マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『キラキラ牧師のキラキラメッセージ(福田司祭)』

 いのちのことば社のホームページの「キラキラ牧師のキラキラメッセージ」に出演しました。前橋聖マッテア教会の4つのステンドグラスから黙想し語りました。以下のURLです。よろしければ映像をご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=tzWLI0VQaRU&t=72s

このメッセージの原稿を以下に示します。
「聖書を読み、思い巡らし、祈る」

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 ぶんでんチャンネルをご覧の皆さん、こんにちは。
 私は日本聖公会の司祭で、前橋聖マッテア教会牧師のマルコ福田弘二と申します。今日は、前橋聖マッテア教会の聖堂にありますステンドグラスから黙想し、自分の証とも絡めながらメッセージをしてみたいと思います。
 最初に、簡単な自己紹介をします。私は現在68歳ですが、60歳の定年まで公立の小中・特別支援学校の教師として38年間務め、退職してから神学校に入って学び、2018年に執事、2019年に司祭に按手(叙階)された者です。前橋聖マッテア教会には2020年4月から牧師として聖務を行っています。もう一つの教会の管理牧師と認定こども園のチャプレンもしています。
 
 では、ステンドグラスを見ていきましょう。今回は4つのステンドグラスの絵を取り上げたいと思います。聖堂の後ろの洗礼盤の上の3つのステンドグラス、右から「受胎告知」「クリスマス」「イエスの洗礼」と、

聖堂正面の祭壇の上のステンドグラス「復活のイエス」です。

 

    まず、聖堂後ろの右側のステンドグラス「受胎告知」をご覧ください。  
    天使ガブリエルから「神の御子を身ごもる」と伝えられた年若く未婚のマリアは驚き戸惑いますが、最後には「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(ルカ1:38)と答えた場面が描かれています。神が共にいてくださり、マリアが神を信じていたからそう言えたのでした。
 当教会のステンドグラスやフラ・アンジェリコが描く受胎告知を受けるマリアは、腰をかがめて両手を重ねています。この仕草は、相手を敬い、相手に同意するという意味があります。これはマリアの神への従順を表しています。自分が取るに足りない「主のはしため(奴隷)」であることを認めることで「この身になりますように」、英語で「Let it be」と宣言できたのだと考えます。ちなみに、ビートルズポール・マッカートニーはこの御言葉から名曲「Let it be」を生み出しました。
 私たちがなすべきことは、マリアが天使に言った言葉「おことばどおり、この身になりますように」、英語の聖書(NRSV)では「Let it be to me according to your word.」のように、主の御言葉に聞き従うことではないでしょうか?

 

 続いて、真ん中のステンドグラス「クリスマス(イエスの誕生)」です。

    馬や牛のいる家畜小屋で誕生したイエス様をマリアが抱き、ヨセフが手を合わせて礼拝しています。おそらく羊飼いたちや三人の博士が訪問し、礼拝した後のシーンであるように思われます。
 私はこう思います。羊飼いたちはイエス様たちをご覧になり、あまりにみすぼらしかったから自分たちの持っている物、食料や毛布などをお捧げし、分かち合ったのではないだろうかと。ステンドグラスの右下にふたの開いた箱が描かれていますが、それは羊飼いたちや三人の博士が差し上げた物が入っているのではないかと私は思うのです。
 さらに、私が注目したいのは、誕生したイエス様を最初に礼拝しに来たのが羊飼いたちであり、イエス様の誕生を伝えた天使の話などを聞いて、「マリアは、これらのことをすべて心に納めて、思い巡らし」(ルカ2:19)たということについてです。
 ここで「心に納める」と訳されたギリシャ語は「シュンテーレオー」です。この語は「共に」を意味する「シュン」と、「守る」を意味する「テーレオー」の合成語です。マリアはイエス様と一緒に、イエス様と共に、心に納め守ったのです。また、「思い巡らす」と訳されたギリシャ語は「シュンバロー」で、こちらも「共に」を意味する「シュン」と、「投げる」を意味する「バロー」の合成語です。それは、本来、「共に投げ合う」ことを意味し、論じ合ったり、助け合ったりすることであり、そこから派生して、「(心の中で)じっくり考える、熟考する」といった意味にもなりました。マリアは一人で思い巡らしたのではなくイエス様と一緒に、イエス様と共に、じっくり考えたのでした。 
 「神の言葉を心に納めて、思い巡らす」、このマリアの姿勢こそ私たちが人生を歩む上で基本的姿勢とすべきものではないでしょうか?  そしてそれを一人で行うのでなく、イエス様と一緒に、イエス様と共に行うのであります。

 

 続いて、左側のステンドグラス「イエスの洗礼」です。

  民衆に混じって洗礼者ヨハネによって洗礼を受け、祈っているイエス様の様子が描かれています。ルカによる福音書3章21-22節にこうあります。
『さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」』
 イエス様は公生涯を始めるに当たって、洗礼をお受けになりました。すると父なる神様は、イエス様に対して、「あなたは私の愛する子だ、あなたは私の喜びだ」と言われました。この声は、私たちすべての人間に向けての、神様の心と言っていいと思います。洗礼という出来事を通して、私たちすべての人間が「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」と言っていただけるのです。私たちもキリスト者としての人生の始まりに洗礼を受けることは神様の喜ばれることであり、私たちが「神の愛する子」とされることを表していると考えます。

 

 最後に、聖堂正面の祭壇の上のステンドグラス「復活のイエス」をご覧ください。

 この絵が表しているのはヨハネによる福音書 20章 19-20節と思います。復活したイエス様が弟子たちに現れた場面です。こうあります。
『その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた「平安があなたがたにあるように。」こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。』
 ここの「平安があるように」のギリシャ語原文は「エイレーネー(ヘブライ語では「シャローム」)」であり、「シャローム」はユダヤ人の日常の挨拶の言葉で「平和があるように」とも訳せる言葉です。シャロームの意味する平和とは、戦いや争いのない状態というより、「神が共におられる」、そうした安らぎの状態を意味します。恐れや苦しみの中にあっても、神が共におられるという平安がイエス様によって示されたのです。この言葉が復活したイエス様の弟子たちへの第一声でした。裏切った弟子たちに対する恨みの言葉ではなく、安らぎを祈る言葉だったのです。そして手と脇腹を見せ、自分が十字架に付き復活したイエスであることを示しました。弟子たちの安堵と喜びはいかばかりだったでしょうか?
 この場面を描いたマッテア教会のステンドグラスでは、イエス様の右の掌にはっきりと釘の傷跡が記されています。
 イエス様の傷跡に関しては、イザヤ書53章5節にこうあります。
『彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。』
 イエス様の受けられた傷によって、私たちに平安と癒しが与えられたことを思います。私にはこのステンドグラスのイエス様の右の掌の傷が輝いて見えるのです。

 そして、ある時、私はこの聖堂で、「朝の祈り」と「ロザリオの祈り」を終えて黙想しているときに、こんな声が聞こえたような気がしました。それは「傷も賜物だよ」という声でした。
 このことで私には思い当たることがあります。
 私は26歳の時、1981年のイースターに洗礼を受けました。信仰歴は42年になります。キリスト教との出会いは入学した大学が、たまたまキリスト教主義学校だったことです。卒業後、群馬県の山間部の小学校に赴任し3年を過ごし、そこではなんとか務めることができました。しかし、その後、都市部の中学校の教師になった時、その学校がかなり荒れていてどう対応したらいいか悩み、同僚の教師からは「もっと厳しく指導すべきだ」と言われました。生徒にも教師にも傷つけられ、ついには学校に行けず、不登校のような状態にまでなってしまいました。そんな折、大学で受けたキリスト教教育を思い出し、それこそが真実の教育であると思い、もっとキリスト教を知りたいと考え、出身大学と同じ聖公会の教会の門をくぐりました。それがアドベントの頃で、通って行くにつれ癒され希望が見えてきました。そして次の年のイースターに洗礼を受けました。それ以降、「イエス様の教え、キリスト教精神で生徒たちに接しよう、教育に当たろう」と考え、実践し、60歳の定年まで勤めることができました。
 生徒にも教師にも傷つけられ、苦しかったのですが、その傷のゆえに教会に通うようになり受洗し、さらに今は聖職として聖務を果たしています。まさに「傷も賜物だ」と思います。

 今、ぶんでんチャンネルをご覧の皆さんも、何かの傷を受け苦しんでおられるかもしれません。しかし、それは神様から与えられた「賜物」なのかもしれません。イエス様も傷を受けられたのです。
 皆さん、私たちが傷を傷で終わりにせず、賜物とするにはどうしたらいいでしょうか? それは、受胎告知のマリアのように日頃から聖書を読み主の御言葉に聞き従い、イエス様誕生の時のマリアのように神の言葉をイエス様と共に心に納め思い巡らし、洗礼の時のイエス様のように祈ることから得られるのではないでしょうか?
 皆さんには、ぜひそのように人生を送ってほしいと思います。どうか、聖書を読み、思い巡らし、お祈りすることをお勧めいたします。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 

聖霊降臨後第 16主日 聖餐式『神の憐れみに応え人を赦す』

 本日は聖霊降臨後第 16主日。前橋の教会で聖餐式に預かりました。聖書箇所は、シラ書[集会の書] 27:30-28:7、詩編103:8-13とマタイによる福音書18:21-35。説教では、「仲間を赦さない家来のたとえ」から、神が私たちを憐れみ赦していることに応え、神に寄り頼み人を愛し赦すことができるよう祈り求めました。
 テーマから思い浮かべる八木重吉の詩「ゆるし」についても言及しました。 

   説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は聖霊降臨後第16主日です。福音書は、マタイによる福音書18章21節から-35節で、聖書協会共同訳聖書の小見出しは「仲間を赦さない家来のたとえ」です。ここでは1万タラントンと百デナリオンという天文学的な額の違いを例に掲げて相手を赦すことの真の意味を示しており、先ほど読んでいただきました旧約聖書続編のシラ書の内容と対応しています。

 本日の福音書はこのような話です。
 自分に対して罪を犯した者を「何回赦すべきでしょうか。」というペトロの質問に対してイエス様は「7の70倍までも赦しなさい」、つまり「どこまでも赦しなさい」と教えられ、「天の国のたとえ」として「仲間を赦さない家来のたとえ」を語られました。
 ある王が、その家来たちに貸した金の清算をしようとしました。そのとき、1万タラントンの借金を王に対して負った家来が連れて来られました。そして、自分も家族も財産も全部売って、借金を返すようにと命じられます。彼はひれ伏して懇願します。『どうか待ってください。きっと全部お返ししますから』と。しかし、彼にそれができるわけはありません。1万とは当時数えられる限りの最高の数を意味し、タラントンも金額として考えうる最高の額でした。しかし、なんと主君は、彼を憐れに思い、彼を赦し借金を帳消しにしてやったのです。ところが、彼は出て行き、100デナリオン、ざっと今の100万円ほど、自分に借金のある仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言いました。仲間がひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼むのを聞かず、彼を借金を返すまでと牢に入れたのです。この一切を見ていた仲間たちは、非常に心を痛め、主君のもとに行って一部始終を報告しました。主君は、この家来を呼びつけて、『私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』と言って、拷問係に引き渡したのです。
 イエス様は、このようなたとえをペトロに話して、『あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、天の私の父もあなたがたに同じようになさるであろう。』と言われました。

 このような「たとえ話」です。
 ここに出てくる「王」、あるいは「主君」は、天の父なる神様であり、そして王である主君に一万タラントンの借金がある「家来」は、実に私たちのことであると考えられます。

 ここで注目したい言葉が3つあります。それは1万タラントンと「憐れに思って」と100デナリオンです。1つずつ見ていきたいと思います。

 まず、1万タラントンです。
  1タラントンは6000デナリオンです。1デナリオンは労働者の1日の賃金だったと言われます。分かりやすく1デナリオンを1万円すると(今は不況でもっと低いかもしれませんが)、1タラントンは6000万円となります。1万タラントンはその1万倍ですから、6000億円ということになります。そのような多額な借金を家来は主君からしていたのです。そしてそれは、神様から多額の借金(罪)を私たち人間が負っているということでもあります。

 続いて「憐れに思って」です。ギリシア語では「スプランクニゾマイ」です。それは「目の前の人の苦しみを見て、自分のはらわたがゆさぶられてしまう」という深い共感を表す言葉です。「はらわた痛み」とでも言うのでしょうか。ひれ伏ししきりに「待ってください」と願う家来(つまり我々人間)を見て、家来との関わりを大切に思い、はらわた痛み、赦し、6000億円という多額な借金を帳消しにしてくださる、父である神様とはそのような方だとイエス様は語るのです。

 最後に100デナリオンです。先ほどもお話ししましたように、1デナリオンは労働者の1日の賃金だったと言われます。分かりやすく1デナリオンを1万円とすると、100デナリオンは100万円となります。少額ではありませんが、庶民でも有りうる金額です。
    
 1万タラントン(6000億円)の借金を帳消しにしてもらったのに、自分が貸した100デナリオン(100万円)は赦せない。これが私たち人間の姿なのだと思います。この現実を直視するとともに、神様は私たちを憐れに思い(はらわた痛み)、多額の借金を帳消しにするほど愛してくださっていることを心に留めたいと思います。

 本日の福音書のテーマから思い浮かべる詩があります。それは八木重吉の「ゆるし」という詩です。このような詩です。
  『神のごとくゆるしたい
    ひとが投ぐるにくしみをむねにあたため
   花のようになったらば神のまへにささげたい』
 人から投げつけられた憎しみや怒りや、いわれのない悪意をも、相手に投げ返さずに、まずそのまま受け止める。八木重吉は、これらを自分の胸に抱きあたため、美しい花束に作り替えて神に捧げたいというのです。
 八木重吉は最初から、「これは至難の技だ」と言っているように思います。「神のごとくゆるす」ことは、人間にできるものではありません。だからこそ祈るしかないのです。「ゆるせる心を与えてください」と、その完成を切望し、成就したいと願うのです。そして神の前にひれ伏してこの花を捧げたいというのであります。それが彼の祈りです。
 八木重吉の詩は教科書にも載っています。彼は、1898年(明治31年)、今から125年前に現在の町田市に生まれました。病弱で、キリスト教の深い信仰をもっていました。教師をしながら、多くの詩を書き、1927年(昭和2年)に結核のため29歳の若さで天に召されました。
 「ゆるし」の詩はこの詩集『貧しき信徒』に納められています。

 

 『貧しき信徒』は彼の第2詩集の題名で、この詩集は彼の死の4ヶ月後に刊行されました。私は、洗礼は受けたがあまり教会に行かず一人で聖書を読んでいた八木重吉は、自分を『貧しき信徒』であるという自覚を持っていたように思います。
 八木重吉の詩が死後100年近く経っても多くの人に読まれているのも、自分が「貧しき信徒」であるという謙虚な姿勢の故であるように思うのです。私たちは誰一人、自分が立派な信徒であると言える人はいないのであります。自分も「貧しき信徒」であるという謙虚な思いが八木重吉の姿勢と共感して、多くの人の共感を得ているように思います。この「ゆるし」という詩でも、神のようにゆるしたいがそうできない自分を自覚し、祈りによって憎しみを美しい花のように換えて神に捧げることを願っています。そこにはすべてを神に委ねる信仰があり、神の愛が先に私たちに与えられているということがあると思います。
                
 本日の福音書に戻ります。私たちが人をゆるす原点、それは神様が私たちを「はらわた痛む」ほど愛し、数え切れないほど赦しておられることなのです。
 それなのに、私たちは皆、人の罪を責め「絶対に赦せない」と言ってしまいがちであり、その時には、神様によってとてつもなく大きな借金、罪を赦していただいていることを忘れてしまっているのであります。

 本日の福音書のイエス様の結びの言葉は「あなたがたもそれぞれ、心からきょうだいを赦さないなら、天の私の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」です。これは厳しい言葉ですが、見方を変えれば、「私たちが罪を犯したきょうだいを赦すなら、天の父も私たちを赦してくださる」ということです。このことから「主の祈り」の一節を思い起こします。それは、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」です。
 私たちは、神様から、多くのことを赦してもらっています。けれども人を赦すことは難しいものです。主の祈りを唱えるたびに、赦されていることに感謝し、人を赦す力を与えてくださるよう願いたいと思います。

 皆さん、神様は私たちを「はらわた痛む」ほど愛し赦してくださっています。そのことを心に刻み、一心に祈るとき、私たちも神様の思いに応え、自分の身近な一人一人を愛し赦す気持ちが生まれてくるのではないでしょうか。そうできるよう、日々神様に寄り頼み、聖霊による導きを祈り求めて参りたいと思います。
 
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 

 

聖霊降臨後第 15主日 聖餐式『共におられるイエス様と神の思いに従う』

 本日は聖霊降臨後第 15主日。新町の教会で聖餐式に預かりました。聖書箇所は、エゼキエル書33:7-11 、詩編119:41-48とマタイによる福音書18:15-20。説教では、きょうだいへの忠告と共に祈ることの根本には、イエス様が共におられること、そして、小さな者が一人も滅びないことを願う神の思いがあることを知り、私たちと教会は、その神の思いに従うことができるよう祈り求めました。
 テーマとつながりがあると考える私の「かなの家」での体験についても記しました。説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第15主日です。福音書はマタイによる福音書18:15-20で、教会内の罪を犯した者への忠告と教会に与えられている罪を赦す権威の箇所です。旧約聖書エゼキエル書33:7-11で、悪しき者に向かい警告を発する見張りとしてのエゼキエルの任務を語る箇所で、特に11節の中ほどの「悪しき者がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。」という神の言葉が福音書と対応しています。

 福音書について考えます。マタイ福音書18章は「教会の章」と言われ、教会共同体のあり方の箇所と考えられています。1-5節では子どもを受け入れること、6-9節では小さい者をつまずかせないことが語られます。一貫しているのは、共同体の中の弱いメンバーに対する配慮を欠かさないということです。本日の箇所は10-14節の「迷い出た羊」のたとえの続きで、特にその最後の14節の御言葉「そのように、これらの小さな者が一人でも失われることは、天におられるあなたがたの父の御心ではない。」の後に語られていることに注目したいと思います。

 本日の箇所、マタイによる福音書18:15-20は大きく3つの部分に分かれます。①は15節から17節、②は18節から19節、③が20節です。
 まず15節でイエス様は弟子たちにおっしゃいます。「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい。言うことを聞き入れたら、きょうだいを得たことになる。」と。
 今回の新しい聖書翻訳、聖書協会共同訳では「きょうだい」とひらがな表記になりました。「兄弟」と漢字表記にすると男性のみと思われますが、この「きょうだい」には男性だけでなく女性も含まれているのでひらがな表記になりました(姉と弟のけんかも「きょうだいげんか」と言います)。
 ここでは、「きょうだい」(キリストに従う教会共同体の仲間)が罪を犯したなら、見過ごしにすることなく、とがめる(以前の口語訳や新共同訳では「忠告する」)よう命じられています。「きょうだいを得る」ために、「小さな者」を心にかける神様の思いを知らせることが、ここで求められている忠告です。 
 しかし、忠告を聞かない者もいます。その場合にも、「きょうだいを得る」ために忠告しなければなりません。「とがめる」または「忠告する」と訳したギリシャ語「エレンクオー」は「光にさらす」を意味します。忠告とは、小さな者の滅びを望まない神の光にさらし、神の思いへと向けさせることです。一人で忠告しても聞かないなら、「二人か三人」で忠告し、それでも聞かないなら、「教会」に言いなさいとイエス様は命じておられます。教会にも聞き従わないなら、最後はイエス様が裁きを行います。その人は「異邦人や徴税人」と同様と見なされます。ここは一見すると差別的なニュアンスを感じますが、それはイエス様の本意ではないと思います。イエス様は異邦人や徴税人に対してどうされたでしょうか? イエス様は彼ら差別されてきた人々と食事を共にし、徹底的に寄り添われました。イエス様が「異邦人や徴税人」にされたことと同様に彼らに寄り添うことが求めておられると私は思います。  
 ここまでが①です。そして、これからが②です。
 「あなたがた」は「地」の上にあって、「天」の父と結びついています。教会が下す判断は天の父の判断を表します。19節にこうあります。
『また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。』
 あなたがたのうちの二人が願うことは何でも実現しますが、それを起こすのは「天の父」です。天の父がそうされるのは、複数の仲間が心を一つにして祈るからです。
 ③の20節はこうです。
「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」
 ギリシャ語原文では冒頭に「なぜなら」という言葉(「ガル」)が入っています。英語の聖書でも「For(なぜなら)」が冒頭にありました。これはこれまでの15節から19節のすべてを受けての理由文と考えられます。
 罪を犯した「きょうだい」への忠告は、「きょうだい」を神の国に得るために行われますが、それはその中にイエス様が共におられるがゆえにできることなのです。
 同様に、天の父が願いをかなえて下さるのは、複数の信徒仲間がイエス様によって集められて祈り、その中にイエス様がおられるからなのであります。
 この「私もその中にいる」というイエス様の言葉はマタイ福音書の主要テーマであり、それはイエス様が「インマヌエル(神は我たちと共におられる)」(1:23)と呼ばれる存在であり、イエス様自身が「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28:20)と約束された存在であるということです。

 本日の箇所では「きょうだい」への忠告と、複数の仲間が共に祈ることの重要性が語られました。そして、その根本には神様が、イエス様が私たちと共におられるということがありました。このことで、思い浮かぶ私自身の体験があります。それは神学校の2年の時、2016年8月、静岡の「ラルシュかなの家」の実習でのことです。「ラルシュかなの家」は知的障害のある「なかま」とスタッフである「アシスタント」が共に暮らす共同体(コミュニティ)です。私はそこで3週間、なかまの人やアシスタントと寝食を共にしました。週に一回、Ⅰ時間程度、なかまの人と私の賜物(タレント)であるミュージック・ケアもしました。 
 かなの家では、なかまの人やアシスタントの信頼関係を重視し、毎月、その月の誕生者を祝う誕生会やなかまの人とアシスタントが一緒に行う全体会議がありました。そこでは個人を祝ったり、それぞれの行動を見つめたり対話を大切にしていました。月一度、アシスタントが集まって、なかまの人への対応の仕方を見つめ、他のアシスタントに「こうしたらどうか」と忠告するなど、お互いに意見を述べ合う会議もありました。
 また、かなの家では、なかまの人と共に行う祈りを大切にしていました。毎日、すまいの施設(グループホーム)で朝の祈り・夕の祈りを行い、主日にはなかまの人と一緒にカトリック静岡教会のミサに参列していました。
 施設での朝夕の祈りの様子はこのようでした。

 朝の祈りは、聖歌で始まり、その日の聖書を読み沈黙し、また聖歌を歌い、主の祈りか聖母マリアの祈りをしていました。夕の祈りは、聖歌、聖書朗読の後、一人一人が自分の言葉で祈り、その後、聖歌、ラルシュの祈り、主の祈りか聖母マリアの祈りをしていました。朝夕の祈りとも聖歌(かなの家で選曲されたもの)はなかまの人が選び、無伴奏かギター伴奏で歌っていました。なかまの人の祈りは「神様、今日は○○さんがボランティアで来てくれてよかったです」とか「神様、今日はミュージック・ケアが楽しかったです」といったものでした。朝夕の祈りはシンプルなものですが、なかまの人とアシスタントが心を一つにして祈る時は聖なる時であり、ここには確かにイエス様が真ん中におられたと感じました。
 かなの家が大切にしていたのは、信頼関係に基づく対話と祈りでした。

 ところで、キリストの名のもとに集められた私たちが、語り合い、共鳴し合うとき、イエス・キリストが共にいる、ということは、先ほど歌った聖歌第442番に示されています。歌詞をご覧ください。
『ともにあつまる 語りあう ひびきあう そこに キリストは 共にいる
 耳をすます 見つめあう 手をつなぐ  そこに キリストは 共にいる
 手をさしのべる 腕を組む 歩き出す  そこに キリストは 共にいる』
 耳を澄まし見つめ合い、手をさしのべ共に歩む、それが神様の思いであり、その御心を実践する私たち、そして教会でありたいと思います。

 皆さん、本日の福音書では、「きょうだい」への忠告と共に祈ることの重要性が語られ、その根本には「イエス様が共におられる」、いつも中心にイエス様がいるということが強調され、だから忠告できる、だから願いがかなうとされました。忠告も願いも、それは自分の思いではなく神様の思いを表すものであり、「神様の思い」とは小さな者が一人も滅びないことを願うというものであります。私たち、そして教会は、その神様の思いに従うものでありたいと願い、そうできるよう祈り求めて参りたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

『「レクチオ・ディヴィナ」に思う』

 前回のブログで「meditation」及びその語源であるラテン語の"meditatio"についても記しました。「meditatio(黙想)」で思い浮かぶ聖書の読み方があります。それが「レクチオ・ディヴィナ」です。今回は、レクチオ・ディヴィナ(lectio divina)について思い巡らしたいと思います。

 私はこの本、来住英俊神父の「目からウロコ 聖書の読み方 レクチオ・ディヴィナ入門」から多くの示唆を得ました。

 レクチオ・ディヴィナ(lectio divina)とは「聖なる読書」という意味で、古代から行われたきた最も基本的な祈りの手法です。
 レクチオ・ディヴィナでは4つのステップを歩みます。それは、レクチオ・メディタチオ・オラチオ・コンテンプラチオであり、読む・黙想・祈り・観想と訳されています。
 レクチオ・ディヴィナは「聖書を読むこと」=「祈ること」という独特の読み方であり、一言一句に重みをかけながら時間をかけてゆっくり読んでいくものであり、主に修道会で用いられてきた伝統的読書・黙想法です。 
 ラテン語でlectioとは「読むこと」という名詞、divinaは「聖なる」という形容詞であり、英語ではlecture, divineという言葉と派生関係にあります。
 古代の修道院では、聖書を読んでいる時間が、そのまま「祈り」でもありました。ラテン語という、通常は使わない普遍教会の共通語である言語で読むこともあり、正確に精読し、心を静めて集中するよう努力して時間を保つ必要がありました。

 およそ12世紀ごろから、レクチオ・ディヴィナにおける精神の働きを4つに分類するようになりました。
1.レクチオ(lectio)… 読む → み言葉に聞く
2.メディタチオ(meditatio)… 黙想 → 思いを巡らす
3.オラチオ(oratio) … 祈り → 神に語りかける
4.コンテンプラチオ(contemplatio)… 観想 → 神を見つめ、神の前にとどまる
 英語のlecture,lessonなどは1から来ています。meditationはこの2から来ており、口の、口頭のという意のoralは3から来ています。

 レクチオ・ディヴィナの読み方は、急いではなりません。速読とは全く反対の作法であり、ゆっくりと、単語一つ一つを噛み締めて味わうように、ひと言ずつ確かめて読むことを要します。
 言葉を読むというよりは、言葉を聴き、味わい、思い巡らし、得心し、悩み、疑問に問いを発し、納得し、黙想し、静かに感じるといった内省的作業、及びその状態そのものを「レクチオ・ディヴィナ」と言います。固定観念や先入観を捨て、混じり気のない心で、行ったり戻ったりしつつ、時に何度となく戻って読み直しながら進みます。無理はしない、止まっても良い、疲れたらそこで終えても良い。修道院生活者でさえ何時間もできるものではなく、惰性や苦行でやるものでもありません。「主の祈り」をもって終えることが望ましいとされています。

 今回は特に、3段階目のオラチオ(oratio)に焦点を当てて考えたいと思います。oratio(祈り)の動詞の命令形がoraであり、この言葉からは、ベネディクト修道院のモットーとして有名な「祈り、かつ働け」(ora et labora)を思い浮かべました。
 これは「オーラー・エト・ラボーラー」と発音します。ōrā は、「祈る」という意味の第1変化動詞ōrō,-āre の命令法・能動態・現在、2人称単数です。labōrā も、「働く」を意味する第1変化動詞labōrō,-āre の同じ形(命令法・能動態・現在、2人称単数)です。
 オーラーが「祈りなさい」、ラボーラーが「働きなさい」という意味ですが、綴りを見ると、labōrā の中に ōrā の文字が見つかります。つまり、「勤労の中に祈りがある」という考えが文字の上でも表現されているのです。ここに大きな真実があります。つまり、「働くという行為に祈りが含まれている」ということです。これは、マザー・テレサの精神にも共通するものと考えられます。マザーは「貧しい人に奉仕することが祈りなのだ」と言っています。
 「祈り、かつ働け」は先日、9月3日に洗礼堅信を受領したY兄が自身の洗礼名にベネディクトを選んで理由でもあります。「ora et labora(オーラー・エト・ラボーラー)」、この言葉を私たちも日々唱え、実践したいと願います。

 レクチオ(読む)・メディタチオ(黙想)・オラチオ(祈り)・コンテンプラチオ(観想)の4段階で聖書を読み、主の御心に近づきたいと思います。

 

 

 

『ジョン・コルトレーン「メディテーションズ」に思う』

 ジョン・コルトレーンのいわゆる宗教3部作のアルバムで、これまで「至上の愛」と「アセンション」について記しました。今回は最後の1枚「メディテーションズ(Meditations)」を取り上げたいと思います。私はこのCDで聞いています。

 John Coltrane - Meditations (1966) full album は以下のURLで聞くことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=TuzfMR-7v1I

 「メディテーションズ」の録音は1965年11月23日、「アセンション」の録音が1965年6月28日ですから、その約5ヶ月後です。一層、フリージャズの度合いが高くなっています。
 パーソネルはJohn Coltrane (ts, per) Pharoah Sanders (ts, tambourine, bells) McCoy Tyner (p) Jimmy Garrison (b) Rashied Ali (ds) Elvin Jones (ds)で、黄金のカルテットに加え、テナーサックスのファラオ・サンダースPharoah Sanders)、ドラムのラシッド・アリ(Rashied Ali)を加えた編成で演奏されました。
 曲は全5曲で、LPではA面が1と2、B面が3~5でした。
1. The Father And The Son And The Holy Ghost (John Coltrane) 12:49
2. Compassion (John Coltrane) 6:49
3. Love (John Coltrane) 8:08
4. Consequences (John Coltrane) 9:11
5. Serenity (John Coltrane) 3:30
 どれも、コルトレーンのオリジナル曲で、宗教色、精神性の濃い題名が並んでいます。

 1曲目は、「父と子と聖霊(The Father And The Son And The Holy Ghost)」と題された曲。神は唯一であるが三つの位格(ペルソナ)を持つという「三位一体」の神秘を表す言葉ですが、聖霊をThe Holy Ghostというのがなんとも古い感じがします(現在はThe Holy Spirit)。英語の聖書でもThe Holy Ghostと表記するのは、King James Versionくらいだと思います。祈祷書The book of Common Prayerでも、1662年の第五祈祷書の表記と思います。
 この曲では、まず左右に分かれた2テナーが同時にソロを展開し、そこにリズム隊を加え、混沌とした音の洪水が続きます。
 この曲から私が想起したのは聖霊降臨の箇所です。使徒言行録2章1~4節にこうあります。
『五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。』
  この他国の言葉(異言)をコルトレーンファラオ・サンダースらが思い思いに語っているイメージです。この聖霊は父と子から発出されていると考えるのがカトリック聖公会の教義です(正教会は「父からのみ」)。

 2曲目「慈悲(Compassion)」は、定型ビートで時々、鈴のような音が鳴り響く中、マッコイ・タイナーコルトレーンとソロが引き継がれます。このピアノは、私にはCompassion(共感、共に苦しむ)という表題にふさわしく聞こえます。
 3曲目「愛(Love)」は、ベースソロから始まり、コルトレーンの美しいソロがフィーチャーされています。これは、「神の愛(アガペー)」をコルトレーンが提示したのだと思います。
 4曲目「威厳(Consequences)」は、前曲の静寂を壊すかのように、左右に分かれた2テナーによる絶叫が続きます。
 5曲目のアルバム最後を飾る「静寂(Serenity)」は、前のピアノソロを引き継いで、コルトレーンは静かに、かつ情念をもって祈り演奏しています。まさに「The Serenity Prayer」であります。

 コルトレーンがこのアルバムのタイトルを「Meditations」とした思いは、どのようなものだったでしょうか?   
 meditationの語源は、ラテン語の"meditatio"から来ています。この言葉は「考えをめぐらすこと、黙想すること」を意味し、日常生活から離れ、自己探求や内省的な思考を行うことを表します。 
 meditatioから私が思い浮かぶのは、イエスを産んだマリアが羊飼いの訪問を受けた後の心持ち、思いです。ルカによる福音書2章15~19節にこうあります。
『天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使から告げられたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた。』
 この「心に留めて思い巡ら」すことが、meditatioでありmeditationと言えます。ここで「心に留める」と訳されたギリシャ語は「シュンテーレオー」です。この語は「共に」を意味する「シュン」と、「守る」を意味する「テーレオー」の合成語です。マリアはイエス様と共に、心に留め守ったのです。また、「思い巡らす」と訳されたギリシャ語は「シュンバロー」で、こちらも「共に」を意味する「シュン」と、「投げる」を意味する「バロー」の合成語です。それは、本来、「共に投げ合う」ことを意味し、論じ合ったり、助け合ったりすることであり、そこから派生して、「(心の中で)じっくり考える、熟考する」といった意味にもなりました。マリアは一人で思い巡らしたのではなくイエス様と共に、じっくり考えたのでした。 
 マリアのこのmeditatioの態度を、コルトレーンは多くの人に伝えたいと思い、アルバムタイトルを「Meditations」としたのではないでしょうか?
 ジョン・コルトレーンのアルバム「メディテーションズ」から、混沌と音の洪水にしばし浸かりながら、このようなことを黙想しました。

 

聖霊降臨後第 13主日 み言葉の礼拝『神が与えた信仰に生きる』

 本日は聖霊降臨後第 13主日。午前前橋、午後新町の教会で、本日も都合により、み言葉の礼拝を捧げました。聖書箇所は、ローマの信徒への手紙11:33-36 、詩編138とマタイによる福音書16:13-20。説教では、「ペトロの信仰告白」から、信仰も神から与えられた恵みであることを知り、主の教会を清め守り、信仰に生きることができるよう祈り求めました。
 「新約時代のパレスチナ」の地図やペルジーノの絵画「ペトロに天の国の鍵を授けるイエス」も活用しました。新町での説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日も「み言葉の礼拝」を捧げています。2週間前の礼拝後の夕方から発熱があり、抗原検査をしたら陽性となり、礼拝出席された方には連絡いたしましたが、ご迷惑をおかけしました。
 現在は熱は下がりましたが、いまだのどが痛く咳が出ますので、本日も聖餐式は安全のため取りやめ、「み言葉の礼拝」とさせていただきました。ご理解をお願いします。
 
 さて、今日の福音書はマタイによる福音書16:13-20、いわゆる「ペトロの信仰告白」の箇所です。
 今日の箇所について、振り返ります。
 場所は「フィリポ・カイサリア地方」です。「フィリポ・カイサリア」はガリラヤ湖から北へ約40キロメートルの場所です。こちらの「新約時代のパレスチナ」の地図をご覧下さい。

 フィリポ・カイサリアに赤字で○印をつけました。「カイサリア」は「ローマ皇帝(カエサル)の町」を意味しますが、地中海沿岸の町カイサリアと区別するために「フィリポ・カイサリア」と呼ばれていました。フィリポはヘロデ大王の息子からとられています。ここはイスラエルの北の果てであり、異教の神々の神殿がありました。そういう異教徒たちの住む偶像礼拝の地方で、イエス様は「人々は人の子を何者だと言っているか」と尋ねられたのです。弟子たちは口々に、「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えました。洗礼者ヨハネもエリヤもエレミヤも偉大な預言者ですが、人間であることには変わりません。人々はイエス様もそのような存在と考えていたと思われます。そこでイエス様は、今度は弟子たちに向かってお聞きになりました。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」と。
 すると、ペトロが、口を開いて答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。「メシア」は、ギリシャ語原文では「クリストス(=キリスト)」です。本来の意味は「油注がれた者」でしたが、新約聖書では神が決定的に遣わされる救い主を意味するようになりました。そしてそこには、「生ける神の子です」がつけ加えられています。今生きて働き、恵みの御業を行っておられる、その生ける神が遣わされたあなたこそメシア(救い主)であると、ペトロは公に表明したのでした。
 そのペトロの信仰告白に対するイエス様の答えは、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。」ということでした。「バルヨナ」はアラム語で「ヨナの子」の意味です。シモンはペトロの実名です。「ヨナの子シモンよ」とイエス様は信仰告白をしたペトロに、親の名や実名を使い親しく語りかけ「あなたは幸いだ。」とおっしゃたのです。そして「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である」と言われました。ペトロのこの信仰告白は、人間が考えてできることではありません。それは神様が与えて下さるものです。その信仰を神から与えられて、それを告白することができる者は本当に幸いだ、とイエス様は言っておられるのです。
 さらにイエス様はおっしゃいます。「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない。」と。イエス様は、「あなたはペトロ」と言われました。「ペトロ」というのは、イエス様がつけたあだ名でして、アラム語の「ケファ」(「岩」の意味)をギリシャ語に訳したものです。続いて、「私はこの岩の上に私の教会を建てよう。」と、イエス様はおっしゃいます。ここの「岩」がギリシャ語では「ペトラ」でこれは女性名詞で、この男性形が「ペトロ(ス)」です。
 イエス様は、ペトロのように、「イエス様はメシアである」と告白する人々の上に、私の教会を建てると言われたのであります。そして、イエス様を救い主と信仰告白する教会は陰府の門(力)にも打ち勝つと言っています。陰府とは死者がとどまるところです。死者の領域にも神の愛、神の支配は届くのであります。
 イエス様はペトロに「私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。」と話しました。この箇所を表した絵画があります、バチカンシスティーナ礼拝堂にあるペルジーノ作のフレスコ画「ペトロに天の国の鍵を授けるイエス」です。

 ペルジーノはルネサンス期のイタリアのウンブリア派を代表する画家で、ラファエロの先生です。「ペトロに天の国の鍵を授けるイエス」は教皇シクストゥス4世の依頼で1482年に制作されました。
 イエス様はペトロに天の国(=神の国)の鍵を授けるとありますが、鍵の授与は、ここで実際に行為として描写されているわけではなく、あくまで、イエス様自身の意志・意向の表現です。ですから、この絵画も、実際の授与ではなく、イエス様の思いを具象化したものと言えます。
 ここの聖書箇所の「鍵」はギリシャ語原文では「クレイダス」で「クレイス(鍵)」の複数形で、英語の聖書ではkeysでした。ペルジーノの絵画でも2つの鍵が描かれ、イエス様がペトロに手渡しているのは金の鍵、これは天国の門を象徴し、もう一つの銀の鍵は地獄の門を示すと言われています(指で示す)。別の説では、2つの鍵は一方がユダヤ人のため、もう一方は異邦人のためという解釈もあるようです。
 これらのことを弟子たちに語った後、イエス様は「自分がメシアであることを誰にも話さないように」と弟子たちに命じられました。
 こういう箇所でした。

 本日の箇所を通して、イエス様が私たちに伝えていること、そして、求めておられることは何でしょうか?
 それには先ほどお読みしました本日の使徒書、ローマの信徒への手紙11:33-36が関係していると考えます。33節にこうあります。
『ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。神の裁きのいかに究め難く、その道のいかにたどり難いことか。』
 36節はこうです。
『すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。』
 ここでは、使徒パウロが「神の富と知恵と知識」の深さに対する、また、神の裁きと神の道の究めがたさに対する驚嘆を述べています。そして、すべての原因であり(神から出て)、すべてを造り(神によって保たれ)、すべてをそこへと導く(神に向かって)神の絶対的な支配を高らかに謳い上げています。そして神の偉大さを賛美し、その栄光が永遠に続くよう祈っています。
 私たちは自分の力で富を得、知恵を持ち生き方を決定しているように思いがちですが、実は、すべてのことは神の力によって生まれ、保たれ導かれているのであります。

 今日の福音書でペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をして、イエス様は「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である。」とおっしゃっています。
 私たちは信仰を自分が求め得たと考えがちですが、実はそれも天の父なる神様から与えられたものなのであります。
 今日の箇所でイエス様が私たちに伝えていること、それは、すべてのことは神の力によって生まれ導かれており、イエス様を「生ける神の子キリスト」と告白する信仰も神様から与えられ、そう告白する人々の上にイエス様が教会を建てたということではないでしょうか?
 そして、私たちに求めておられることは「天におられる私の父があなたに現した」というイエス様の言葉を心に留め、神様から与えられた信仰に生きることではないでしょうか?

 冒頭、私は現在もコロナの後遺症がある話をしましたが、二週間前の13日(日)の夕方から三昼夜にわたり高熱にうなされました。特に深夜になると熱が上がり(13日は40.1度、14日は39.6度、15日は38.7度)。16日(水)にやっと37度台になり、医者に行くことができました。
 13日の深夜、不思議な体験をしました。熱が40時を越したと思われる頃、10歳の時に死別した母がそばにいるような気がしたのです。顔はよく分からないのですが、シャツをめくりお腹を見せました。そこには魚を食べた後の骨のような手術の跡がくっきりとありました。そして高熱でありますが、淡い光に包まれて法悦というか、苦しみというよりも不思議な喜びに満たされたような感覚がありました。熱が下がるにつれて母の姿は見えなくなりましたが、死者の領域にも神の愛、神の支配は届くということを思いました。
 
 皆さん、私たちの富も知恵も生き方も、すべてのことは神の力によって生まれ、保たれ導かれています。イエス様を「生ける神の子キリスト」と告白する信仰も神様から与えられたのです。まさに、信仰は神の恵みであります。
 また、教会はイエス様によって「主イエスをメシア、生ける神の子と信じる信仰」の上に建てられました。イエス様はそこに天の国の鍵も授けられました。神の支配は死者の領域にも及んでいます。絶えることのない助けをもって主の教会を清め守ってくださるよう、そして生涯主の言葉を心に留め、神様から与えられた信仰に生きることができるよう、祈り求めて参りたいと思います。

   父と子と聖霊の御名によって。アーメン

『トルストイ「イワン・イリッチの死」に思う』

 個人的なことになりますが、8月13日(日)の夕方から発熱があり、抗原検査をすると「陽性」でした。その夜から3日間発熱が続き、特に深夜に高熱が出ました(13日は40.1度、14日は39.6度、15日は38.7度)。16日(水)にやっと37度台になり、医者に行くことができました。その後は急速に熱は引きましたが、未だ咳が止まらず、体調は完全ではありません。
 20日の礼拝はそのように体調に不安があり司式・説教をできる状況になかったので、前橋の教会の担当でしたが他の聖職にお願いしました。
 
 熱が下がって横になりながら、時間がとれたら読もうと思っていた本を読むことにしました。トルストイ、晩年の中編「イワン・イリッチの死」です。黒澤明の映画「生きる」の原作としても知られています。この本は、最近はアメリカの病院チャプレンの継続研修の資料となっているそうです。
 私が読んでいるのは、この米川正夫訳の岩波文庫版です。

 この文庫版の表紙にある作品紹介はこうです。
『一官吏が不治の病にかかって肉体的にも精神的にも恐ろしい苦痛をなめ、死の恐怖と孤独にさいなまれながらやがて諦観に達するまでの経過を描く。題材は何の変哲もないが、トルストイ(1828‐1910)の透徹した人間観察と生きて鼓動するような感覚描写は、非凡な英雄偉人の生涯にもましてこの一凡人の小さな生活にずしりとした存在感をあたえている。』
 実際に読んでみると「諦観に達する」とは必ずしも言い得てはいないと思いました。私の目からこの本を見つめてみたいと思います。

 「イワン・イリッチの死」のあらすじはこのようです。
『裁判所判事イワン・イリッチが死んだ。彼は頭がよく、順調に出世街道を駆け上がる人物だった。また、収入を重視する俗物だった。打撲がもとで内臓系の病気になり、苦痛にのたうちまわる。その中で自分の人生が虚飾だったことに気づく。
 肉体的な苦しみもそうだが、それ以上に理解されない精神的な苦しみが大きかった。そして最後の捜し物をする。結果としてこのように思い当たる。
「私の人生は、なにもかも間違っていた、だがかまわない、なすべきことをすることはできる」
 彼は息子と妻を憐れみ、そのことによって救われる。
「なんと簡単なことだろう。では、死は? 死はどこだ?」
(以下引用P.102)
 彼は古くから馴染みになっている死の恐怖を探してたが、見つからなかった。いったいどこにいるのだ? 死とはなんだ? 恐怖はまるでなかった。なぜなら、死がなかったからである。
 死の代わりに光があった。
「ああ、そうだったのか!」彼は声にたてて言った。「なんという喜びだろう!」(~中略~)
「いよいよお終いだ!」誰かが頭の上で言った。
 彼はこの言葉を聞いて、それを心の中で繰り返した。「もう死はおしまいだ」と彼は自分に言い聞かせた。「もはや死はなくなったのだ。」
 彼は息を吸い込んだが、それも中途で消えて、ぐっと身を伸ばしたかと思うと、そのまま死んでしまった。』

 これだけ読むと単純な物語のように思えるかもしれませんが、実際は紆余曲折があり、まるでキューブラー・ロスの「死の瞬間」のように「なぜだ? なぜ私に? 私の人生はこれで良かったのか? 私の何が良くなかったのだ?」などど自問自答が繰り返されます。
 職場でいかに地位や名誉を得ても、それは死を前にしては何の解決も与えません。では、死を前にした人が求め、必要なことは何でしょうか?

  この小説では3つのことが描かれていたと思います。
 一つは、病を得て仕事の同僚や家族からも疎まれたイワン・イリッチが心をゆるし信頼を置いた使用人、ゲラーシムの対応や発想です。彼は、体の動かなくなったイワン・イリッチのトイレを含めた身の回りの世話を厭わずやっていました。「堪忍してくれ」というイワンに対して、ゲラーシムは「骨折るなあ当たり前じゃございませんか。なにしろ旦那はご病気なんですからね。」と言います。ゲラーシムだけがイワンの状況を理解して、彼を気の毒に思いました。そこでイワン・イリッチは、この男と一緒にいる時だけ気持ちがよかった、と記しています。「死」に対して、ある時、ゲラーシムは「何事も神様のお心でございますよ。誰だってみんな、あそこへ行くんでございますからね。」と言いました。さらに、P.72にこうあります。
『人間はみんな死ぬ者ですからね、骨折るなあ当たり前でがすよ。と彼は言った。それは自分がこうした労苦を厭わないのは、死にかかっている人間のためにしているからで、こうして置けばまた自分が死ぬる時にも、だれか同じ苦労をとってくれるかもしれない、といったような気持ちを現したものらしい。』 

    ゲラーシムの相手を理解しよう、相手の気持ちに寄り添った対応、自分がしてほしいことを人にもしようという発想こそが必要なことを伝えています。

 次に描かれていたのが、死の三日前の聖餐式についてです。これは妻の懇願により実施されました。P.97にこうあります。
『妻がそばへ来て言った。「Jean、後生ですから、わたしのためにしてちょうだいな。それはなにも害になるわけじゃありません。それどころか、かえってよく利くことがあるんですもの。」
 僧が来て懺悔の式を執り行った時、彼は気分が和らいで、なんとなく疑惑が軽くなり、したがって、苦しみも薄らいだように思われた。一瞬間、希望が彼を訪れた。彼は目に涙を受けながら聖餐にあずかった。
 聖餐式がすんで、床に寝かされた時、彼はちょっとの間、気分が軽くなった。そして、再び生きる希望が現れた。』
 死を目前とした時も、いやその時だからこそ、御聖体の果たす役割と力は大きいものがあるのだと気づかされました。

 最後は、家族のイワン・イリッチへの関わりです。この聖餐式と同じ頃、イワン・イリッチ夫妻が望んでいた相手が娘へ正式の結婚の申し込みをして、彼を安心させました。さらに死の二時間前に、中学生である息子が父の部屋にそっと忍び込んで、寝台のそばへ寄りました。P.100にこうあります。
『瀕死の病人は絶えず自暴自棄に叫び続けながら、両手を振り回していた。ふとその片腕が中学生の頭に当たった。中学生はその手をつかまえて、自分の唇へもってゆくと、いきなりわっと泣き出した。
 ちょうどその時、イワン・イリッチは穴の中へ落ち込んで、一点の光明を認めた。そして、自分の生活は間違っていたものの、しかし、まだ取り返しはつく、という思想が啓示されたのである。彼は「本当の事」とは何かと自問して、耳傾けながら、じっと静まりかえった。その時、誰かが自分の手を接吻しているのを感じた。彼は目を見開き、わが子のほうを見やった。彼は可哀想になってきた。妻がかたわらへ寄った。彼は妻を見上げた。妻は口を開けたまま、鼻や頬の涙を拭こうともせず、絶望したような表情を浮かべながら、じっと夫を見つめていた。彼は可哀想になってきた。
 すると、突然はっきり分かった。-今まで彼を悩まして、彼の体から出て行こうとしなかったものが、一時にすっかり出て行くのであった。四方八方、あらゆる方角から。妻子が可哀想だ。彼らを苦しめないようにしなければならない。彼らをこの苦痛から救って、自分も逃れなければならない。』
 最愛の息子の愛の行為である接吻が一点の光明となりました。そして、妻の慈しみから来る涙が彼の家族への思いやりを生み出したのです。それが彼の中から出て行ったのです。

 死を前にした人に必要なことは、シンプルなことと思われるかもしれませんが、家族や周りにいる人が寄り添い愛の行為を行うこと、そして宗教の存在であると私は思います。思い浮かべた聖句があります。
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイによる福音書7章12節)
 いわゆる黄金律(ゴールデン・ルール)ですが、この節の前に「天におられるあなたがたの父は、求める者に良い物をくださる。」とあり、神の恩寵が先にあることを忘れずにいたいと思います。
「自分がしてほしいことを人にもしよう」という発想こそ、人が人生を歩むときも、死を前にしても、最も重要なもののと考えます。
 トルストイ作「イワン・イリッチの死」から、このようなことを思い巡らしました。