マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第 22主日 聖餐式『神と隣人を愛する秘訣』

 本日は聖霊降臨後第 22主日。前橋の教会で聖餐式に預かりました。聖書箇所は、出エジプト記22:20-26 、詩編1とマタイによる福音書22:34-46。
説教では、「神と隣人を愛する」ことが最も重要な戒めであり、そうできるのは神が先に私たちを愛してくださっており、その秘訣は「祈り」にあることを知り、その神に感謝し、隣り人の僕となれるよう、主の導きを祈り求めました。
 髙橋宏幸主教から届いたパレスチナの地のために共に祈るよう呼びかけたメッセージや入堂で歌った聖歌489番「心を尽くして」の内容等についても言及しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 イスラエル軍によるパレスチナガザ地区への空爆は止む気配はありません。戦車部隊による地上作戦も部分的に行われているようです。ガザでは停電が続き携帯電話も使えず、水や医薬品が不足しライフラインが限界に近づいています。
 そのような折り、髙橋主教様からメッセージが届きました。受付で取っていただいた文章をご覧ください。主教様は現在のこの戦争で引き起こされていることを他人事として見過ごせない、悲しみと悔い改めの心を持ちたい、と語り、犠牲となった方々の魂の平安と聖地の回復、命のつながりが生み出されるよう一緒に祈り続けることを願っておられます。私たちは、先週から礼拝でカンタベリー大主教の「聖地の人々のための祈り(私訳)」を「ウクライナのための祈り」に替えて、特祷で捧げています。私はこの祈りを毎日の「朝の祈り」でも捧げていますが、皆さんもこの祈りを日々の祈りに加えてほしいと思います。
 また、受付にパレスチナイスラエルのための募金箱を用意しました。集ま
った献金をこれまでも献げていた「国境なき医師団」へ送ります。「国境なき
医師団」は医師、約100人をガザ地区に派遣しています。その中には、3人の
日本人医師も含まれています。

 さて、本日の福音書の箇所はマタイによる福音書22章34-46節です。イエス様とファリサイ派の人々との2つの論争が取り上げられています。前半は最も重要な戒めについて、後半はダビデの子についての問答です。今回は前半について考え、特に、「イエス様のおっしゃる最も重要な戒めとは何か」、「その戒めはどうすれば実行できるか」ということについて思い巡らしたいと思います。

 本日の福音書箇所の前半は次のような内容です。最初にこうあります。
ファリサイ派の人々は、イエスサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。」
 ファリサイ派サドカイ派も当時のユダヤ教の指導者ですが、ファリサイ派は、「ユダヤ教の律法を厳格に解釈し、それに全力で忠実であろうとした人々」で、サドカイ派は「祭司の家系に連なる裕福な上流階級で、エルサレムの神殿を中心に活動していた人々」です。祭司階級であるサドカイ派がイエス様に言いくるめられたと聞いて、律法を守ることに忠実なファリサイ派が集まり、その中の律法の専門家がイエス様に論争を仕掛けようとし、こう尋ねました。
「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか。」
 これはイエス様を陥(おとしい)れるための質問です。当時613という多くの戒め(律法)があったと言われています。もしイエス様が、ある一つの律法を重要視したら、彼らは「イエスは他の律法をないがしろにしている」と非難しようとしていたと考えられます。それに対するイエス様の返答はこうでした。37節から39節です。
「イエスは言われた。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」
 イエス様は、サドカイ派旧約聖書の中でもモーセ五書と言われる最初の5つの書物だけを正典としていることに配慮して、第1の戒めは申命記6章4節、第2の戒めはレビ記19章18節を引用して答えました。第1は人間存在の全てをかけて「神を愛しなさい」、第2は自分のことのように「隣人を愛しなさい」と。
 この「愛しなさい」のギリシャ語は「アガパオー」の二人称・単数・未来形でした。「アガパオー」には「愛する」のほか「尊重する・慕う」、「行為によって愛を実証する」などの意味があります。この箇所は「愛しなさい」という命令ではなく「あなたは愛するだろう」と言っているのです。英語の聖書(NRSV)でも、「You shall love~」とありました。
 続く40節はこうです。
「この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。」
 「律法全体と預言者」というのは、一つの慣用句で「旧約聖書全体」を表しています。ドアが蝶番(ちょうつがい)にかかっているように旧約聖書全体は二つの戒めにかかっている、つまり「神を愛し隣人を愛する」という戒めに基づいているというのです。
 イエス様は、「神を愛し隣人を愛する」という戒めが最も重要であるとおっしゃいました。どんな細かい戒めを守っても「神への愛と隣人への愛」というところに立脚しないなら、律法を守ること自体が崩れてしまいます。律法の中に重要度のようなものはなく、聖書すべてが「神を愛し隣人を愛する」という目的のために書かれているというのです。
 
 本日の福音書で「イエス様のおっしゃる最も重要な戒め」とは何でしょうか? いうまでもなく、「神を愛し隣人を愛する」という戒めです。この2つの戒めに順番はありません。2つの戒めは「同じように重要である」とイエス様はおっしゃっています。神を愛することと、隣人を愛することは別のことではなく、車の両輪のように1つのことなのです。先ほど読んでいただいた本日の旧約聖書出エジプト記22章でも、隣人、特に寄留者や寡婦や孤児等の弱者への愛の行動が命じられています。隣人とは自分の身近な人、家族や近所の方、同僚や友人、さらに世界の支援を必要としている人々等、私たちが関わるすべての人たちです。そして、私たちが彼らに愛の行動を行うのは「私は憐れみ深いからである」(26節)という神様の属性に基づいています。私たちが「神を愛し隣人を愛する」ことができるのは、まず最初に神様が私たちを愛してくださっているからです。だから「あなたは愛するだろう」とイエス様はおっしゃるのです。つまり、神様の愛が、その戒めを実行できる源泉(みなもと)なのであります。

 では、「神を愛し隣人を愛する」という戒めはどうすれば実行できるでしょうか?  それには、本日の礼拝の入堂で歌った聖歌489番「心を尽くして」が参考になると考えます。この聖歌489番をご覧下さい。本日の福音書の言葉がそのまま最初の歌詞になっています。2節に、「神の愛受けて 隣人愛せ」とあるように、まず神の愛を受けることが先にあり、その後隣人を愛するよう促されています。そして、4節で私たちのなすべきことが示されています。それは「神をあおぎみて 人と出会う」ことです。それが「神を愛し隣人を愛する」であると考えます。その時に「十字の真中の主イエスがおられる」のです。このように、歌の最後は十字架のイエス様が私たちの真ん中におられることで終わっています。まるで祈りの最後の言葉、例えば「主イエス様によってお祈りいたします」のようです。「祈る」はギリシャ語では「プロセウコマイ」と言いまして、「プロス(前に)+エウコマイ(置く)」という意味です。それは「十字の真中におられる主イエス」様の前に身を置くことです。そして、イエス様を見つめイエス様に見つめていただくのです。ここに「神を愛し隣人を愛する」という戒めを実行する秘訣があるように思います。つまり、イエス様の前に身を置くという「祈り」によってそれは実行できるということです。

 世界の聖公会の霊的指導者であるカンタベリー大主教ジャスティン・ウェルビー師父は10月20日から4日間、エルサレムを訪問し、聖墳墓教会等で他教派の聖職者と共に祈りを献げました。最終日には、エルサレム聖公会のホサム・ナウム主教との共同ガザアピール書簡が発表されました。日本語訳を冒頭お話しした高橋主教様のメッセージの裏に印刷しましたので、後ほどお読みください。そして、カンタベリー大主教facebookによれば、カンタベリー大主教は今、ローマにいて、ローマ教皇や様々な教派の聖職者と共に聖地と世界の平和のために心を込めて祈りを捧げておられます。それは「神を愛し隣人を愛する」行為であると考えます。

 皆さん、イエス様は「神と隣人を愛する」ということが最も重要な戒めであるとおっしゃっています。そして、私たちがそうできるのは神様が先に私たちを愛してくださっているからであり、そうできる秘訣は心を込めた「祈り」にあります。その神様に感謝し、隣り人の僕となれるよう、主の導きを祈り求めて参りたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン