マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎節第5主日 聖餐式『一粒の麦によって生かされる』

 本日は大斎節第5主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、、エレミヤ書31:31-34、詩編51:1-12、ヘブライ人への手紙5:5-10、ヨハネによる福音書12:20-33。説教では、神は私たちのために一粒の麦であるイエス様を十字架に上げ、神とつながる永遠の命を与えてくださったことを理解し、十字架で亡くなり復活し、今は御聖体の中で生きて働いておられるイエス様に感謝して生かされるよう祈り求めました。
 本日の福音書箇所と関係する聖歌251番の歌詞及び当教会の聖餐式に参列されていた牧師さんからの手紙を活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は大斎節第5主日です。そして、次の主日は復活前主日・棕櫚の日曜日です。大斎節も終盤になりました。第5主日は、いよいよ十字架の接近を思わせる箇所が福音書として選ばれています。
 本日の福音書箇所はヨハネによる福音書12:20-33です。本日の箇所をまとめれば次のように言うことができると思います。
『イエス様が十字架に架かる週の月曜日、祭りのためにエルサレムに上って来た人々の中に、異邦人である何人かのギリシア人がいて、「イエス様にお目にかかりたい」と言って来ました。イエス様の答えは、「地に落ちて死」ぬ一粒の麦のようにイエス様が十字架で栄光を受ける時、すべての人を自分のもとに引き寄せる、つまり、異邦人を含むすべての人が「イエス様にお目にかかることができる」ということでした。』

 本日の箇所で、イエス様はご自分の使命を一粒の麦にたとえて語られました。24節です。
「よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
 麦が地に落ちて死ねば(朽ちれば)、多くの実を結びます。そのように、イエス様の死も多くの人に命をもたらすというのです。そしてそのことをこう言い換えています。25節です。
「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。」
 これはどういう意味でしょうか? ここに「命」という言葉が3回出てます。聖書のギリシア語では、「命」には2つの言葉があります。最初の2つ「自分の命を愛する者は」と「この世で自分の命を憎む者は」の「命」は、プシュケーという言葉で、本来、「息」を示し、地上の命を表します。それに対して、3つ目の「永遠の命に至る」の「命」は、ゾーエーという言葉で、霊的な、永遠の命を表しています。自分の命(プシュケー)を「愛する(アガパオー)」とは、地上の命に固執し、それを自分のために使おうとする自己中心的な生き方です。それに対して「憎む」とは、利己的な願いを優先せずに、この世で与えられた時間を「永遠の命(ゾーエー)」のために捧げる生き方と言えます。 26節で、「私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。」とありますが、この「仕える」はディアコネオーという「食卓に奉仕する」という言葉です。つまり、食卓で仕えるように細やかに仕える。そのようにイエス様に仕えることが勧められています。さらに言えば、そのような奉仕は、最後の晩餐を指し示す主の食卓に捧げられます。
 このように、イエス様の十字架にならい自分を捨ててイエス様に仕える者はイエス様の「いる所」にいて、父なる神様も「大切にしてくださる」というのです。
 このことは、本日の使徒書、ヘブライ人への手紙の 5章9節・10節にあるとおりです。イエス様についてこう言っています。
「そして、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人々にとって、永遠の救いの源となり、神によって、メルキゼデクに連なる大祭司と呼ばれたのです。」 

 では、十字架に架かり復活したイエス様は、今、私たちのうちにどう働いておられるでしょうか? 私はそれを、今行っている聖餐式の御聖体に見いだします。イエス様は御聖体として私たちに食べられ、一度死んで、しかしそれにより私たちの栄養となり永遠の命をもたらすのであります。
 この後の陪餐後に歌う聖歌をご覧ください。聖歌第251番です。

 1節にこうあります。
「カルバリの木にかかり わが罪を贖える
 深い愛 思いつつ われら今 主の前に
 喜びの食卓を 囲みて ともに祝う」
「カルバリ」はラテン語で、ヘブライ語では「ゴルゴタ」、イエス様が十字架にかけられた丘の名前です。この節では、私たちの罪を贖うために十字架にかかられたイエス様の深い愛を思って、今聖餐に与るために聖卓を囲む喜びを歌っています。4節はこうです。
「いつくしみ深き主よ み座近く われを召し
 とこしえに待ち望む 命の糧 与えて
 悪を捨て 喜びて つねに主におらしめよ」
 この節では、慈しみ深い主イエス様に、近くに呼んで永遠の命の糧を与え、ずっと共にいてください、と祈っています。
 イエス様は御聖体に姿を変えて私たちに食べられ、私たちの中で溶け、私たちの中にずっといてくださるのです。

 ところで、先日、当教会の聖餐式に参列しておられたT・S牧師さんから、私とマッテア教会の皆さん宛に手紙をいただきました。聖体拝領と交わりに感謝する内容でした。抜粋ですが、お読みします。
『(前略)聖餐式でみ座に近づき、御聖体に与るとき、私は、いつも心がわなわなと震え出すのを覚えます。やがて、私の意思に反して目から涙が溢れ出し、嗚咽がやまなくなります。私としては不覚です。しかしどうすることもできません。きっとこれは聖霊のなせる業です。教団の教会ではこのような経験をしたことがありません。カトリック正教会、そしてアルメニア正教会の礼拝にも出席しましたが、御聖体に与ったことさえありません。不思議なことです。
 このとき私の心は、喜びとも悲しみとも言い難い感情の高まりに包まれています。私にはこれがどのような類いの感情であるか分かります。それは、罪赦された者のこころにあふれる感情であり、父の許に帰った放蕩息子の心にあふれた感情です。そして司祭によって「皆この杯から飲みなさい、これは罪の赦しを得させるようにと、あなたがたおよび多くの人のために流すわたしの新しい契約の血です。」と御言葉が語られるとき、古い自分が過ぎ去り、聖霊の宮としての新しい自分が生き始めていることを深く覚えます。このとき私の心が、主の臨在をさやかに感じているかと言えばそんなことはありません。しかし、この世の塵芥でいつの間にか汚れていた心が、流した涙の後に清められているのを覚えるとき、私は、主が共におられて私を癒やしてくださったことを知らされるのです。(後略)』
 普段何気なくいただいている御聖体について、新たな示唆が与えられた思いです。御聖体はかくも偉大な恵みなのだと思わされました。 

 皆さん、神様は、私たち一人一人が生きてこの地上にあるこの時から、永遠という命(ゾーエー)でつないでいてくださっています。死んで初めて永遠の命に結ばれるのではありません。私たちは今日もう既に、永遠という命に結ばれているのです。
  イエス様はご自分に従うことを求めておられます。そうすれば私たちはイエス様のところにいることができるのです。さらに御父である神様は私たちを大切にしてくださるのです。
 神様は私たちのために、一粒の麦であるイエス様をこの世に遣わし十字架に上げ、それによって私たちに神様とつながる永遠の命を与えてくださいました。十字架で亡くなり復活し、今は御聖体の中で生きて働いておられるイエス様に感謝して生かされるよう、祈り求めたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン