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大斎節第4主日『子が帰ることを喜ぶ「全能の神」』
本日は3月30日、現役最後の主日を前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、ヨシュア記5:9-12、詩編32、コリントの信徒への手紙二 5:16-21、ルカによる福音書15:1-3・11b-32。説教では、「いなくなった息子(放蕩息子)のたとえ」から、「全能の神」は私たちが神のもとに帰ることを望んでいることをおぼえ、悔い改め(回心し)、イースターを迎える心の準備をするよう述べました。
本日のテーマと関係するゴスペルミュージック「エルシャダイ」を本田路津子のCDで聞きました。
本日の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は3月30日、私にとって前橋聖マッテア教会における今年度最後、そして現役としての最後の礼拝です。私は明日、定年退職します。マッテア教会の牧師として4年間聖務を果たすことができ、神に、そして皆様に感謝いたします。なお、4月以降も毎主日の礼拝の司式をさせていただきますが、前橋では月の第5主日の礼拝を務めさせていただきますので、よろしくお願いします。
さて、教会の暦では本日は大斎節第4主日です。大斎節の大きなテーマは「悔い改め」ということで、先主日も本日の箇所もそのことについて述べています。3月5日の灰の水曜日から始まった大斎節ですが、もう一ヶ月近くが過ぎました。今年のイースターは3週間後の4月20日ですが、その前日までが大斎節です。
今日の福音書はルカによる福音書 15:1-3及び11b-32で、改正試用版で前半が付け加わりました。カトリック教会では以前からこの前半を含めた箇所でした。
15:1-3で、ファリサイ派や律法学者たちがイエス様に「なぜ罪人たちを受け入れ一緒に食事をしているのか」と問いただします。それに対してイエス様はルカ15章の3つのたとえ話で、なぜ自分がそうしているかを語ります。3つのたとえとは「見失った羊のたとえ」と「無くした銀貨のたとえ」と本日の箇所の「いなくなった息子のたとえ」です。「いなくなった息子のたとえ」はこれまで「放蕩息子のたとえ」としてよく知られた箇所です。今回の訳では小見出しが「いなくなった息子のたとえ」となり、この方がこの箇所の真意を表していると考えます。
11b-32の概略はこうです。
『父から受けるはずの自分の分の財産をもらって、弟息子は家を出ます。そこで身を持ち崩し財産を使い果たしてしまい、家畜の餌も食べることができないほど落ちぶれます。どん底になったとき、我に返り父のいる豊かだった家を思い出します。「父のところへ帰ろう。」息子は、父のもとに戻ります。弟息子が罪を告白すると、息子の帰りを待ち続けていた父は、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と、弟息子を温かく迎え入れます。それに対して、兄息子は怒りますが、父は同じ言葉を繰り返すのでした。』
このような話でした。
この箇所は大きく3つの部分からなっています。ポイントを見ていきましょう。
最初に11b-16節です。
ここでは、まず、弟息子は父親に向かって、「お父さん、私に財産の分け前をください」(12節)と言います。申命記21:17の規定により、長男は2/3、次男は1/3の財産分与を受けることになっていました。これは本来、父親が死んだら受け継ぐことになっている財産の話です。弟息子の心の中で父は死んだも同然なのでしょう。
続いて17-24節です。
弟息子は我に返りました。ここは英語の聖書(KJV)では「he came to himself」(彼は彼自身に帰った)とありました。神様から造られた本来の彼に帰ったのです。
さらに18・19節にこうあります。
『ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
弟息子は父親のもとに行きました。これは改心(回心)を示します。神様の方に方向転換することです。すると「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(20節)のです。ここで「憐れに思い」と訳されたギリシャ語は、以前にもお話ししましたが「スプランクニゾマイ」で、この言葉は「はらわた痛む」とも訳せる「痛みを伴い苦しむ相手への共感」を意味します。父が息子を見つけて走り寄るこの箇所には、出て行った息子を思う父親の強い愛情と喜びが溢れています。父はその喜びの理由として24節でこう言います。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と。これは先ほど福音書前に歌った聖歌540番の原曲「アメージング・グレース」の歌詞の一部になっています。
最後に25-32節です。
ここでは兄息子の思いと父の思いが示されます。兄は「このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」(29節)というように、人との比較の中で自分は正しいと誇り、「あなたのあの息子」をゆるす父の心が理解できません。それに対して父親は「あなたのあの息子」を「お前のあの弟」(32節)と言い換え、「お前にとって彼は兄弟ではないか」と諭します。父は弟だけでなく兄にも愛情をかけているのです。
イエス様は「なぜ自分が罪人を迎えて食事を一緒にしているか」といえば、それは、神様がこの放蕩息子の父のような方だから、ということです。神様は罪人が再び神様のもとに帰り、神の子として生きることを望んでおられる、だから私も罪人を招き、一緒に食事をしているのだ、というのです。
本日の箇所も神様のもとに帰ること、つまり「悔い改めること」がテーマだと言えます。そして神様のもとこそ豊かで、そこに帰ることを神様は望み、そうするととても喜んでくださるのです。
本日は、午後1時半から教会墓地で「逝去者記念の式」がありますが、そこで眠っている私たちの先人は、私たちより一足早く帰天した(天に帰った)方々です。言い換えれば、神様のもとに帰った方々であり、その方々と共に祈りを捧げるのです。
ところで、今回この箇所を思い巡らして、気づき、感じたことがあります。
それは、身を持ち崩し財産を使い果たした弟息子が父のもとに帰ると、父は「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と、温かく迎え入れたことです。これは父というより母の愛、母性の愛ではないだろうかと思いました。
そのことで思い浮かべる言葉があります。それは「全能の神(エル・シャダイ)」という言葉です。「全能の神(エル・シャダイ)」とは、創世記17章で主なる神がアブラハムに「私は全能の神(エル・シャダイ)である」と告げた神様の名前です。受付で取っていただいたB5の「説教資料」をご覧ください。そこに「全能の」と訳された「シャダイ」(שַׁדַּי)は、「乳房」という意味の「シャド」(שַׁד)から派生してたことが記されています。生まれた子どもにとって母親の乳房には栄養や免疫など、生きるために必要なすべてが含まれているように、神様は私たちが生き生きと生きるために必要な物を与えてくださる。神様はそのように母性あふれる「全能の神(エル・シャダイ)」なのであります。
「エルシャダイ」と題されたゴスペルミュージックがあります。本日は本田路津子のCD「My portrait」から聞いていただきます。資料の歌詞を見ながらお聞きください。

https://www.youtube.com/watch?v=gfciFCW_k00
この曲の歌詞に「女奴隷のハガルにさえも憐れむお方 エルシャダイ」とありますが、アブラハムの子を宿した女奴隷ハガルが子のいない正妻のサラに疎まれ家を出たところ、「全能の神(エルシャダイ)」は御使いを遣わし、家に戻るよう告げました。神様はそのように憐れみ深いお方なのであります。
私の人生を振り返っても、「全能の神(エルシャダイ)」はいつも私の傍らにいて良い方向に導いてくださいました。私は25歳のアドベントの頃に初めてこのマッテア教会を訪ねましたが、それは1980年(昭和55年)に初めて中学校に赴任し、そこが一学年10クラスもある大規模校で荒れていて、私は思い悩んでこの教会の扉を開いたのでした。教会の皆さん、そして神様は私を温かく迎え入れてくれました。また、県の教育委員会に務めていた時は、障害児の就学先を決める就学指導という重い仕事をしていて、昼休みに聖堂で独り祈りました。聖堂正面の「復活のイエス」は私を温かく包んでくれました。それは母性的な「全能の神(エルシャダイ)」だったと思うのです。
私は明日の3月31日で定年退職し、このマッテア教会を去りますが、この教会、そして「全能の神」に心から感謝するものであります。
皆さん、本日は大斎節第4主日です。私たちは自らを振り返り、この弟息子のように悔い改め、愛情深い「全能の神(エル・シャダイ)」のもとに帰りたいと願います。神様はいつも私たちと共にいたいと思っておられるのです。その恵みと神様のもとにある豊かさに気づきましょう。「全能の神」は私たちが神様のもとに帰ることを望んでおられ、そうすれば大変喜んでくださることをおぼえ、イエス様の復活を待ち望み、悔い改め(神様の方を向き)、イースターを迎える心の準備をして参りたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン
大斎節第3主日 『忍耐と慈しみの神に立ち帰る』
本日は大斎節第3主日です。午前は高崎、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、イザヤ書55:1-9、詩編63:1-8、コリントの信徒への手紙一10:1-13、ルカによる福音書13:1-9。説教では、「悔い改め(メタノイア)」の意味を知り、試練の時に共にいてくださる忍耐と慈しみの神に立ち帰り、御心に従う人生を歩むよう祈りました。
テーマと関係する「インクルーシブアート展」に出品された作品も紹介しました。
本日の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は3月23日、私にとってはこの教会では今年度最後で、現役としての最後の礼拝です。70歳の定年まで聖務を果たすことができ、神に、そして皆様に感謝いたします。なお、4月以降の主日の礼拝について、こちらの教会では引き続き務めさせていただきますので、よろしくお願いします。
さて、教会の暦では本日は大斎節第3主日です。大斎節は灰の水曜日(今年は3月5日)から始まりましたので、そろそろ大斎節の半分に達しようとしています。本日の聖書箇所も大斎節にふさわしいものが選ばれています。
本日、与えられた聖書のみ言葉から、神様のみ心を尋ねて参ります。
福音書はルカによる福音書 13:1-9ですが、ルカは9:51からのエルサレムへの旅という枠組みの中に、種々の教えを配置し、イエス様の弟子としていかに生きるべきかが教えられています。
本日の福音書の最初のところに「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」とありますが、これは比ゆ的な表現で、実際には、「あるガリラヤ人たちが神殿でいけにえを献げようとしていたところをローマ軍によって殺害された」、という事件のことを表しているようです。
次の「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人」も実際の出来事を指していると考えられます。古代エルサレムには町に水を供給するための地下水道があり、その出口にシロアムの池がありました。その塔が倒れて大勢の人が死んだという大事故があったようです。どちらも当時のユダヤ人にとってはよく知られた出来事だったと考えられます。
イエス様はこの事件と事故についてそれぞれ、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのすべてのガリラヤ人とは違って、罪人だったからだと思うのか。」また、「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるほかのどの人々とは違って、負い目のある者だったと思うのか。」と尋ねておられます。
ここでイエス様が語られた言葉の背景には、当時の人々の考え方が大きく影響していました。それは、不幸なことと罪には、因果関係があるという考え方でした。不幸な出来事はすべて罪の結果であり、不幸が起こったのは、過去に何かの罪を起こした結果であり、それゆえに災難にあったと理解されていました。しかし、イエス様は「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と言って、罪と不幸や災難を直接結び付ける、そのような考え方を否定し、私たち一人一人が悔い改めなければならないと言われたのです。
そして、イエス様は、なかなか自分を変えようとしない頑なな人々に対して「実がならないいちじく木」のたとえを話されました。このような話です。
「ある人がぶどう園に、いちじくの木を植えておき、実を探しに来たのですが、一つも見つかりません。そこで、園丁に言いました。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。切り倒してしまえ。なぜ、土地を無駄にしておくのか。』と。すると園丁は答えました。『ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください。』」
イエス様は、このように、たとえ話で話されました。イエス様は、何をどのように、たとえておられるのでしょうか?
このような解釈があります。
『「主人」とは神様で、「ぶどう園」とはイスラエルであり、「いちじくの木」とは、ユダヤ人を指している。「園丁」とは、イエス様のことであり、「3年間」とは、イエス様が人々の中でされた宣教活動の期間である』と。
神様は、イスラエルを選び、そこにいちじくの木、すなわちユダヤ人を置かれました。神様は、そこで、ユダヤ人の一人一人が実を実らせることを期待しておられたのです。ところが、そのいちじくの木は、神様の期待に応えようとせず、一つも実を実らせません。そこで、園丁であるイエス様を送って、期待に応えないユダヤ人を打ち倒せと命じました。するとイエス様は、「悔い改めるよう働きかけをしますので、しばらく待って下さい」と言って猶予を願い、神様に取りなしをした、というのです。
このたとえは、「神様は正しいお方というだけでなく、慈しみ深いお方でもある」ことを思い起こさせます。ここの重点は「裁きの厳しさではなく、ぎりぎりまで待つ忍耐」を示しているところにあります。
ここの箇所のキーワードは「悔い改め」だと思います。少し、この言葉について考えます。
悔い改めはギリシャ語では「メタノイア」と言います。このギリシア語は「考えを変える」ことを表し、「回心(心を回す)」とも訳される言葉です。
ですから、「悔い改め(メタノイア)」とは、「悪いことをしました。もうしません」ということではなく、回心、つまり「神の方に向きを変えること」、「神に立ち帰ること」を意味します。本日の旧約聖書のイザヤ書55:7に「主に立ち帰れ 私たちの神に立ち帰れ」とある通りです。さらに言えば、「悔い改め」とは、今まで守れずにいた戒めを守るようにすることではなく、イエス様をこの世界に遣わされた神様の救いの御意志に心を向けることと言えます。「悔い改め」とは、生き方の根本的な転換のことです。
本日の使徒書についても見ていきます。コリントの信徒への手紙一10章では、1b~4a節で「私たちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセにあずかる洗礼を受け、皆、同じ霊の食物を食べ、皆、同じ霊の飲み物を飲みました。」とあるように「皆」という言葉が繰り返されています。これは5節で「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。」と続けることで、皆が神様からの恵みを受けていながら大部分は滅ぼされてしまったという事実に注意を促しています。そして、パウロは11節で「これらのことが彼らに起こったのは、警告のためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちを戒めるためなのです。」と指摘しています。このように、過去の過ちに目を向けたのは、将来の救いを一層確実にするためです。さらに、13節でこう結論づけています。
「あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」
有名なみ言葉で、多くの方がこの言葉で救われてきました。ここで「試練」と訳された元のギリシャ語は「ペイラスモス」で、英語の聖書では「test(試み)」や「temptation(誘惑)」とありました。「試み」の出来事は、見方によって誘惑にも試練にもなると言えます。悪魔や人からされるのが誘惑であり、神からされるのが試練です。第一コリント10:13のこのみ言葉の場合は、「試練」と訳されているように神から与えられた試練であります。神様は耐えられない試練に遭わせることはない、試練と共に逃れる道をも備えてくださると言うのです。ここの「逃れる道」はギリシャ語では「エクパスィス」で「エクソドス(出エジプト)」に由来する、「出口」「脱出」とも訳せる言葉です。英語の聖書では「the way out」とありました。神様は試練を与えることはありますが、そこから脱出する出口も備えてくださる慈しみ深いお方なのであります。
ところで、現在、3月20日(木)~25日(火)まで、ララパークスエヒロと高崎中央公民館で「インクルーシブアート展」が開かれています。私は初日に行き、そこでこの作品に出会いました。

Art onに週一度通ってくる「ほの花さん」という方の作品です。繊細なタッチのペン画です。左に少女が立ち、長い髪から多くの小さな少女の顔や花やキノコが派生しています。別の世界につながる出入口のような物の存在を感じさせる魅力的な絵であると思います。この方のことについて私は何も知らないのですが、何らかの障害や試練があるのかもしれませんが、神様は絵を描くという賜物を与え、そこに出口・逃れる道を備えたのだと思います。そして、「インクルーシブアート展」にはこの方以外にもArt onの作家の作品が新しい方法で展示されていますので、ぜひに来場してご覧下さい。Art onに集う皆さんが自分の賜物を発揮できるのは、それを支える「工房あかね」が神様の方向を見て神様に立ち帰っているからだと思うのです。
皆さん、私たちは、困難や試練の時に共にいてくださる神様に信頼し、神様の方を向き神様に立ち帰り、御心に従う人生を歩んで参りたいと思います。
大斎節も半ば近くとなりました。大斎節は、自分自身の信仰のあり方を吟味する時です。心から悔い改め、心の転換を図り、祈りと克己(こっき)に努める時でもあります。
試練の時に共にいてくださる忍耐と慈しみの神様に信頼し、神様の方を向き神様に立ち帰り、御心に従う生活をし、復活の喜びの日を迎えることができるよう、祈り求めて参りたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン
『「ロバータ・フラックの追悼式」に思う』
前々回のブログで取り上げたロバータ・フラックの「追悼式(Memorial Service)が3月10日にニューヨーク州ハーレムのアビシニアン・バプテスト教会で行われました。式は3時間以上に及び、多くの著名な音楽家が登場し、さながらコンサートやグラミー賞の授賞式のような趣きがありました。追悼式は以下のURLで見ることができます
https://www.youtube.com/watch?v=1gSEs5qZXFs
明るい雰囲気で式は進み、特にスティービー・ワンダーの言葉と演奏が素晴らしかったと思います。この映像の1時間36分後くらいからです。スティービー・ワンダーの言葉は以下の通りです。
I have a history, a deep history with Roberta. The history really is a blessing now.
The great thing about not having the ability to see with your eyes is the great opportunity of being able to even better see with your heart. And so I knew how beautiful Roberta was, not seeing her visually but being able to see and feel her heart.
I celebrate that because I see that so much of the world and yes this nation too must be blind at this point and you can challenge me with that with anybody from the highest to the lowest.
I will say to them as I say to you. I think you're a little blind at this point it breaks my heart and Roberta I wanted to just say to you in spirit.
I thank you for letting me hear your voice letting me know your spirit letting me know your heart letting me be able to share with you songs that I was writing whether be it never in your son and obviously the song that timately I was able toite WR the co-writer friend of yours song that while wish that song well the title is what the title was but I'm seeing you in the heaven that is on this Earth that we will celebrate.
Someday I wanted to sing a song to you that I shared with you even before I was done with it I'm going to do it now.
和訳します。
私はロバートと深い歴史を持っています。その歴史は本当に今、祝福されています。
目が見えないことの素晴らしいところは、心でよりよく見ることができる素晴らしい機会があるということです。私は視覚ではロバータを見ていませんが、彼女の心を見て感じることができたので、彼女がどれほど美しいかを知っていました。
それを祝っているのは、世界の多くの人々も、そうです、この国もこの時点では盲目であるに違いないと見ているからです。
あなたに言うように、彼らにも言います。この時点であなたがたは少し盲目だと思います、それは私の心を傷つけます、そしてロバータ、私はただ精神的にあなたに言いたかったのです。
あなたの声を聞かせてくれてありがとう。あなたの精神を知らせ、あなたの心を知らせて、私が書いていた歌をあなたと共有してくれてありがとう。それはあなただけの産物では決してありません。そして明らかに、私はその曲の完成を願って、題名は何であったか、しかし、私はあなたを見ています、あなたの曲の共同執筆者の友人WRを、友人にすることができました。この地上のように私たちが祝う天国でいつかあなたに会えるでしょう。
私はあなたに歌を歌いたかったです。私は曲が完成する前からそれをあなたと共有しました。私は今、それを演奏しましょう。
この後、スティービー・ワンダーは自身の曲「If It's Magic」をハープ奏者のみの伴奏で演奏しました。それから彼はピアノの前に座り、ハープ奏者と一緒にロバータ・フラックのために書いた曲「I Can See the Sun in Late December」を歌いました。これらも素晴らしいです。
スティービーは最後に「I love you, Roberta. And I will see you.(愛してるよ、ロバータ。そして、また会いましょう)」と言いました。
ロバータ・フラックの追悼式における明るい落ち着いた雰囲気、これはスティービー・ワンダーはじめ参加者がロバータとの天国での再会を確信しているせいだと思います。死はすべての終わりではありません。ロバータ・フラックの魂は御国で主の身許にあります。そこでまた相まみえることができることを誰も疑っていません。この信頼がこの雰囲気を生んでいると思います。
なお、ロバータ・フラックは音楽活動だけでなく、公民権運動にも積極的に関わりました。さらに、ロバータは、2006年にNYブロンクスの恵まれない子供たちに無償で音楽教育を提供する「ロバータ・フラック音楽学校」を共同設立し、2010年には音楽教育と動物福祉の支援活動を行う「ロバータ・フラック財団」を設立しました。この世を去る前に自分のできる奉仕・使命を行ったのです。私たちもこの世を去る前に自分のできる奉仕・使命を果たしたいと思います。
大斎節第2主日 『神に帰り、主イエスに会う』
本日は大斎節第2主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、
創世記15:1-12・17-18、詩編27、フィリピの信徒への手紙3:17-4:1及びルカによる福音書13:31-35。説教では、自分を振り返り、神の国に入ることを願っているかどうか吟味するとともに、どのような状況であっても神に帰り、そこで主イエスに会うことができるよう祈り求めました。
テーマと関係するアメリカの女流作家、オコナーの書簡も紹介しました。
本日の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は大斎節第2主日です。大斎節は、イエス様の荒れ野での試練に倣い、節制(欲を抑えて慎むこと)と克己(己に克つこと)に努め、自分を見つめ直すという悔い改めと反省の期間という意味があります。イースター(復活日)を迎える準備の時でもあります。
本日は、まず特祷についてお話しします。先ほどこう祈りました。
「全能の神よ、私たちには自らを助ける力のないことをあなたは知っておられます。どうか外は私たちの体を、内は私たちの魂を守り支えてください。そして体を襲うすべての災いと、魂を襲う悪しき思いから、私たちをお守りください。父と聖霊とともに一体の神であって、世々に生きすべてを治めておられる私たちの主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン」
本日の特祷は冒頭で「全能の神よ、私たちには自らを助ける力のないことをあなたは知っておられます。」と告白します。この告白が意味していることは「私たちの救いの根拠はどこにあるのか」ということを知っているということです。私たちには自らを助ける力はないが、神にはそれができる、つまり、私たちの救いの根拠は神である、ということを確信していることを示しています。それは、言い換えれば、イエス様の十字架の犠牲の死によって救いに与ることができるということです。そして、続いてこの後、「体を襲うすべての災いと、魂を襲う悪しき思いから、私たちをお守りください。」と祈ります。体を襲う災い、魂を襲う悪しき思い、これらから守って下さい、と祈ります。私たちの人生には災いや悪しき思い等の現実が押し寄せてきて、それらは私たちを神から離れさせことにもなります。それは先主日の「荒野の誘惑」のようなもので、その力は小さくありません。私たちにはそれに対抗する力がないことを知っているがゆえに「私たちをお守りください」と祈るのです。この祈りには、神様は必ず救ってくださる、助けてくださるという強い信仰があると言えます。私たちもこの祈りを心からしたいものであります。
次に、本日の福音書箇所、ルカの福音書13章31節から35節について学びたいと思います。
どのような状況の箇所かは、今回の箇所の直前の13章22節に記されています。
「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへと旅を続けられた。」と。
イエス様の宣教の生涯は、旅の日々でした。目的地はエルサレム。エルサレムはイエス様が十字架に架けられた場所です。イエス様の旅は、十字架への旅だったと言えます。今回の箇所はそのエルサレム途上の出来事です。
31節以下を解説を加えてお話しします。
イエス様のそばに来たファリサイ派の人々はイエス様に立ち去ることを命じます。その理由は「ヘロデがあなたを殺そうとしてい」るからと言いますが、それは彼らのイエス様に対する無理解を示しています。ヘロデがイエス様を殺そうとしている事実はないのですから。それに対してイエス様はあの狐(ヘロデ)に「悪霊を追い出し、癒やしを行うことをやめない」と伝えるように言います(32節)。
イエス様はエルサレムで起ころうとしている自身の十字架について33節でこう言っています。「ともかく、私は、今日も明日も、その次の日も進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」と。
ここの「進んで行かねばならない。」の「ねばならない」は、ギリシア語では「デイ」という言葉で、神様の御計画とか願いを表す言葉です。イエス様が「今日も明日も、その次の日も進んで行」くことは神様が決めた道です。ここではイエス様の並々ならぬ決意を感じます。
さらに35節はこうです。
「見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決して私を見ることはない。」
ユダヤ人たちに対して「見よ、お前たちの家は見捨てられる。」と言っています。「家」とは心の拠り所。ここの「お前たちの家」とはイエス様の誕生の頃にヘロデ大王が拡張したエルサレム神殿のことです。それが崩壊すると予言しているのです。また、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』は、イエス様がエルサレムに入城する際、弟子の群れが神様を賛美して叫んだ言葉です(ルカ19:38)。「主の名によって来られる方(メシア)」が祝福される時(イエス様のエルサレム入城)を願い、その時までイエス様を見ることはできないというのです。 エルサレム神殿が崩壊する。それはなぜでしょうか?
その答えは34節にあります。
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」
ここのエルサレムとはユダヤ人のことです。神様は「めんどりが雛を羽の下に集めるように」慈しんだのに、ユダヤ人はそれに応じようとしなかったから「神殿が崩壊した」というのです。この言葉は断罪のように響きますが、そうではなく、嘆きの言葉です。その嘆きは「悔い改め」を求めておられると考えられます。悔い改め、言い換えれば「回心」、それは神様のもとに帰るということです。
このような箇所でした。
本日の箇所から、神様が私たちに求めておられるのはどのようなことでしょうか?
この箇所でイエス様は、「めんどりが雛を羽の下に集めるように」私たちを集めようとされましたが、聖書では羽は神の守りのしるしで、その羽の下がいかに幸いであるか多くの詩編で詠われています。例えば、詩編17編8節「瞳のように私を守り あなたの翼の陰に隠してください」や、詩編5編2節「私の魂はあなたのもとに逃れました。災いが過ぎ去るまで あなたの翼の陰に私は逃れます。」があります。神の翼のもとは安らぎに満ち、神の翼のもとに身を置くことで災いが過ぎ去るまで安全に過ごすことができるというのです。
「めんどりが雛を羽の下に集めるよう」な愛情で神様は私たちをも慈しんでおられます。その神様が統治する国が「神の国」「天の国」です。それは私たちの住み家である家(ホーム)です。
本日の旧約聖書、創世記15章5節で、主はアブラムを外に連れ出しますが、それは神様が「自分の世界」から「神の世界」へ移動させたということと考えられます。神の世界は「神の国」「天の国」のことです。また、10節で、アブラムが捧げ物(生け贄)の家畜を切り裂き向かい合わせに置いたことが記されていて、血が流されたことを想起しますが、これは神と人の古い契約(旧約)です。これは新約におけるイエス様の十字架の予徴です。さらに18節で、主がアブラムに「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われましたが、この土地とは新約においては「神の国」「天の国」のことと考えます。
本日の詩編27編で詩編作者が願い、求め続けた一つのこと、それは4節に表れています。命の限り「主の家」に住むことであり、その「主の家」こそ「神の国」「天の国」のことだと言えます。
本日の使徒書に目を向ければ、フィリピの信徒への手紙3章20節にこうあります。「私たちの国籍は天にあります。」と。私たちの本来の住み家である国は「天の国」、それはつまり「神の国」なのであります。それこそが私たちの本来の家(ホーム)です。その神の家に帰ることを神様は私たちに求めておられます。神に帰ること、それが「悔い改め」であり、「回心」です。神様が私たちに求めておられるのはこのことであると考えます。
「回心」ということで思い浮かべるアメリカの女流作家がいます。それがフラナニー・オコナーです。

受付で取っていただいたB5の資料をご覧ください。
フラナニー・オコナーは1925年にアメリカ南部のジョージア州で生まれ、1964年に難病の狼瘡のため15年間の闘病の末、39歳で逝去しました。狼瘡は、脚と顔の下半分の骨が柔らかくなる病気であり、彼女の父親もこの不治の病で亡くなっています。彼女はアメリカ南部では珍しい熱心なカトリック信徒でした。オコナーにとって、書くことと信仰は密接に結びついていました。彼女は「回心」、つまり「登場人物の変化」を、優れた文学の唯一の真の主題として記しました。
彼女は膨大な手紙を残していますが、それはこの本『The Habit of Being(存在することの習慣)』にまとめられています。

この中で、1956年6月の手紙にこうあります。
("I have never been anywhere but sick.In a sense sickness is a place, more instructive than a long trip to Europe, and it's always a place where there's no company, where nobody can follow. Sickness before death is a very appropriate thing and I think those who don't have it miss one of God's mercies,")
日本語訳で紹介します。
「私は病いから離れてどこかへ出かけていくことはできませんでした。ある意味で、病いは一つの場所のようなものであり、ヨーロッパへの長旅よりも多くのことを私に教えてくれます。その場所に旅の道連れはいませんし、誰もついて行くことができません。死の前に病いがあるということはとてもふさわしいことであり、そこに神の憐れみがあるとしか私には思えません。」
彼女は、病いが多くのことを教え、「死の前に病いがあることをとてもふさわしい、それは神の憐れみである」と言っています。
この精神はネガティブ・ケイパビリティと思われます。ネガティブ・ケイパビリティとは、不確実な状況や答えのない問題に直面した際に、すぐに結論を出そうとせずに、その状態を受け入れる能力のことを言います。オコナーは「死の前に病いがあること」を受け入れています。彼女がそのような力を得たのはなぜでしょうか? それは自身のカトリックの信仰により、病いの中で神様に帰り、そこで主イエス様に会うことができたからと考えます。その場所こそ「神の国」「天の国」であります。
先ほど福音書前に歌った聖歌434番「深い悩みの世の中にも」の1節にこうあります。
「深い悩みの世の中にも 聖なる者の集いに入り
主イエスのもとにわれ招かれ 喜び満つる宴につく
ああ すばらしい 天(あま)つ み国の われらの家」
天のみ国であるわれらの家の素晴らしさ、また、それをこの地上で先取りする「聖なる者の集い」である教会、そこで行われる「喜び満つる宴」である聖餐式等を高らかに謳っています。
なお、この聖歌のオリジナルは唱歌「埴生の宿(Home, Sweet Home)」です。
「天の国」「神の国」であり、「ホーム」の現在における場所が教会です。私はこの3月末で定年退職し前橋の教会から離れますが、皆さんにはこれからもここが「住み家」であり続けるよう、前橋聖マッテア教会が「神の国」の先取りとなりますよう祈るものであります。
皆さん、すべての人は自分にとっての「ホーム」を求めています。そして、ここに、手を広げ私たちを慈しみ招いているイエス様がおられ、神様が統治する国があります。それが「神の国」です。それこそ私たちが籍を置く家(ホーム)です。教会はその現在における場所であります。
この大斎節の期節に際して、自分自身を振り返り、「神の国」について正しく理解し、そこに入ることを願っているかどうか、吟味したいと思います。そして、どのような状況であっても神様に帰り、そこで主イエス様に会うことができるよう、祈り求めたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン
『ロバータ・フラック「やさしく歌って」に思う』
アメリカのジャズ・ソウル・R&B・ゴスペルのシンガー、ロバータ・フラックがこの2月24日に88歳で逝去しました。2022年に「ALS(筋萎縮性側索硬化症)に罹患して引退した」との報道はありましたが、こんなに早く召されるとは思っていませんでした。
私は高校生の頃に、ロバータ・フラックの最初のLPレコード「ファースト・テイク」を購入し愛聴しました。その後、「やさしく歌って」が彼女の最大のヒットシングルとなりました。私のシングルレコード(EP盤)には「ⓟ1973.3」とありますから、おそらく大学1年の頃に購入したと思います。

ロバータ・フラック「やさしく歌って(Killing Me Softly with His Song)」の和訳付きライブは以下のURLで聞く(見る)ことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=77QP4fHnS5c
「やさしく歌って(Killing Me Softly with His Song)」は、ノーマン・ギンベル作詞、チャールズ・フォックス作曲によるもので、オリジナルはロリ・リーバーマンの歌唱によるものでした。1972年8月にリリースされたリーバーマンのオリジナルはヒットしませんでした。しかし、飛行機の機内BGMとして採用されていたこの曲を、ロバータ・フラックが偶然聴いて気に入って歌い、彼女のバージョンが大ヒットとなったのでした。
作詞をしたノーマン・ギンベルの作品で私が取り上げたことのある曲は「I Will Follow Him」です。この曲はペギー・マーチでまずヒットし、映画「天使のラブソング」で一部歌詞を変え、またヒットしました。後者では「Him」を「主(神)を」と解釈し、新たな光を与えました。だとすれば、この「Killing Me Softly with His Song」の「His」を「主(神)の」ととらえてもいいのではないかと考えました。その観点で和訳してみました。以下の通りです。
"killing me softly with his song"
Strumming my pain with his fingers. singing my life with his words.
Killing me softly with his song. Killing me softly with his song.
Telling my whole life with his words. Killing me softly, with his song.
ギターを弾く主の指が私の傷ついた心をかき鳴らす
主の歌で私を死なせて 優しく
私の人生を歌って そして静かに死なせて
.I heard he sang the good song. I heard he had a style.
And so I came to see him, and listen for a while.
And there he was a young boy a stranger to my eyes.
彼はいい歌を歌うという評判を聞いた 自分のスタイルを持っていると
だから彼に会うため 何度も足をはこんだ
するとそこには若き青年がいた 私の見知らぬ青年が
(CHORUS)
I felt all flushed with fever embarrassed by the crowd.
I felt he found my letters and read each one out loud.
I prayed that he would finish but he just kept right on.
私は全身が熱くなるのを感じた 人ごみの中にいるのが恥ずかしかったほど
まるで彼が私の手紙を見つけて そして大声で読み上げているようだった
私は "やめて" と祈った けれで彼はそのまま歌い続けた
He sang as if knew me in all my dark despair.
And then he looked right through me as if I wasn't there.
And he just kept on singing sining clear and strong
彼はあたかも知っていたかのように歌った 私の暗い絶望のすべてを
その後すぐ、彼は私をかすめ まるで私がそこに居ないかのように
そのまま歌い続けた はっきりと力強く
「Killing me softly with his song(主の歌で私を死なせて 優しく)」のフレーズは、私にはシメオンの賛歌の「主よ、今こそ、あなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。(ルカによる福音書2:29)」を彷彿とさせます。そして、私を優しく死なせることができるのは、「この目であなたの救いを見たから」(ルカ2:30)なのです。つまり、主イエス・キリストに出会うことで安らかな(優しい)死を迎えることができる、そのことをこの曲「やさしく歌って」は教えているように思うのです。この曲が大ヒットした要因には、この曲の歌詞が持つこのような意味合いがあったのではないかと私は考えます。
ロバータ・フラック「やさしく歌って(Killing Me Softly with His Song)」からこのようなことを思い巡らしました。
大斎節第1主日 『試みに打ち勝つ信仰』
本日は大斎節第1主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、申命記26:1-11 、詩編91:1-2・9-16、ローマの信徒への手紙10:8b-13及びルカによる福音書4:1-1。説教では、イエス様を信じることによって悪魔の試みに打ち勝つことができることを知り、大斎節をイースターを迎える大切な準備の時として過ごすことができるよう祈り求めました。
2018年に訪れた本日の福音書の箇所の写真も活用しました。
本日の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
2025年が始まり2ヶ月が過ぎましたが、世の中は不安定な日々が続いています。我が国では、能登半島地震やこのたびの岩手県や宮城県の山林火災で避難を余儀なくされ不自由な生活を送っている方々がおられます。視線を世界に向ければ、ウクライナでの戦闘は3年が経過し、パレスチナでの戦闘も一応停戦中ですが、いつまた始まるか分からない状況です。一日も早い復興や恒久的な平和を心から祈るものであります。
さて、本日は、大斎節第1主日です。大斎節はカトリック教会では四旬節、英語ではレントと言います。大斎節は、「灰の水曜日」(今年は先週の水曜、3月5日)から復活日前日(今年は4月19日)までの40日間(プラスその間の主日の数、実際は46日間)です。
先週の水曜には前橋聖マッテア教会で「灰の水曜日の礼拝」がおこなわれ、灰の十字架のしるしを参加者全員額に記させられました。十字架のしるしをするときの言葉があるのですが、それはこうです。
「あなたはちりであるから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい。罪を離れてキリストに忠誠を尽くしなさい」
ここのキーワードは「帰らなければならない」です。何に帰らなければならないかと言えば「ちりに帰らなければならない・神に帰らなければならない」ということです。「そのことを覚えていなさい」と神様は私たちに告げています。そしてそれは、大斎始日(灰の水曜日)一日だけでなく大斎節を通してのキーワードであり、さらに言えば、私たち信仰者の生涯のテーマである、とも言えます。
本日の福音書を、解説を加えて振り返ります。ルカによる福音書4章1節以下で、「荒れ野の試み」とか「荒れ野の誘惑」と言われる箇所です。
冒頭に「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川から帰られた。そして、霊によって荒れ野に導かれ、四十日間、悪魔から試みを受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」(1・2節)と記されています。
「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川から帰られた。」とありますがヨルダン川で何があったのでしょうか? それは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた(ルカ3:21)ということです。そして、イエス様は聖霊の導きにより荒れ野に行かれました。それは神様の意志によってです。聖書には、40日とか、40年とか、いう「期間」が記されていて、これらはいずれも「準備」と「試練」の期間として、特別の意味を持っています。イエス様が荒れ野で過ごした40日間は、モーセとエリヤが神の民を導く重要な働きのために過ごした準備期間と同じ日数です。なお、今回ここで「試み」と訳された言葉(ペイラスモス)は、新共同訳では「誘惑」と訳されていました。「試み」の出来事は、見方によって誘惑にも試練にもなると言えます。悪魔や人からされるのが誘惑であり、神からされるのが試練です。
イエス様が試みを受けられた「荒れ野」はこのような風景です。

私は2018年にここを訪れました。荒れ野は、ヨルダン川と死海に至る地域で、見渡す限り、岩と砂の土地がどこまでも続いています。木も草もほとんど生えていない、昼は暑く夜は寒い、雨期と乾期しかない、水がない、何の音もしない厳しい自然の風景です。そのような厳しい自然の中、荒れ野で、イエス様は、40日間、断食をし、ひたすら祈っておられたのです。
聖霊と悪魔の対峙は私たちの日常にも見られることですが、そのような荒れ野にイエス様がまず立ち、私たちに道を示します。
その40日の期間が終わろうとする時、悪魔が現れ、イエス様に語りかけました。悪魔は「神の子なら、この石に、パンになるように命じたらどうだ」(3節)と、「神の子」なら、神から力を授かっているはずだから、その力を自分のために使って腹を満たすこともできるではないか、と悪魔は考えます。それが悪魔の考える「神の子」です。これに対して、イエス様は、申命記8章3節の「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった。」という聖書の言葉を用いて、悪魔の試みを退けられました。イエス様は「神の子」としての力を自分のために利用しようとはしません。人を真に生かす命はパンからではなく、生ける神から来るとイエス様は考えています。
しばらくして、再び、悪魔が現れ、イエス様を高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せました。そして、悪魔は言いました。6・7節です。「この国々の一切の権力と栄華とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もし私を拝むなら、全部あなたのものになる。」と。「神の子」としてふさわしい権力、栄華(原文のギリシャ語はドクサ「栄光」)を与えてやろうと試みたのです。悪魔は、「私を拝め」と迫りました。「もし私を拝むなら」と。それは、相手の前に屈服する姿勢であり、相手を絶対化し、自分自身を失わせる行為です。
これに対して、イエス様は、「『あなたの神である主を拝み ただ主に仕えよ』と書いてある。」(8節)と、お答えになりました。それは「神の子がひれ伏す相手は神であり、仕える相手も神だけである。」ということです。イエス様は、またしても、聖書の言葉(申命記6章13・14節)で悪魔を退けたのでした。
そして、最後に、悪魔はイエス様をエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言いました。
「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。なぜなら、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じてあなた守らせる。』また、『彼らはあなたを両手で支え あなたの足が石に打ち当たることのないようにする』」(9-11節)と書いてあるではないかと。今度は、悪魔の方が、聖書の言葉(詩篇91編11・12節)を用いて、試してきました。
これに対して、イエス様は、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」(12節)とお答えになりました。これは、申命記6章16節からの引用です。「神様を試す」ということは、自分の考えに神様が合っているかどうかを調べることであり、神様を信じ神の言葉に従うということとは正反対です。
このように、イエス様は、次々と現れる、悪魔の試みを退け、これに打ち勝たれました。そして、悪魔は、時が来るまで、イエス様から離れました。
このような話でした。
この話で、神様が私たちに教えていることはどんなことでしょうか?
悪魔は神とイエス様との関係を断ち切ろうとしてイエス様を試みますが、イエス様は悪魔の誘惑をすべて聖書の言葉で退けます。神の言葉を口にすることによって、イエス様は神様への信頼を明らかにしています。
悪魔の考える「神の子」は、神から授かっている力を自分のために使って、石をパンに変えて自分の空腹を満たす者です。しかし、イエス様にとって「神の子」とは、神からの力を自分のために用いる者ではなく、神の言葉に忠実に生きる者です。
荒れ野で試みを受けたイエス様は私たちに生きる力を与え、私たちが弱いことを知って憐れみ、私たちの罪を担って良い方向に導いてくださる方です。先ほど福音書前に歌った聖歌448番の2節にある通りです。2節はこうです。
「命の息吹を 与えし御子よ 我らの弱きを 知りて憐れみ 荒れ野に苦しみ 試み受けて 世の罪担いて 進みたまえり」
イエス様は石をパンに変えることも、屋根から飛び降りることもできます。しかし、それは、神様の指示があるときだけです。神の言葉を聞き、神の思いに従って生きる者が「神の子」、メシアなのです。
神と悪魔、どちらの声に聞き従うかということが私たちに問われています。
イエス様は、聖書の言葉を引用して悪魔を退けました。イエス様は聖書(神の言葉)に聞き従うことによって悪魔の試みに打ち勝ったのです。そうであれば、私たちもイエス様を信じ、神の言葉に聞き従うことによって、試み(誘惑・試練)に打ち勝てるのではないでしょうか?
自分の力だけではすぐ負けてしまいます。しかし、私たちはイエス様を信じることによって、悪の力に、罪のしがらみに打ち勝つことができるのです。本日の使徒書のロマ書10章13節で「主の名を呼び求める者は皆、救われる」とパウロが教えているとおりです。このようなことを神様はこの「荒れ野の試み」の話を通じて教えているのではないでしょうか?
皆さん、私たちは悪魔を退けてイエス様を信じていけるように、始まった大斎節を心して過ごしたいと思います。私たちはちりにすぎないことを自覚し、神に帰ることを覚えたいと思います。悪の力とか、しがらみとか執着心に、度々私たちは巻き込まれてしまいますが、それを神の言葉に従いイエス様を信じることで断ち切り、被災地の復興や世界の平和を求めながら、この大斎節をイースターを迎える大切な準備の時として過ごすことができるよう、共に祈りを捧げて参りたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン