がお話ししていたアラム語です。マルコはこの言葉をあえてイエス様が叫ばれた言葉そのもので記しました。これは父なる神様に訴える、人間的な率直な叫びです。イエス様は「わが神、わが神」と二度唱え、親しみを込めて語りました。この言葉は、詩編22編の最初の言葉でもあります。
 そして、37節です。
『しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。』
 マルコではイエス様の最後の言葉の内容は記されていませんが、ルカではこう記されています。23:46です。
『イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手に委ねます。」こう言って息を引き取られた。』
 ここの「私の霊を御手に委ねます。」は詩編31編6節の言葉です。もしかしたらイエス様は詩編を22編の最初からここまで唱えていたのかもしれません。
 私たちは不安と戸惑いの中で、神様に「なぜか」と問いかけます。イエス様の「なぜ」も同じだと考えます。沈黙する神様に「わが神、わが神」と呼びかけるイエス様は、「なぜ」と問いながら、神様の声が聞こえるのを待っています。この叫びは絶望ではなく、神様の応答を求める祈りです。そこにあるのは「神様への全幅の信頼」であります。
 イエス様は十字架上で、人間的な「なぜ私をお見捨てになったのですか」という訴えの後、最後は「御手に委ねます。」と神様の思い(意志)を全面的に受け入れたのです。 

 さらに、39節の百人隊長の反応を見たいと思います。こうあります。
『イエスに向かって立っていた百人隊長は、このように息を引き取られたのを見て、「まことに、この人は神の子だった」と言った。』
 「このように」とは、イエス様が息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が裂けて神と人を断絶させていたものが取り払われたということです。それを見て、百人隊長は、「イエス様は神の子だった」と断言したのでした。異邦人であるローマの百人隊長がイエス様を神の子であると告白したのです。
 この百人隊長の反応は、35・36節の人々の反応と対照的です。どちらの箇所にも原文を見ると「そばに立っていた」という分詞(35・39節)と、「見る」という動詞(36・39節)が使われていますが、同じ動詞を使うことによって、イエス様の十字架をめぐる二つの立場が対比されています。一方にとって十字架は嘲笑の対象であり、他方にとっては神様のみ心を読み取るしるしです。何がこの違いを引き起こすかといえば、イエス様に対して取っている百人隊長の姿勢と言えます。彼は十字架の「そばに立っていた」だけでなく、イエス様と「向かい合って」います(39節)。百人隊長はイエス様と「向かい合って」いたのです。この「向かい合う」はギリシャ語原文では「エナンティオス」であり「相対している」という意味です。英語の聖書では「facing(直視して、顔と顔を合わせて)」とありました。十字架のイエス様と「向かい合う」「顔と顔を合わせる」なら、イエス様を神の子と告白する者となるのです。イエス様をからかう者は「そばに立って」はいても、目をイエス様に向けてはいません。そのような者には十字架は嘲笑の対象でしかありません。イエス様と向かい合い、十字架の死を直視する者には、十字架を通して語りかける神様の声が聞こえます。

 本日お持ちした、イエス様が十字架についた磔刑像をご覧ください。

 

『イエスは十字架にかけられる前、言いました。「人の子が・・・多くの人ための、贖いの代価として、自分の命を与えるために来た(マタイによる福音書20章28節)」』
「贖い」と訳されているギリシャ語の元々の意味は、奴隷や人質を買い戻し自由にすることです。イエス様は様々なことにとらわれている私たちのために十字架に付き「贖い」、私たちを解放してくださるのです。これこそキリスト教の本資であり、「救い」の根本です。

 A4の使用聖書箇所のプリント2ページの終わりから2つ目のみ言葉、マタイによる福音書11章28-30節をご覧ください。
「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」
 イエス様はこう言っています。「私の軛を負い、私に学びなさい。」と。軛は二頭の首にかけられています。この場合の二頭とはどういうことかと言えば、一頭はイエス様で、もう一頭は自分だということです。イエス様と二人で軛を合わせていくには、歩調が合わなければうまくいきません。イエス様があっちに行こうとしているのに、自分がこっちへ行こうとしたらだめだし、イエス様がゆっくりしようと思っているのに早くしようと思ったらだめです。歩調を合わさない限り、軛は合いません。そして、何をするかと言ったら、土を耕すということです。耕さなければならないものがあるのです。それは私たちの固い心かもしれません。それをイエス様と軛を合わせてやらなければ、土をうまく掘り起こせないのです。この土とは日本の社会や家庭などかもしれません。そこをイエス様と共に耕していく、すると安らぎが与えられる。それをするように、私たちは呼ばれているのだと思います。
 端的に言えば、「私の軛を負い、私に学びなさい」とは「イエス様と一緒に軛を負い、イエス様のリードに従って歩みなさい」ということです。そうすれば「魂に安らぎが得られる。」というのです。なぜなら「私の軛は負いやすく、私の荷は軽いから」です。イエス様は「私がうまくリードする、あなたが負いきれない重い荷物は載せないから」というのです。

 ところで、カトリック聖公会の聖職者は、首にカラーを着けます。このカラーは、何のために着けているのかご存じでしょうか?
 諸説ありますが、一つには神様につながれていることをいつも自覚するということです。そして、周りの人もそれを着けている人は「神様に仕え福音を伝えるために生きている人だ」と見ます。日本ではあまりそういう目で見る人は多くありませんが、カラーを着けて街を歩いていると、時々恭しく挨拶したりする外国人の方もいます。ですから、聖職カラーは神様につながれている軛の象徴と言えます。
 しかし、重荷を負って苦労しイエス様のもとに来た私たちもまた、実はイエス様のもとで休ませてもらった後、イエス様の軛を負わされているのです。それは、目には見えない軛です。カラーのように、人に気づかれるものではありません。イエス様から与えられる軛は負いやすく、その荷は軽いのです。それはこの軛がイエス様によって一人一人に応じて作られ、そしてその荷物はイエス様が共に担ってくださるからです。
 私たちは皆、何らかの重荷を負っている者です。その私たちにイエス様は「私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」とおっしゃっておられます。重荷とは十字架と言い換えてもいいかもしれません。イエス様が一緒に重荷(十字架)を負っておられ、イエス様と二人で軛につながれ、イエス様のリードで人生を歩むとき、魂に安らぎが得られるのです。

 イエス様の十字架は十字架では終わりません。3日後に復活し、弟子たちの前に現れました。この場面を描いたマッテア教会のステンドグラスでは、イエス様の右の掌にはっきりと釘の傷跡が記されています。

 イエス様の傷跡に関しては、使用聖書箇所のプリントの最後のイザヤ書53章5節にこうあります。
『彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。』
 イエス様の受けられた傷によって、私たちに平安と癒しが与えられたことを思います。私にはこのステンドグラスのイエス様の右の掌の傷が輝いて見えます。

 私は平日の毎日10時半からマッテア教会の聖堂で、「朝の祈り」と「ロザリオの祈り」を捧げているのですが、ある日、それを終えてステンドグラスのイエス様を見つめた時に、こんな声が聞こえたような気がしました。それは「傷も賜物だよ」という声でした。
 このことで私には思い当たることがあります。
 私は26歳の時、1981年のイースターに洗礼を受けました。信仰歴は43年になります。キリスト教との出会いは入学した大学が、たまたまキリスト教主義学校だったことです。卒業後、教師となり群馬県の山間部の小学校に赴任し3年を過ごし、そこではなんとか務めることができました。しかし、その後、都市部の中学校の教師になった時、その学校がかなり荒れていてどう対応したらいいか悩み、同僚の教師からは「もっと厳しく指導すべきだ」と言われました。生徒にも教師にも傷つけられ、ついには学校に行けず、不登校のような状態にまでなってしまいました。そんな折、大学で受けたキリスト教教育を思い出し、それこそが真実の教育であると思い、もっとキリスト教を知りたいと考え、出身大学と同じ聖公会の教会の門をくぐりました。それがアドヴェントの頃で、通って行くにつれ癒され希望が見えてきました。そして次の年のイースターに洗礼を受けました。それ以降、「イエス様の教え、キリスト教精神で生徒たちに接しよう、教育に当たろう」と考え、実践し、60歳の定年まで勤めることができました。
 生徒にも教師にも傷つけられ、苦しかったのですが、その傷のゆえに教会に通うようになり受洗し、さらに今は聖職として聖務を果たしています。まさに「傷も賜物だ」と思います。

 ここにお集まりの皆さんも、何かの傷を受け苦しんでおられるかもしれません。しかし、それは神様から与えられた「賜物」なのかもしれません。イエス様も傷を受けられたのです。それがイエス様の十字架であり、私たちは十字架のイエス様と向き合うことが求められていると考えます。

  本日の礼拝で十戒の後に歌った讃美歌294番「みめぐみゆたけき」をご覧ください。この曲は少し歌詞は違うのですが聖公会聖歌集では「聖歌520番」で私の愛唱聖歌であり、新島襄の妻、新島八重の愛唱聖歌でもあります。1節にこうあります。
「みめぐみゆたけき 主の手にひかれて この世の旅路を あゆむぞうれしき
 たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ みあとをゆくこそ こよなきさちなれ」
 この歌は神様を信じて生きていく喜びと感謝に満ちています。「主の手にひかれて」とは「主と軛をつながれて共に歩むこと」だと思います。そして、その主は傷を負った十字架のイエス様です。イエス様はこう言っておられます。「私のもとに来なさい。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いから、あなたがたの魂に安らぎが得られる。」と。私たちはこのイエス様と向き合い、そして、共に歩んで参りたいと思います。

 お祈りします。
「恵みに富みたもう父なる神様、私たちを前橋上泉町教会献堂20周年記念礼拝にお招きくださりありがとうございます。いつも私たちをみ守り導いてくださるあなたを賛美し崇めます。
 本日の聖書箇所から、十字架は見せしめであり悲惨なものですが、主に従い、イエス様と担ぐことで宝物となることを知りました。あなたは、十字架のイエス様と向かい合い共に歩むことを私たちに望んでおられます。イエス様が十字架につかれたのは私たちの罪を贖うためであり、それほど私たちを愛してくださっているのに、私たちは時に、思いと言葉と行いによってあなたから離れていることを懺悔します。「まことに、この人は神の子だった」と言った百人隊長のような信仰を持つことができますように。そして、どうかあなたの心を私たちの心として、み旨を行うことができるようお導きください。
 前橋上泉町教会がますますあなたに喜ばれる教会となり、この教会に連なるすべての方々にあなたの恵みと祝福がありますように。これらの祈りを私たちの牧者である救い主、イエス・キリストによって御前にお捧げいたします。アーメン」

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

復活節第5主日 『ぶどうの木であるイエス様につながる』

 本日は復活節第5主日です。午前は高崎、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。
 4月から新たに高崎オーガスチン教会の管理牧師になり、月の第4主日は高崎の教会の10:30からの礼拝の司式・説教をすることになりました。本日は久しぶりに高崎で聖餐式を捧げ、懐かしい皆さんにもお会いでき感謝な時でした。

 本日の礼拝の聖書箇所は使徒言行録8:26-40、詩編22:25-31、ヨハネの手紙一4:7-21及びヨハネによる福音書15:1-8。説教では、私たちはぶどうの枝であり、ぶどうの木であるイエス様の一部であることを知り、御言葉を聞き、祈り、聖餐に預かるなどの恵みに感謝し、イエス様につながっていくことができるよう祈り求めました。
 管区から送られた小冊子「み国が来ますように(Thy Kingdom come)」という「祈りのしおり」についても言及しました。
 高崎の教会における説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 皆さん、お久しぶりです。こちらでの礼拝は2021年4月4日のイースター以来、約3年ぶりとなります。今度は管理牧師ということで、礼拝は月一回(第4日曜)で、あとは毎週水曜日に高崎で聖務を行うようにしています。私は平日は午前10時半から「朝の祈り」と「ロザリオの祈り」を捧げていますが、高崎でも同様にしています。よろしかったら一緒にどうぞ。また、お話等のある方もぜひお出かけください。主に事務的なことは大山執事さんにお願いしていますが、私は今年度は3つの教会の牧師になりましたので、前橋や新町との連携、例えば「聖書と祈りの会(Zoom)」や前橋の会館で行っている「キリスト教文化入門(赤毛のアンを英語で読む会)」等の教会行事の相互交流等を図りたいと考えています。心に留めておいてほしいと思います。
 
 さて、本日は復活節第5主日です。復活節は復活日(イースター)から聖霊降臨日(ペンテコステ)までの50日間ですが、本日は復活日(3月31日)から29日目で、来週の木曜(5月9日)が40日目で昇天日です。その日には前橋聖マッテア教会で10時30分から昇天日聖餐式が行われます。よろしければご参加ください。

 本日の福音書は、ヨハネによる福音書のイエス様が弟子たちに語った告別説教といわれる箇所から取られています。
 本日の箇所は15章1-8節で、イエス様がぶどうの木、私たちはその枝、そして父なる神様が農夫にたとえられています。この箇所で印象的なのは「つながっていなさい」または「つながる」というイエス様の言葉です。1節から8節までで9回も使われています。何のためにつながるのかということが「実を結ぶ」という言葉で説明され、これも7回出てきます。「実を結ぶためにつながる」ということが、本日の箇所のテーマではないかと考えられます。

 2節にこうあります。
「私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」
 ここの「取り除き」とはギリシア語の「アイロー」で、「持ち上げる、取り上げる」ことです。それに対し「手入れをなさる」と訳された語は「カサイロー」で、「清める、剪定(せんてい)する」という意味です。
 イエス様は、「私につながりながらも実を結ばない枝は、天の父が取り除かれる」と言われます。何ら実を結ばないならば、天の父なる神様が取り除かれます。しかし、イエス様につながって少しでも実を結びはじめたら、もっと実を結ぶようにと剪定されるのです。
 取り除かれた枝は「投げ捨てられて枯れ、集められて火に投げ入れられて焼かれてしまう」(6節)、そのように否定的な言葉がまた語られていますから、自分は取り除かれてしまう枝なのか、それとも残される枝なのか、ということが気になるかもしれません。
 そのことについては、3節後半にある「あなたがたはすでに清くなっている」という言葉に注目します。ここの「清くなって」と訳された言葉は「カサロイ」でそれは「手入れをなさる」と訳された「カサイロー」から派生した言葉で、その意味に従って訳すと「あなたたちはすでに手入れがすんでいる」(本田哲郎神父訳)となり、私たちはみな神様によって手入れされ残された枝であることが分かります。私たちはイエス様につながる枝として、エネルギーを与え続けてくださるイエス様からそれを受けながら生きるのです。

 5節にこうあります。
『私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。』
 イエス様は別れを前にした弟子たちに語っています。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と。イエス様はご自分のことを「ぶどうの幹である」とおっしゃっているのではありません「ぶどうの根である」と言っているのでもありません。「私はぶどうの木である」とおっしゃっているのです。つまり、根も幹も枝も含めたぶどうの木全体であると言うのです。そして弟子たちに「あなたがたはその枝である。」とおっしゃっています。つまり「あなたがた枝は、ぶどうの木である私の一部である」とおっしゃっているのであります。  
 ここで「つながる」と訳されているこの元々のギリシャ語は「メノー」という言葉です。葬送式等の福音書箇所の「私の父の家には住む所がたくさんある。」
ヨハネ14:2)の「住む」も原文は「メノー」です。「メノー」の本来の意味は「ある場所や状態に留まる」ということです。そこから「つながる、留まる、住む、離れないでいる」という訳になります。「人が私につながって(メノー)おり、私もその人につながって(メノー)いれば、その人は豊かに実を結ぶ。」とはキリスト者とイエス様との深い交わりを表しています。
 イエス様は、ここで弟子たちに「ぶどうの枝になりなさい」と言っているのではありません。「あなたがたはその枝である。」と断定されているのです。そして、この言葉はイエス様の弟子である私たちにも向けられています。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と。このままイエス様につながっていれば豊かに実を結ぶことができるのです。

 再度、6節の言葉に注目します。それは「私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」と脅かしのようにとらえかねない言葉です。これはどういうことでしょうか? この前後をよく読みますと、4節の「私につながっていなさい」には「私もあなたがたにつながっている」という言葉が続いています。同様に、5節でも「人が私につながっており、私もその人につながっていれば」と語られ、7節では「あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば」と述べられています。つまり、「私につながっていなさい」という命令には、「私もあなたがたにつながっている」からというイエス様の慰めの言葉が付いているのです。単に、「イエス様につながりなさい」と言っているのではありません。その前に、「イエス様が私につながっている」のです。

 具体的に、私たちはどうしたらいいでしょうか? 日々聖書を読み、み言葉を聞き、祈る、礼拝に出席する、教会に連なる、そのようなことが考えられます。信徒である私たちは、聖奠(サクラメント)である洗礼と聖餐でつながることができます。特に聖餐式での陪餐、イエス様の体とイエス様の血をいただくことで、私たちは養われ、育てられるのであります。

 さらに言えば、祈祷書の聖餐式の式文で、181ページの「近づきの祈り」の後半で、私たちは、このように祈ります。
 「恵み深い主よ、どうかわたしたちが、み子イエス・キリストの肉を食し、その血を飲み、罪あるわたしたちの体と魂が、キリストの尊い体と血によって清められ、わたしたちは常にキリストにおり、キリストは常にわたしたちにおられますように アーメン」
「わたしたちは常にキリストにおり、キリストは、常にわたしたちにおられますように」。この祈りと共に、主イエス・キリストの肉と血に与ることこそが、「私につながっていなさい」と言われる、イエス様の言葉が、目に見えるかたちで示される「大切な時」なのではないでしょうか?
「イエス様につながること」の大切さを噛みしめたいと思います。

 ところで、冒頭お話ししましたように、来週の木曜(9日)が昇天日です。私たちは「復活→昇天→聖霊降臨」を時間的な流れの中で起きた出来事としてとらえたいと思います。「復活」は、イエス様が死に打ち勝ち今も生きているという面を表します。「昇天」は、イエス様が神様のもとに行き、そこで神様と共に永遠の命を生きる方となったという面を表します。そして「聖霊降臨」は、イエス様が目に見えないけれども私たちのうちに今も働いていてくださることを表していると言えます。特に、「昇天」から「聖霊降臨」については、神様とイエス様の恵みを覚え、今回、管区から送られてきた小冊子「み国が来ますように(Thy Kingdom come)」という「祈りのしおり」を毎日使用することで、この意味も実感することができると考えます。

 この「祈りのしおり」は一昨年から主教会が黙想文を作成し、日本社会に即した内容となっています。ぜひ、5月9日(木)から毎日、この小冊子を活用してほしいと思います。

 最後に、先ほど、福音書前に歌った聖歌491番「天なる喜び」にも触れたいと思います。聖歌491番をご覧ください。この聖歌はチャールズ・ウェスレーの代表作で、2年前のエリザベス女王の葬送式でも歌われました。この聖歌では、キリストの受肉に見られる神の愛を大きく讃え、その後に清めについて触れています。2節では、神様を信じる一人一人の体に宿る聖霊の真理を強調し、3節では、私たちの信仰が栄光と共に増し加えられるように語っています。さらに「み国に昇りて み前に伏す日 み顔の光を 映させたまえ」とあるように、死後の光明を祈っています。
 1節最後に「乏(とも)しき心に 宿らせたまえ」、そして2節最初「命を与うる 主よ とどまりて」とありますが、ここの「宿る」や「留まる」がおそらくギリシャ語では「メノー」で主イエス・キリストとつながることを祈願していると思われます。
 この聖歌から本日の使徒書のヨハネの手紙一4:9の聖句を思い浮かべます。
「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。」
 父なる神様は、私たちを愛するがゆえに独り子イエス・キリストをこの世に遣わされました。それはすべての人の救いのためです。
 エリザベス女王葬送式の最後にこの歌が歌われたのも、一人女王のためでなく、人類すべての救いを願ってだったのだと思います。

 皆さん、私たちはぶどうの枝であり、ぶどうの木であるイエス様の一部であります。御言葉を聞き、祈り、聖餐に預かるなどの恵みに感謝し、生涯、イエス様につながっていくことができるよう祈り求めて参りたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン