マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第15主日『イエス様と共に「神の戒め」を行う』

 本日は 聖霊降臨後第15主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、申命記4:1-2・6-9、 詩編15、ヤコブの手紙1:17-27及びマルコによる福音書7:1-8・14-15・21-23。説教では、「昔の人の言い伝え」に固執するのでなく、主イエス様が共に歩んでくださるので「神を愛し、人を愛する」という「神の戒め」を行うことができることを知り、それを守り実行するよう聖霊の導きを祈りました。
 テーマと関連するバプテスト教会の新生讃美歌第570番「たとえば私が」を本田路津子のCD「マイポートレイトⅡ-足跡-」から聞きました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第15主日です。先週まで5週にわたりヨハネによる福音書を続けて読んできましたが、今週からマルコによる福音書に戻ります。
 本日の福音書箇所は、ただいまお読みしましたマルコによる福音書第7章1節以下です。この箇所の直前(6章の後半)では5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与え、湖の上を歩いて舟をこぎ悩んでいた弟子たちに近づき、さらに、ガリラヤ湖を渡り、その北西部であるゲネサレトの地で多くの病人を癒やしたイエス様の姿を伝えています。そして、本日の箇所になります。

 この箇所は、昔の人の、すなわちユダヤ教の「言い伝え」に対するイエス様の批判(1-8節)と旧約聖書の食物規定に対するイエス様による廃棄(14-23節)から成っています。
 ここでは、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、はるばるエルサレムからイエス様のところにやってきて(1節)、イエス様の弟子たちの中の何人かが、汚れた手で、つまり手を洗わないで食事をしているのを見つけ(2節)、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(5節)と尋ねます。
 新型コロナウイルスの感染を経験した私たちは、かつてより丁寧に手洗いをしています。そうでなくても食事前に手を洗うということは、子どもの頃から教えられていて、常識になっています。しかし、ここで、ファリサイ派や律法学者が問題にした「弟子たちが手を洗わないと言って非難した理由」は、そのような衛生的な考えや知識からではありません。
 当時のユダヤ人が、食事前に手を洗わない人を非難する理由は、「宗教的な理由」から来たものでした。それは、異教徒や罪人たちは「汚れている」という差別的な考えが強く、異教徒や罪人が触ったもの・彼らが神に供えたもの・使ったものなどに、どこかで触れているかも知れない、それが手から口に入ると自分たち自身も汚れてしまうと、言い伝えられ、不浄を洗い落とすため、ということが理由でした。このような「言い伝え」が、「しきたり」となり、宗教的な汚れや儀式的な汚れを恐れ、「念入りに手を洗ってからでないと食事をしない。また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、水差し、銅の器や寝台を洗うことなど」(3・4節)と、どんどんエスカレートしていき、このような「言い伝え」を熱心に守っている人が正しい人・信仰深い人なのだと考えられていました。それだけではなく、手を洗わない人を非難し、彼らを排斥しようとしたのでした。
 これに対して、イエス様は、彼らに言われました。(6・7節)
「イザヤは、あなたがた偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は唇で私を敬うが その心は私から遠く離れている。空しく私を崇め 人間の戒めを教えとして教えている。』
 これは、イザヤ書29章13節から引用された言葉です。
 少し解説しますと、ユダヤ人たちが守っている「昔の人の言い伝え」は旧約聖書に書かれた律法のことではありません。紀元前5世紀の中頃に初期ユダヤ教が誕生し、律法遵守が強調されるようになり、遵守のための細則が作られるようになりましたが、これらの細則の集積が「昔の人の言い伝え」と呼ばれる口伝律法です。神は、預言者イザヤを通してこの細かな規則である「昔の人の言い伝え」を「人間の戒め」として批判しています。それを大事にするばかりに、神の心から遠く離れているからです。なお、ここで「心」と訳されたギリシャ語は「カルディア」、イザヤ書におけるヘブライ語は「レーブ」です。英語の聖書では「heart」とありました。旧約の時代から心(heart)の在り方が大切にされていたのです。
 福音書に戻りますが、イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちにこう言いました。(8節)
「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
 ここで、イエス様は「昔の人の言い伝え」を「人間の言い伝え」と呼び、それが神の戒めを捨てさせる原因を作り出していると批判しています。細かな規則に固執するばかりに「神の戒め」に示された神の心を忘れ去っているからです。

 14―15節ではイエス様の相手は群衆に替わります。イエス様は「人を汚すのは、人の外からではなく、人から出る」と教えました。イエス様は「清め」の問題を祭儀的な観点からではなく、人間の心のあり方へと深めています。
 また、21―23節では、イエス様は、人の心(カルディア)にある「悪い思い」が言葉や行為となって表れてくるとして、合計12のものがリストアップされています。前半の6つは、複数形の名詞で「淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意」であり具体的行為を示し、後半の6つは、単数形の名詞で「欺き、放縦、妬み、冒瀆、高慢、愚かさ」であり心の在り方を示しています。ここでも「心(カルディア)」が強調されています。
 このことは先ほど福音書前に歌った聖歌473に表れています。この聖歌の1節に「見つめます 心から」、2節に「語ります 心から」とあり、3節では「この心は あなたから授けられた宝物」とあるように「心(heart)」の大切さを歌っています。

 本日の福音書では、8節でイエス様は「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」と主張しています。
 これは、当時のファリサイ派の人々や律法学者たちだけではなく、現代の私たちにも向けての言葉ではないでしょうか? 
「昔の人の言い伝え」は大切ですが、その細かな規則(マニュアル)ばかりに目を奪われ、それを守りさえすればいいと考え、それができた本来の意味を忘れてはならないと思います。私たちが守り実行すべきものは「神の戒め」であります。では「神の戒め」とは何でしょうか? 
 イエス様は、その意味することを集約して教えておられます。それは、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マルコ12:30)、そして「隣人を自分のように愛しなさい。」(マルコ12:31)ということです。つまり、「神を愛し、人を愛する」ということです。                                                   

   では、私たちがそうできる原動力は何でしょうか? それは、主イエス様が私たちと共にいて、共に歩んでくださるからです。
 本日の旧約聖書申命記4:7に「私たちの神、主は、私たちがいつ呼びかけても近くにいてくださる。」とある通りです。
 このことをよく表している聖歌・讃美歌があります。それは、私たちの聖歌集にはないのですが、受付で楽譜を取っていただいたバプテスト教会の新生讃美歌第570番「たとえば私が」です。今日は、本田路津子のCD「マイポートレイトⅡ-足跡-」から聞いていただきたいと思います。

 この歌は、有名な「Footprints(足跡)」の詩を思い起こさせます。歌詞をご覧になりながらお聞きください。
https://music.youtube.com/watch?v=-mXmweD-tkM&list=RDAMPLLM

1.たとえば私が歩けなくなっても 私を背負ってともに歩いてくれる
  たとえば私が道をはずれても 私とともにいてそこを歩いてくれる
  ※ともに生きる喜び かみしめながら歩いていく 
   私のそばにはいつも もう一つの足跡
2.たとえば私が涙を流す時 ともに涙流し悲しんでくれる
 たとえば私が一人になっても 私を慰め励ましてくれる
 ※繰り返し
3.イェス様とともに歩き出す時に あなたも気づくだろうもう一つの足跡
 砂の上に続く二人の足跡は あなたとイェス様の足跡なのです
 ともに生きる喜び かみしめながら歩いていく
 あなたのそばにはいつも もう一つの足跡

 この讃美歌では、次のことが歌われています。私たちが人生の中でつらく苦しい時、私を背負って共に歩いてくださるイエス様。私たちが涙を流すとき、共に涙を流し悲しんでくださるイエス様。そのイエス様と共に生き共に歩むのが、私たちの信仰生活であるということです。

 この讃美歌を作詞・作曲したのは、野中広樹さんという佐賀県鳥栖(とす)キリスト教会の牧師です。野中牧師さんは、大学4年生の時にこの讃美歌を作詞・作曲したそうです。
 野中牧師さんは、これまでバプテスト連盟・阪神淡路大震災現地支援委員会の委員長として被災者支援活動に携わり、現在日本バプテスト連盟公害問題特別委員会委員であり、玄海原子力発電所の反対運動、差し止め訴訟原告に関わっています。また、鳥栖市内においてホームレス支援及び「子ども宅食」活動、生活困窮者などの支援活動を行っているそうです。
 この野中牧師さんの行っている運動や活動の基にあるのは「神の心」であると考えます。そして、それは「神を愛し、人を愛する」という「神の戒め」の実践であり、それを支えているのは、この讃美歌のように「イエス様が共にいて共に歩んでくださる」ということだと思います。

 皆さん、私たちも神の心を忘れず、「神の戒め」を守り実行していきたいと願います。それができるのは「主イエス様が私たち共にいて共に歩んでくださる」からです。そのことに感謝し、私たちは、それぞれに託された使命を果たして「神を愛し、人を愛する」ことを実践して参りましょう。「神の戒め」は私たちを縛るものではなく、私たちを生かすものであることを知り、それを守り実行することができるよう、聖霊の導きを祈りたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン