マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

昇天日 聖餐式 『イエス様の昇天と私たち』

 本日は復活日後40日目で、昇天日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。昇天日は7大祝日の一つです。聖書箇所は、使徒言行録1:1-11とマルコによる福音書16:9-15、19-20。説教では、イエス様の昇天の意味を知り、その恵みに感謝し、私たちが今も後も絶えずイエス様と共にいることができるよう祈り求めました。管区から送られてきた小冊子「み国が来ますように(Thy Kingdom come)」の「祈りのしおり」の活用についても話しました。

      『イエス様の昇天と私たち』

 <説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は昇天日です。復活日から40日目の日に当たります。昇天日は7つある主要祝日の一つです。昇天日以外の主要祝日は、復活日・聖霊降臨日・三位一体主日・降誕日(12/25)・顕現日(1/6)・諸聖徒日(11/1)であります。 
 先ほど読んでいただいた使徒言行録(1:3-11)によりますと、復活したイエス様は40日にわたって弟子たちに姿を現した後、天に上げられました。そこから、昇天日は復活日後40日目の復活節第6木曜日に祝われることになりました。多くのキリスト教国、フランスやドイツなどでは昇天日は法定休日となっています。

 今日の福音書箇所は、ルカによる福音書またはマルコによる福音書で選べるのですが、昨年ルカでお話ししましたので、今回はマルコによる福音書の方を取り上げたいと思います。この箇所は、どちらの福音書でも結びにあたります。
 イエス様の昇天については、マルコによる福音書16:19に「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右に座られた。」とあることに注目したいと思います。弟子たちからすれば、使徒言行録9・10節にありますように、イエス様が天に昇られて、雲の中に入っていくのを眺めていたという、何となく間が抜けたような感じになっています。しかし、イエス様からすれば、イエス様の本当の故郷はまさしく神様の右の座であり神様と共にあるということですから、イエス様はあるべき所に戻られたということです。人間であるイエス様の故郷はナザレですが、本当の故郷は神様のもとだということです。私たちもそれぞれにこの世の故郷はありますが、本当の故郷は神様のもとだということを思い起こしたいと思います。

 このマルコによる福音書16:19でイエス様は天に上げられますが、さらに20節では「主も弟子たちと共に働き、彼らの語る言葉にしるしを伴わせることによって、その言葉を確かなものとされた。」と語られ、主イエス様が遠くへ去っていったのではないこともはっきりと示されます。「天」とは時間・空間を超えた神様の領域です。ですからイエス様は目に見える姿、手で触れることのできる形ではいなくなりますが、目に見えない形で、弟子たちと共にいてくださるのです。これこそが復活の神秘であり、私たちへの福音(良い知らせ)であります。

 イエス様の昇天については2つの意味があると考えられます。
 一つは、19節の聖句のように、イエス様が天に昇り、神様の右の座に着いたということから人の子であるイエス様が神の栄光の状態に上げられ、御父のもとで最高の権威に参与されたことです。父なる神様と一つであることが示されたのです。また、イエス様が天に昇られたので、どんな国の人も神様のもとに私たちは共に歩むことができるようになりました。「天」からなら世界中の人にイエス様のメッセージを届けることができるのです。それは、神様の普遍的な愛、それを全ての人が受けられるようになった、ということです。

 もう一つは、イエス様の昇天が私たちの昇天の原型であり、保証でもあるということです。本日の特祷に「わたしたちは独りのみ子イエス・キリストが天に昇られたことを信じます。どうかわたしたちも心と思いを天に昇らせ、絶えず主とともにおらせてください。」とありますように、私たちは、私たちに先駆けて天の栄光に入られたイエス様に倣って、いつかイエス様と共にいることができるという希望のうちにこの出来事を祝うのであります。
 このことを示している聖歌があります。先ほどの入堂の折りに歌いました聖歌 第498番「主われを愛す」の3番です。こうあります。
『みくにの門(かど)を ひらきてわれを 招きたまえリ いさみて昇(のぼ)らん
  わが主イエス わが主イエス わが主イエス われを愛す 』
 天に昇られたイエス様は、天の御国の門を開いて私たちを招いてくださいます。私たちも喜び勇んで昇っていきましょう、という意味です。私たちが天の御国に招かれるのはイエス様の昇天のお陰なのです。このことについては、後ほど聖別祷の特別叙唱として祈る中で簡潔に示されています。祈祷書の194ページですがこうあります。
「み子は尊いよみがえりの後、明らかに使徒たちに現れ、わたしたちのために住まいを備えるため、その目の前で天に昇られました。これは、わたしたちを主のおられる所に昇らせ、ともに天の栄光の座に着かせてくださるためです」
 イエス様の昇天は私たちを天の御国に迎えるための準備のためであり、イエス様は私たちを天に昇らせ、共に天の栄光の座に着かせてくださるのであります。このことを記念するのが本日の昇天日なのです。

 さらに、「復活→昇天→聖霊降臨」を時間的な流れの中で起きた出来事としてとらえたいと思います。「復活」は、イエス様が死に打ち勝ち今も生きているという面を表します。「昇天」は、イエス様が神様のもとに行き、そこで神様と共に永遠の命を生きる方となったという面を表します。そして「聖霊降臨」は、イエス様が目に見えないけれども私たちのうちに今も働いていてくださることを表していると言えます。特に、「昇天」から「聖霊降臨」については、今日からの10日間を、神様とイエス様の恵みを覚え、管区から送られてきた小冊子「み国が来ますように(Thy Kingdom come)」という「祈りのしおり」を毎日使用することで、この意味も実感することができると考えます。

 今年は主教会が作成し、北関東教区と東京教区の教役者11名による音声配信も用意されています。ぜひ今日からの毎日、この小冊子を活用してほしいと思います。

 イエス様の復活の後、教会は昇天を祝い、さらに聖霊降臨、三位一体と祝っていきます。イエス様が父のみもとに帰ることによって聖霊を遣わされる、実にイエス様の昇天は天と地を結びあわせるものでもあります。そして、イエス様は、
天の御国の門を開いて私たちを招いて下さるのです。私たちの生きる命は、空しく消えていくものではなくて、復活と、復活の先にある、神様のもとに私たちも向かっているのです。これは大きな福音であり、このことから、昇天日という、この祝日は、私たち一人一人の祝日でもあるのです。 

 皆さん、イエス様の昇天の出来事は、神様の普遍的な愛と私たちが天においてイエス様と共にいることができるという福音を伝えています。天に昇る直前も、天に上げられながらも、弟子たちを祝福されたイエス様は、私たちをも祝福されておられます。私たちはその恵みに感謝し、今も後も絶えずイエス様と共にいることができるよう祈り求めて参りたいと思います。

 

復活節第6主日 聖餐式 『主イエス様の与える平和』

 本日は復活節第6主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、使徒言行録14:8-18とヨハネによる福音書14:23-29。聖霊の働きや「キリストの平和」等について知り、主イエス様が与える平和が一人一人のうちに、人と人との間に、教会の中、世界の中に実現していくよう祈り求めました。神学塾で御指導いただいた速水敏彦先生による「弁護者」の解説や塩田泉神父が作詞作曲した聖歌「キリストの平和」にも言及しました。

   主イエス様の与える平和

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は復活節第6主日です。今年は復活日が4月17日でした。それから36日が過ぎ、今度の木曜が40日目で昇天日です。
 本日の福音書箇所は、先週に引き続き、イエス様が十字架にかかる直前に弟子たちに言い残した「告別説教」からです。ここでは、「父がイエスの名によって聖霊を遣わすこと」「世が与えられないイエスの平和を与えること」「父のもとに行くこと」等が語られています。
 今日の福音書箇所のキーセンテンスは次の3つだと思いました。23節と26節と27節です。一つずつ考えたいと思います。

  まず23節『イエスは答えて言われた。「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。』です。この「私を愛する人」とは、その前の21節に「私の戒めを受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である」とありますので、イエス様の戒めを受け入れ守る人のことです。また、その戒めは先主日ヨハネによる福音書13:34の「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」であると言えます。この23節の言葉の後半「父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。」が表しているのは、「神の国」であると考えられます。「神の国」というのはどこかに「ある場所」なのではなく、互いに愛し合う人の中に神とイエス様とが出かけて行き、そこに住んでくださって実現するのだと言っているのです。さらに、イエス様は、「私を愛する人は私の命令を守り、愛を実践する。私と父なる神はその人と共にいるのだからそうできる」とおっしゃっているように思います。

 次に26節「しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」です。          
 ここの弁護者は、新共同訳でも「弁護者」となっていましたが、口語訳では「助け主」と訳されていました。英語の聖書では「Counselor」(NIV)や「Helper」(TEV)と訳されています。
 かつて教区の聖職養成神学塾で新約聖書を指導された速水敏彦先生の講義内容をまとめた「ヨハネ福音書略解」では、「弁護者」について、こう解説されています。

 『弁護者(ギリシャ語では「パラクレートス」)という語は、ヨハネ福音書以外では、Ⅰヨハネ2:1(そこでは、イエス・キリストを指す)だけに出てくる。ここでは、聖霊が「別のパラクレートス」と言われているゆえに、福音書でもイエスがパラクレートスとして考えられていたと言える。つまり、イエス聖霊は切り離して考えられないのである。パラクレートスとは、「傍らに呼ばれた者」の意味で、援助する者、特に裁判などで調停人、弁護人を指す語として使われていた。そこから広い意味での「助け主」(困難な時に慰め、励ます者、難解な教えを解釈する者など)、また、法廷や最後の審判での「弁護者」を指すようになった。』と。      
  聖霊は、一人では対応できず、様々な問題を解決できない人を助ける弁護士のような役割りをしてくださるのです。ですから、聖霊は、弱い弟子たちが、この世の現実に押し潰され、進むべき道さえも見失った時に、立ち上がらせて、彼らの進む道に新しい光を当てられたのです。 
 聖霊は今の私たちにも働いておられます。実際の場面で、聖霊は私たちにイエス様や御言葉を思い起こさせて、その場面での導きを与えてくださるのです。この聖霊を与えているのだから「心を騒がせるな。おびえるな。」とイエス様は私たちを励ましています。これは大きな福音(よい知らせ)であります。

  最後に27節「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。」です。
 「平和」は私たちが毎回、礼拝の中で聞いている言葉ですが、イエス様は、ただ「平和」というのではなく、「私の平和」と言っています。その「平和」を、「世が与えるように与えるのではない」と言います。イエス様が言う「平和」とは何でしょうか? 普通の意味での平和ではないようです。この話をなさったときのイエス様の状況を考えると、普通の意味ではとても「平和」とは言えない場面です。最後の晩餐の時です。当時のユダヤ社会の指導者からイエス様は憎まれ、排斥され、命を狙われ、弟子の中からも裏切る者が出てくる。そして、晩餐の席を立ったあと、直ぐに逮捕され、裁判にかけられ、有罪とされ、苦しみを受け、処刑されていく、ということが待ち受けている場面です。それにもかかわらずイエス様は「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。」と約束されます。 
 このイエス様の「平和」とは何でしょうか? 
 ここで「平和」と訳されている原文のギリシャ語は「エイレーネー」で、「平和」のほか「平安」とも訳すことができる言葉です。「エイレーネー」は、ヘブライ語の「シャローム」のギリシャ語訳です。ユダヤ人が今日に至るまで挨拶の言葉として用いている「シャローム」は、単なる平和とか平安という意味だけでなく、神が私たちに与えようとしている祝福の総称です。ここでの「平和」も、キリストによって人間にもたらされる祝福や救いのことであると考えられます。この言葉の元々の意味は、「欠けたもののない状態」です。イエス様の心は欠けたもののない状態、神の愛に満たされていて、「心の平安」とでもいう「心が神様に満たされている」という状況が「私の平和」、つまり「イエス様の平和」「キリストの平和」と言えるのではないかと思います。
  「キリストの平和」は、私たちはが毎主日の礼拝の奉献の時に歌っている聖歌でもあります。聖歌第562番です。

 「♪~キリストの平和~が、わたしたちのこころの、すみずみにまで~、ゆきわたりますように~♪」(歌う) 
 その「すみずみまでゆきわたるキリストの平和」とは何でしょうか?
「キリストの平和」、キリストが私たちにくださる「平和」とは、キリストと共にいることから得られる平和であり、「神様が一緒にいてくださる」ことを実感する、そういう平和なのだと思います。クリスマスの頃に用いられる「インマヌエル」という言葉があります。「神は私たちと共におられる」という意味の言葉です。「神が共におられること」を実感し、その思いがすべての人の心にすみずみまでゆきわたることを私たちは願うものであります。
 「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。」
 イエス様は私たちにこう言っているのではないでしょうか? 「私はあなたと共にいる、いつまでもあなたと共にいる。苦しんだり、困難にぶつかったり、あるいは葛藤があるときも私はあなたと共にいる。あなたに力を与えよう。あなたに愛を注ごう。だから思い煩うな。私はあなたと共にいるのだから。」と。
 
 私たちはイエス様の道こそ、本当の平和への道であるということを信じています。それはもちろん、外面的な平和、安全とはほど遠い十字架の道でしたが、イエス様が神様によって満たされ、イエス様の心が何ものにも揺るがない平安に満たされていて、最後まで神様に信頼し人を愛して生きた、その道こそが本当の意味での平和への道である、と信じています。 

 皆さん、父なる神様は私たちに「弁護者(Counselor)」であり「助け主(Helper)」である聖霊を送り、イエス様や御言葉を思い起こすよう導いてくださっています。そして、イエス様は私たちに、「どのようなときも神が共におられる」という「キリストの平和」を与えておられます。父と子と聖霊が一つになって、この世に残された弟子たちに、そして今の時代を生きている私たちに、福音(よい知らせ)を伝えておられるのです。
  神様はいつも私たちと共にいてくださいます。この礼拝の中で、平和の挨拶を交わしながら、私たち一人一人のうちに、主イエス様が与える平和が実現していきますように、人と人との間に、教会の中にこの平和が実現していきますように。さらに、この社会の中に、世界の中に「キリストの平和」が実現していきますように、心を合わせて祈り求めたいと思います。

リトル・リチャードとザ・ビートルズ

 前々回のブログで「リトル・リチャードとキリスト教」について記し、リトル・リチャードが多くのミュージシャンに多大な影響を与えたことにも触れましたが、今回は特にビートルズとの関係等について述べたいと思います。

 1950年代後半に一度ロック歌手としては引退したリトル・リチャードでしたが、1962年に復活し、彼の英国やドイツでのライブの前座を務めたのが、デビューして間もないザ・ビートルズでした。そのツアーの間、リチャードは、楽屋でポールに「Tutti-Frutti」などの曲の中から「Woooo!」というファルセットの出し方を教え、ポールを指導しました。リチャードは、彼が習得できるまで、ピアノの前に座ってファルセットを歌っていたそうです。
 そこで、ビートルズがリトル・リチャードの曲をカバーする際はポールが歌うのが定番となり、「Long Tall Sally」「Hey-Hey-Hey-Hey!」「Lucille」「Ooh! My Soul」の4曲が正式リリースされています。ちなみにジョンはチャック・ベリーがお気に入りで、彼の曲を歌う担当と言えます(ジョージも彼の曲「ロール・オーバー・ベートーヴェン」を歌っていますが)。
 そして、ビートルズのデビューアルバムの1曲目「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」(1963年)も、ビートルズ日本公演最後の曲「アイム・ダウン」(1965年)もリトル・リチャードの影響の下ポールが書いた曲でした。

 前々回のブログで、「Long Tall Sally」の歌詞は単純なラブソングと書きましたが、「Lucille」はそうとも言えないように思います。私はこの曲をビートルズのこのCD(BBCのライブVol.2)で聞いています。

 ビートルズ版の「Lucille」は下のアドレスで聞くことができます。
   https://www.youtube.com/watch?v=aLN0csLUEqo

 「Lucille(ビートルズ版)」の歌詞と対訳はこうです。

Lucille, Baby do your kisses real.
Lucille, Baby do your kisses real.
Well you ran off and married, but I love you still.
 
Lucille, baby, satisfy my soul.
Lucille, baby, satisfy my soul.
Well you know I love you, baby. I'll never let you go.

Well I woke up this morning, Lucille was not in sight.
I had my baby body. But only for one night.

Lucille, please come back where you belong.
Well I'm talking to you baby. I'll never do you wrong.
 
Lucille, Baby do your kisses real.
Lucille, Baby do your kisses real.
Well you ran off and married, but I love you still.

ルシール、本気でキスして
ルシール、本気でキスして
君はいなくなって結婚してしまったけど、僕はまだ君を愛している

ルシール、僕の魂に安らぎを
ルシール、僕の魂に安らぎを
僕が愛していることを知っているくせに。僕は君を離しはしない

朝、目が覚めたらルシールはいなかった
僕のベイビーの体は一晩しかここにいなかった

ルシール、帰ってきておくれ、気の居るべき場所に
君に言っているんだ、決して君を辛い目にはあわせたりしないから

ルシール、本気でキスして
ルシール、本気でキスして
君はいなくなって結婚してしまったけど、僕はまだ君を愛している

 単純なラブソングとも取れますが、主人公は魂の安らぎを求めています。ルシールに本来居るべき場所に帰ることを求めています。このことは、人間誰でも言えることではないでしょうか? 私たちは誰も魂の安らぎを求め、本来居るべき所に帰ることが求められているのではないでしょうか?
 さらに、「Well I woke up this morning, Lucille was not in sight.」の1節は私にはルカ福音書の「エマオの弟子」を思い出させます。イエス様と一緒に歩き話してもイエス様と分からなかった弟子は、イエス様がパンを裂くときイエス様と分かります。その時視界から消えます。しかし、見えなくてもイエス様は存在します。「was not in sight」はリトル・リチャードが聖書に親しんでいて溢れ出た歌詞と思いました。
 本当の魂の安らぎは神に立ち帰ることでしか得られないこと、そして、目には見えなくても私を愛してくださった方は存在していることを、この曲は暗に示唆しているように思いました。

 牧師になったリトル・リチャードの精神をビートルズは引き継いだ面もあると考えます。ポールが惹かれたのも派手なアクションや歌い方だけでないように思います。私がリトル・リチャードの曲やそのカバーをしたビートルズの曲に惹かれるのも、その奥にあるキリスト教精神ゆえと言えるかもしれません。

復活節第5主日 聖餐式 『主イエス様の与える新しい戒め』

 本日は復活節第5主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。本日の礼拝で私が感動したことがありました。当教会では特祷の後にカンタベリー大主教とヨーク大主教が作成した「ウクライナの祈り」捧げているのですが、本日は自然と会衆も一緒にこの祈りを声を出して唱えたのでした。信徒の皆さんのウクライナの人々への思いが言葉として表れたのだと思い心が震えました。
 本日の聖書箇所は、レビ記7:9-17とヨハネによる福音書13:31-35。主イエス様の与える新しい戒めの意味を知り、「互いに愛し合いなさい。」のみ声に聞き従うために、私たちにイエス様の愛を注ぎ導いてくださるように祈り求めました。この箇所の舞台である「最後の晩餐の部屋」(アパ・ルーム)」の写真も紹介しました。

   主イエス様の与える新しい戒め

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は復活節第5主日です。復活節の福音書ヨハネ福音書が継続して朗読されます。復活節第5主日には毎年、十字架直前にイエス様が弟子たちに言い残した「告別説教」の中から選ばれています。今年、C年はイエス様がこの世を去るにあたり「互いに愛し合う」という「新しい戒め」を与えることを述べています。
 
  本日の福音書の箇所、ヨハネによる福音書13章31-35節を振り返ります。
 本日の個所の前にはイエス様が弟子たちの足を洗うということが記されております。その後、弟子たちといわゆる「最後の晩餐」が行われ、その最中にユダの中にサタンが入り、皆で食事をしていた場から彼が出て行くところから、本日の福音書が始まっています。最後の晩餐ですから、イエス様が亡くなられる前の晩のことです。私は4年前のイスラエル旅行でも、エルサレムの南部のシオンの丘にある「最後の晩餐の部屋」を訪れました。

  それはダビデ王の墓がある建物の2階にあり、それ程広くはなく、何もないがらんとした空間でした。この建物自体は14世紀に再建されたものです。2階座敷(アパ・ルーム)と呼ばれたこの部屋は、復活したイエス様が弟子たちに姿を現された場所でもあります。ユダはイエス様のことを密告するためにその場から出ていきました。イエス様の受難がここから始まっています。 
 十字架の死がすぐそこまで迫っている時に、イエス様は弟子たちに、思いのすべてを伝えるように多くのことを話されました。それは「告別説教」と呼ばれ、ヨハネ福音書13章31節から16章33節にまとめられています。
 
 本日の箇所には、2つのテーマが語られています。第一は「栄光を受ける」ということ、第二は「新しい戒め」についてです。

 まず、第一のテーマについてです。
 イエス様は言われました。31・32節からです。「今や、人の子は栄光を受け、神は人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる」と。
 「人の子」とはイエス様ご自身のことです。イエス様は、救い主としてご自分のことを語られる時、ご自分を「人の子」という称号で呼んでおられます。
 「人の子が栄光を受けた」と言われる、「栄光」とはどういう意味でしょうか?
 ヨハネ福音書では、イエス様が十字架にかかられること自身が栄光であると、イエス様がおっしゃっています(12:27-33)。十字架に上げられていくことが栄光であると語っています。通常、栄光というのは、成功したり、うまくいったり、この世界でのぼっていくことだと考えられます。しかし、イエス様にとって栄光というのは十字架の死に向かって上げられていく、それこそが栄光であるというのです。私は、イエス様が自らの十字架をもって「栄光を受ける」と語られたことを、心に刻んでおきたいと思います。

 続いて、第二のテーマについてです。34節をご覧ください。
「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
 イエス様は弟子たちに「互いに愛し合いなさい。」という新しい戒めを与えられました。イエス様の言う「新しい戒め」とは何でしょうか?
 「新しい戒め」があるということは「古い戒め」もあるということです。では「古い戒め」とは何でしょうか? すぐに思い浮かぶのは「モーセ十戒」です。また、先ほど旧約聖書日課で読んでいただいたレビ記19章の内容もどれも立派な内容ですが「古い戒め」と言えるかもしれません。最後の18節には「隣人を自分のように愛しなさい。」とあります。既に旧約の律法においてこのように記されているのですから、「互いに愛し合いなさい。」という戒めは少しも新しくないのではないか、と思う方もおられると思います。
 しかし、そうでしょうか? イエス様のこの戒めのどこが新しいのでしょうか?
 実は、この主イエス様の戒めの新しさは、「私があなたがたを愛したように」というところにあるのです。「互いに愛し合いなさい」という言葉を、分かっていることとして、もう知っていると受け取る人は、自分の力で愛せると思っているし、この言葉を「互いに仲良くしなさい」という程度のこととして受け取っているのかもしれません。しかし、イエス様がここで言われていることは、そういうことではないようです。
 イエス様が「新しい」とおっしゃっているのは、その戒めの守り方の新しさなのです。「私があなたがたを愛したように」と、「ように」と日本語に訳されている言葉ですが、ギリシャ語で「カソース」という単語が使われています。「カソース」という言葉は、根拠とか、理由とか、原因とか、を表す言葉です。ですから、ここはかなりはっきりした表現です。そこで、そのことを意識してイエス様の言葉を言うなら、こうです。
「私があなたがたを愛した“その愛で”あなたがたも互いに愛し合いなさい」
「私があなたがたを愛した“その愛を使って”あなたがたも互いに愛し合いなさい」・・・ここに新しさがあるのです。

 さらに、ここで主イエス様が語られた愛は、どのような愛かというと「十字架の愛」です。それは神様がイエス様に与えた「栄光」です。「栄光」と「十字架の愛」とは表裏一体です。その意味では本日の第一のテーマと第二のテーマは一体と言えます。「十字架の愛」とは、神様がご自身に反して罪の中を歩む私たちのために、愛する独り子を贖いとして、身代わりとされた愛です。自分にとって大切な人、好きな人、気が合う人、その人のために力を尽くす。そういう愛ではありません。親が子を愛する、恋人を大切にする、友人と仲良くする。そういうことでもありません。「主イエス様が十字架で示されたその愛で、互いに愛し合いなさい」と言うのです。ですからそれは、たとえ自分と気が合わない人でも、嫌な人でも、その人のために労苦をいとわず、愛の業に励むことでもあります。主イエス様はそれを「互いに為せ」と言われ、「これが戒めだ」と言われたのです。これは実に「新しい戒め」であります。

 ちなみにこの「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」を学校建学の理念としている学校があります。ご存知でしょうか? それは共愛学園です。共愛学園は、この聖書の教え「互いに愛し合う、共愛」を理念としています。共愛学園は1,888年(明治21年)に創立されました。我がマッテア教会の宣教開始の1年前です。共愛学園はこの崇高な聖書の教えを校名、及び建学の理念としてこれまで歩んでこられたのです。

 福音書に戻ります。最後の35節に「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。」とあります。
 このような愛に生きる人たちこそ本当のイエス様の弟子であり、多くの人たちは、互いに愛し合っている私たちの様子を知ることによって私たちがイエス様の弟子であることを認めると、イエス様は言われるのです。

 主イエス様が告別説教の冒頭で遺言のようにおっしゃられた「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という愛を、実行することは自分の力でできることではありません。イエス様が十字架で示されたような愛は、私たちの内側から自然と湧き上がることはありません。ではどうすればいいのでしょう? 
 イエス様の告別説教が語られた2階座敷(アパ・ルーム)は何もないがらんとした空間でした。それはまるで私たちのようです。私たちにはイエス様が十字架で示されたような愛を行う何ものも持っていないのです。この愛は、主イエス・キリストから注いでいただかなければ実行できないものです。そのためには、主イエス様に愛と導きを祈り求めなければなりません。「イエス様、あなたの求める『互いに愛し合いなさい』という「新しい戒め」を実行できるようにあなたの愛を私たちに注ぎ導いてください」と祈ることが肝心なのだと思います。

 皆さん、私たちは、人生のある時に、主イエス様に出会い、その呼びかけに応え、信仰の道に入り弟子となりました。イエス様は私たちの罪の贖いのため、十字架にかかってまで私たちを愛し抜いてくださいました。その愛を心に留め、イエス様が遺言のようにおしゃられた「互いに愛し合いなさい。」のみ声に聞き従うために、イエス様の愛を私たちに注ぎ導いてくださるように祈り求めましょう。
 そして、私たちのこの教会が、イエス様が教えられる新しい戒め、本当の愛で満ちた教会となるように祈り求めて参りたいと思います。

 

リトル・リチャードとキリスト教

 5月9日は、「トゥッティフルッティ」や「ジェニジェニ」「ルシール」などのヒット曲で知られるロックンロールの先駆者、リトル・リチャードの命日でした。彼は2020年5月9日に骨肉腫のため87 歳で亡くなりました。
 リトル・リチャードはビートルズローリング・ストーンズデヴィッド・ボウイエルトン・ジョン等、多くのミュージシャンに多大な影響を与えました。リチャードは牧師でもありました。今回は彼の生涯とキリスト教の関係を中心に記したいと思います。

 彼を偲んでこのCDを聴いています。UK制作の2枚組ベスト盤です。

 このCDの1枚目のオープニングナンバーが「ロング・トール・サリー(のっぽのサリー)です。次のアドレスで彼の演奏を聴く(見る)ことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=Dtc3Sdwfcx0
 「ロング・トール・サリー(のっぽのサリー)」はビートルズもカバーしていました。リトル・リチャードは軽快なリズムでシャウトし、ポール・マッカートニーに大きな影響を与えましたが、歌詞は単純なラブソングと言えます。

 Little Richard(本名Richard Wayne Penniman)は、1932年にジョージア州メイコンで誕生し、キリスト教の環境で育ちました。彼の叔父と祖父は説教者であり、彼の母親は彼の先天性欠損症が修正されることを期待して、リチャードをニューホープバプテスト教会に毎週日曜日に送ったそうです(彼の右足は生まれつき左足より3インチ短いのでした)。
 リチャードは幼少期から教会で歌い始め、特にゴスペル・シンガーのジョー・メイやロゼッタ・サープに熱中しました。彼は14歳の時にロゼッタ・サープのツアーで前座を務めたことを機に、プロとしてのキャリアをスタートさせています。
 また、同性愛者だったリチャードは、10代の頃から女装と男性経験を繰り返し、15歳の時に厳粛な父親から家を追い出され、アトランタに移住しました。地元のバンドで “リトル・リチャード” として活動する傍ら、ブルースやブギ、ゴスペルの要素とリズミックなビートを融合させた独自の音楽のレコーディングを開始し、1955年にシングル“Tutti Frutti”が初ヒットしました。その後数多くのヒットを続け、エネルギッシュな歌唱、激しいアクションでピアノを弾く姿も話題となりました。彼は人種差別とゲイに対する差別が激しい時代に、自ら同性愛者であることを公表し、派手な化粧をして歌っていました。
 そして、リチャードは1957年の人気絶頂期に突如、引退を発表しました。その顛末は以下の通りです。
 リチャードは、全米での人気が頂点に達した頃、初の海外ツアーを行いました。その時、オーストラリアへと向かう彼らを乗せた飛行機が火を噴く事故を起こすという出来事が起きます。このときに「これはロックンロールに心を奪われた自分への神への怒りではないか、もし助かるならば聖職につきます」と必至で祈ったところ無事助かったといわれ、1957年に、この祈り通りに引退を表明しました。そして、聖職者への道へと進むべく神学校(アラバマ州のオークウッド大学)に入学して神学を修め牧師となりました。
 この後しばらくは世界中で伝道活動を行い、ロックンロールを歌うことをやめ、ゴスペルを歌うようになりました。。

 この時期の彼の歌ったゴスペルソングで私が注目したのは1964年にリリースされた“Coming Home (録音は1959年)”の中の1曲、“Precious Lord”です。この曲はキング牧師の愛唱歌で、1968年の彼の葬式でマヘリア・ジャクソンが同曲を歌ったことで知られています。プレスリーニーナ・シモンも歌っています。
 以下のアドレスで、Little Richard / Precious Lord を聞くことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=IOayih44sdU
 Little Richardの“Precious Lord”は、ロックンロールを歌う時とは違う、ソウルを感じるゴスペルソングとなっています。

 “Precious Lord”の歌詞と和訳を示します。

Precious Lord, take my hand Lead me on, let me stand
I'm tired, I'm weak, I'm lone Through the storm, through the night
Lead me on to the light Take my hand precious Lord, lead me home.
 
When my way grows drear Precious Lord linger near
When my light is almost gone Hear my cry, hear my call
Hold my hand lest I fall Take my hand precious Lord, lead me home.

大切な主よ、手を取って 導いて、立たせてください。
私は疲れました。私は弱く、すり切れました。嵐の中、夜の中、
光に導いてください 私の手を取って、大切な主よ、家に導いてください。

道がわびしくなるとき 大切な主よ、近くにいてください
命が消えるとき 泣き叫ぶ声を、呼びかけを聞いてください
手をつかんでください。私が落ちないように。私の手を取って、大切な主よ、家に導いてください。

 “Precious Lord”は、嵐の中、疲れ、すり切れた時、光に手を取って導いてくださるよう主に寄り頼むゴスペルソングと言えます。

 リトル・リチャードは何枚かのゴスペルのレコードの製作後、ビートルズとの出会い等もあり1962年に商業音楽業界へ復帰し、活動を開始し、2013年に引退するまでそれは続きました。その間、彼は2009年の人工股関節置換術によりステージでのピアノ演奏が制限され、2012年に心臓発作を起こし、その後に骨肉腫と判明し、車椅子生活を余儀なくされ、2年前に天に召されました。音楽活動や病気の人生において、彼は信仰を持ち続けました。あるインタビューで 「イエスは私のために必要なものを与えた」「彼(イエス)は私を助けてくれた」と言っていました。

   リトル・リチャードの最晩年、最後のメッセージ(Final Message)を以下のアドレスで聞く(見る)ことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=LTXfx4h4iPs
 ここでは1時間にわたり、堅い信仰に裏打ちされたリチャードの力強いメッセージを聞くことができます。 “We need Jesus.” “Jesus loves you.” “Jesus is the light of the world.”と自信を持って語り、「永遠の命(Eternal life)」についても言及しています。

  リトル・リチャードは多くのヒット曲を生んだロックンロールの先駆者ですが、20世紀前半に黒人として身体障害を持って生まれ、ゲイやバイセクシュアルであることを公表し、多くの差別も経験しました。幼い時から教会に通いキリスト教の環境で育ち、歌も教会で始めました。そして、人気絶頂の時に音楽業界を一時引退し、神学校に通い牧師になりました。
 リチャードは嵐のような人生の中、疲れ、すり切れた時、イエス様が手を取って導いてくださる経験をしました。稀に見るエンターテーナーで多くのミュージシャンに影響を与えましたが、その基にはキリスト教や教会音楽(ゴスペル)があり、生涯、信仰を持ち続け、主の御手に守られ必要なものが与えられ、救われました。そして、今はこの世の旅路を終え、主のもとで憩うています。リトル・リチャードのこのような信仰生活に倣いたいと願います。

 

復活節第4主日 聖餐式 『永遠の命を与える主イエス様』

 本日は復活節第4主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、ヨハネの黙示録7:9-17とヨハネによる福音書10:22-30 。 

 主イエス様は私たちのすべてを知っており、私たちに永遠の命を与えてくださることを知り、生涯を通じて主イエス・キリストの声に聞き従うことができるよう祈り求めました。発掘された現在のエルサレム神殿と「ソロモンの回廊」の写真も紹介しました。

   永遠の命を与える主イエス

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は復活節第4主日です。この日には毎年、ヨハネ福音書10章の「羊と羊飼いのたとえ」が読まれ、「良い牧者(羊飼い)の主日(Good shepherd Sunday)」と呼ばれています。福音書は、復活して今も生きておられるイエス様と私たちの深いつながりが語られています。また、使徒書は、ヨハネの黙示録の天上での礼拝の場面で、「小羊であるキリストが大群衆の牧者となること」が述べられています。 

  本日の福音書の箇所を振り返ります。
 冒頭にこうあります。「その頃、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。」(22・23節)
 ヨハネによる福音書では7章の途中から、イエス様はエルサレムに入り、神殿の境内で様々な教えをなさっています。10章22節にある「神殿奉献記念祭」は、口語訳や新改訳では「宮清めの祭」と訳されていました。紀元前164年に、ギリシャ人の支配からユダヤ人が独立を果たし、神殿から異教の像を一掃し、新しい祭壇を建て、宮を清めました。その次第は旧約聖書続編の「マカバイ記」に記されています。このことを記念し、12月中旬に8日間にわたり神殿を灯火(ともしび)で明るく照らす祭が行われました。それが「神殿奉献記念祭」で、この祭は、「光の祭(ハヌカ)」と呼ばれました。
 ちなみに、発掘されたエルサレム神殿は現在このようになっています。

 私は約4年前に訪れましたが、壮麗な建物で驚いたことを覚えています。
 また、「ソロモンの回廊」は神殿内の「異邦人の庭」の東側にある、屋根付きの回廊です。最初のエルサレム神殿ダビデが構想しソロモンが建築にあたり完成させました。しかしその後、何度も破壊されては建築されました。イエス様の生きた時代において、この「ソロモンの回廊」は昔のままに残されたものだと言い伝えられていたため「ソロモンの回廊」と呼ばれていたようです。そこは、おそらくこのような場所だったと考えられます。

 左の方に、いけにえにする羊などをつないだ場所が見えます。
 その回廊をイエス様は歩いておられたのです。その時、ユダヤ人たちがイエス様を取り囲んで言いました。「いつまで、私たちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」(24節)と。
 「メシア」はヘブライ語で、そのギリシャ語が「キリスト」です。日本語では、「救い主」と訳されています。
 その当時のユダヤ人たちは「救い主」が現れるのを待ち望んでいました。当時のイスラエルは、ローマ帝国の属国で、人々の生活は貧しく苦しく、宗教的には戒律が厳しく、ユダヤ人たちは心身ともに疲れており、メシア(救い主)が現れ、軍事的にも経済的にも自分たちを救ってくれることを待ち望んでいました。具体的に言えば、ユダヤ人たちはダビデ王の再来を待ち望み、ダビデ王の時代のような繁栄、豊かさを望んでいたのです。
 そのような状況の中、ユダヤ人たちが、イエス様を取り囲み、「いつまで、私たちに気をもませるのか。」と言い、「お前は、メシア(キリスト)なのか」と言って迫ったのです。 
 それに対してイエス様は「私は業によって私を証している。」と言い、羊飼いと羊の関係にたとえて、「しかし、あなたがたは信じない。私の羊ではないからである。」(26節)とおっしゃいました。さらに、こう言われました。27節から28節です。
「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、また、彼らを私の手から奪う者はいない。」と。
 イエス様は「良い羊飼い」、私たちは「その羊」です。イエス様に養われる羊たちは自分の主人であるイエス様の声を聞き分けます。イエス様はご自分の羊のことをよく知っており、羊たちはイエス様に従います。その者たちにイエス様は「永遠の命」を与えられます。そして、「その者たちは決して滅びず、イエス様と信じる者たちの絆、つながりを誰も奪うことはできない」というのです。
 最後に、イエス様はこうおっしゃいました。29節・30節です。
「私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、誰も彼らを父の手から奪うことはできない。私と父とは一つである。」と。
 独り子キリストにご自分の羊たちを与えてくださった父なる神はすべてのものより偉大であり、誰も彼らを奪うことはできず、父なる神と子なるキリストは一体である、と宣言されたのです。

 本日の福音書はこのようでした。この箇所では、私たちとイエス様との関係として3つのことが記されています。第1に私たちはイエス様の声を聞き分けることができること、第2にイエス様は私たちを知っておられること、第3として私たちはイエス様に従う者であること、ということです。
 第1のことから考えます。イエス様の声は何によって聞き分けることができるでしょうか? イエス様が語った言葉の一つ一つは聖書に記されていますから、聖書をよく読むことによってイエス様の声を聞き分けることができると言えるでしょう。第2の「知る」はただ単に知識として知っているというのではなく、イエス様と私たちの深いつながり「交わり」を表す言葉です。イエス様が私たちのすべてを知っていてくださるということは大きな恵みであります。第3のイエス様に従う者であることについては、復活の場面を思い起こします。逃げ出してしまった弟子たちのところに、羊飼いであるイエス様の方からやってきて、羊である弟子たちを再びつなぎとめて、従う者にしてくださいました。私たちが従う者になるのではなく、イエス様が私たちを従う者にしてくださったということです。
 そして、「永遠の命」、これがこの箇所におけるもう一つの重要なテーマであります。「羊」は「羊飼い」である主イエス様の声を聞き分け、その声に信頼して従います。それによってイエス様は「羊」である私たちに新しい命、すなわち「永遠の命」を与えてくださいます。「永遠の命」とは「永遠である神に触れて生きる命」を意味します。主イエス様を信じれば平穏無事で、悩み苦しみのない人生が送れるということではありません。「羊飼い」に従う「羊」たちは困難があり危険があり脅かされる荒れ野の中に生きます。しかし、そのような中でも「羊飼い」が共にいてくださるということ、神様の御手が私たちを守っているという事実こそが「神に触れて生きる命」「永遠の命」なのであります。

 なお、聖書で「命」と日本語に訳された言葉は、ギリシャ語では2種類あります。「プシュケー」と「ゾーエー」です。「プシュケー」は、肉体的な限りある命を指し、「ゾーエー」は、根源的・霊的な命を指します。28節の「永遠の命」には「ゾーエー」が使われています。それは永久に続く霊的な命です。また、「プシューケー」には「命」の他、「気」という意味もあります。本日の福音書箇所で、ユダヤ人たちがイエス様を取り囲んで言った「いつまで、私たちに気をもませるのか」(24節)の「気」が「プシューケー」です。ユダヤ人たちが、肉体的な限りある命である「プシュケー」(気)について問うているのに対して、イエス様は根源的・霊的な命である「ゾーエー」で答えたのでした。そして、そのような「永遠の命」はイエス様によって与えられるのです。私たちに求められていることは、イエス様の声を「聞く」ことと「従う」ことだけです。
 「永遠の命」は、死んでから始まる命ではなく、今、既に始まっている命です。イエス様がいつも共にいてくださるということが「永遠の命」として生かされることです。それは努力して獲得するものではなく、祈り求めて受けることのできる「賜物」です。それは「この世のもの」でも、「死後のもの」でもありません。現在も、また死を超えてなお、神様との交わり、イエス様とのつながりは限りなく続くものなのであります。
 
 イエス様とはどのようなお方でしょうか? そのことについては本日の使徒書で明確に示されています。ヨハネの黙示録7章17節です。
玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり 命の水の泉へと導き 神が彼らの目から涙をことごとく 拭ってくださるからである。」
 この小羊が主イエス・キリストです。私たちの罪の贖いのためにいけにえとなられた方が私たちの牧者(羊飼い)となり、永遠の命を導いてくださるのです。この方の声に聞き従うことにより、このつながりが限りなく続くのであります。

 皆さん、復活節の期節を過ごす私たちは、復活されたイエス様こそがまことの「羊飼い」であることを知り、「羊」である私たちはその声を聞き分けたいと願います。生涯を通じて「良い牧者(羊飼い)」である主イエス・キリストの声に聞き従うことができますように。また、救いを求めている多くの人々がその声を聞くことができますように。そして、私たちが神様の御心にかなう者となり、神様に喜ばれるよい業を行わせてくださいますように、祈り求めて参りたいと思います。

 

映画「ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイ」に思う

 先日、連休中の3日(火)に「シネマテークたかさき」で 映画「ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイ」を観ました。この映画では、公民権運動の先駆けを果たしたビリー・ホリディとそれを危険として弾圧した米国連邦捜査局(FBI)の対立が描かれていました。
  鑑賞後、スタッフの方に前橋シネマハウスで観て良かった「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」の上映をお願いしてきました。検討はしてくださりそうでした。

   映画「ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイ」の主演はグラミー賞ノミネート歌手で映画初出演のアンドラ・デイ、監督は『大統領の執事の涙』のリー・ダニエルズです。

 この映画の予告編動画を下のアドレスで見ることができます。
https://gaga.ne.jp/billie/

 ビリー・ホリデイ(本名Eleanora Fagan, 1915年4月7日 - 1959年7月17日)は、アメリカ合衆国ジャズ歌手。彼女ならではの個性的な歌声・フレージングで多くの人を魅了し、没後60年以上経っても、その強烈なカリスマ性が現代のアーティストたちに影響を与え続けています。私は高校の頃、コモドア盤のレコードを聞いていましたが、今は次のCDで聞いています。

 このアルバムの一曲目にあるのが、「奇妙な果実(Strange Fruit)」です。下のアドレスで聞くことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=wHGAMjwr_j8

 「奇妙な果実」とは、リンチにあって虐殺され、木に吊りさげられた黒人の死体のことです。ユダヤアメリカ人の教師で、音楽家だったアベル・ミーアポルの白人のリンチ(私刑)で惨殺されて木に吊るされた黒人の死体を悼んだ詩が取り上げられた歌で、最初はローラ・ダンカンが歌って少しずつ広められていきました。
 人種交流が盛んな「カフェソサイエティ」というクラブができてビリー・ホリデイが歌いに行くようになり、常連客だったアベル・ミーアポルと知り合ってその歌の存在を知りました。歌ってみると「カフェソサイエティ」の皆から反響が大きく、彼女のメインのレパートリーになりました。

 「Strange Fruit(奇妙な果実)」の歌詞と訳を下に示します。

Southern trees bear strange fruit,
Blood on the leaves and blood at the root,
Black bodies swinging in the southern breeze,
Strange fruit hanging from the poplar trees.

Pastoral scene of the gallant south,
The bulging eyes and the twisted mouth,
Scent of magnolias, sweet and fresh,
Then the sudden smell of burning flesh.
 
Here is fruit for the crows to pluck,
For the rain to gather, for the wind to suck,
For the sun to rot, for the trees to drop,
Here is a strange and bitter crop.

南部の木は、奇妙な実を付ける
葉は血を流れ、根には血が滴る
黒い体は南部の風に揺れる
奇妙な果実がポプラの木々に垂れている

勇敢な南部ののどかな風景、
膨らんだ眼と歪んだ口、
モクレンの香りは甘くて新鮮
すると、突然に肉の焼ける臭い

カラスに啄ばまれる果実がここにある
雨に曝され、風に煽られ
日差しに腐り、木々に落ちる
奇妙で惨めな作物がここにある

 映画「ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイ」では、ビリー・ホリデイが、人種差別を告発する「奇妙な果実」を歌い続け、長きに渡り執拗にFBIに追われ続けた様子が描かれていました。披露したら逮捕すると脅されながらも「この歌だけは捨てない」とステージに立ち続けた彼女の短くも壮絶な人生に胸が痛みます。

   ビリー・ホリデイのレパートリーで私が好きなのは「God Bless The Child」です。この曲は、私は高校の頃、BST(Blood,Sweat&Tears)のレコードで親しんでいました。
 下のアドレスで、Billie Holiday & Count Basieの演奏により「God Bless The Child」を聞く(見る)ことができます。 
https://www.youtube.com/watch?v=9m7WAQE1SOs

 "God Bless The Child"は、ビリー・ホリディとアーサー・ハーツォグJr.の共作とされていて、1941年にヒットしました。

「God Bless The Child(神は子供を恵み賜う)」の歌詞と訳を下に示します。

Them that's got shall get Them that's not shall lose
So the bible said and is still the news

Mama may have Papa mey have
But God bless' the child that got his own Got his own

Yes, the strong gets more While the weak one's fade
Empty pockets don't ever make the grade

Money, you have a lot of friends Crowding round the door
But when you're gone and spending ends They don't come no more

Rich relations give Clust of bread and such
You can help yourself But don't take too much

Mama may have Papa mey have
But God bless' the child that got his own Got his own

持てるものは更に得る 持たざるものは失う
聖書に書いてある言葉は いまでも通用する

ママは持っているかもしれない パパは持っているかもしれない
でも 神は自ら得る子供だけに祝福を与える

強いものはより強くなる 弱者が消えていく間に
空のポケットでは成功したためしがない

金よ お前にはたくさんの友達がいて ドアにひしめいているが
お前を使いきってしまえば誰もいなくなる

金持ちの親戚はパンのかけらをくれる
もらってもいいが当てにしてはいけない

ママは持っているかもしれない パパは持っているかもしれない
でも神は 自ら得る子供だけに 祝福を与える

 この曲の冒頭の「持てるものは更に得る 持たざるものは失う 聖書に書いてある言葉はいまでも通用する」は、マタイによる福音書25章 29節「誰でも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。」からの引用です。これは「タラントンのたとえ」の一部で、「神様はどの子にも、持つべき恵みを与えてくれている」と読めます。

 ビリー・ホリデーは9歳の時に「善き羊飼いの家」という問題を抱えたアフリカ系アメリカ女児のためのカトリックの教護院に送られ、そこでカトリックの洗礼も受けました。どのような信仰を持っていたかはっきりは分かりませんが、映画の中でも、1年の刑務所生活を経てカーネギー・ホールでのコンサートを控えてカトリックの教会で真剣に祈る様子から、シンプルな信仰心を持っていたと考えます。
 彼女の曲には聖書の言葉はあまり出てきませんが、「Strange Fruit」「God Bless The Child」の曲は、彼女自身の人生を暗示しているようにも思います。ビリー・ホリデーは家庭的には恵まれず、麻薬に頼る悲惨な人生を送りました。しかし、神様は彼女に魅力的な歌声・音楽という賜物(タラントン・タレント)を与えられました。それを通して公民権運動の先駆けの役割を果たしました。神様は、ご自分の子どもであるどのような人にも、持つべき恵みを与えておられるのです。そのようなことを映画「ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイ」を観て、特に「Strange Fruit」「God Bless The Child」の曲やビリー・ホリデーの人生から思わされたのでした。