本日は 聖霊降臨後第17主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、イザヤ書50:4-9a、詩編116:1-9、ヤコブの手紙3:1-12及びマルコによる福音書8:27-38。説教では、イエス様の弟子とは、自分を捨て自分の十字架を負ってイエス様に従う者であることを知り、生涯、主イエス様に従って信仰生活を送ることができるよう祈り求めました。
「主イエス様に従う」ことで、思い浮かべた「I will follow him」というペギー・マーチのヒット曲をCDで聞き、活用しました。
説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は聖霊降臨後第17主日です。本日の福音書はマルコの8:27-38です。この箇所は3つの部分から構成されています。第一はペトロがイエス様のことを「あなたはメシア(救い主)です」と」告白する部分(27-30節)、第二は、イエス様が弟子たちに「救い主」とは何を意味するのか、教えた部分(31-33節)、第三はイエス様が弟子たちと群衆に、イエス様の弟子であるとはどういうことなのか、話す部分(34-38節)です。
本日の箇所の中心的テーマは「イエス様とは何者か」そして「イエス様の弟子であるとはどういうことか」という問いかけであります。
イエス様については、洗礼者ヨハネだとか、エリヤだとか、当時もいろいろな考えや噂がありました。イエス様が宣教活動をしていた時代も、マルコの福音書が書かれた時代でも、「イエス様とは何者か」という議論があったと考えられます。本日の箇所ではペトロが弟子を代表して「あなたはメシアです」と言いました。そうすると「イエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと」、ペトロはメシア(救い主)だと言ったのですが、それを「誰にも話すな、秘密にしておけ」と不思議な命令をしました。いわゆる「メシアの秘密」と言われるものです。
なぜ、イエス様はそのような命令をされたのでしょうか?
これは、当時のユダヤの人々が何を期待していたのかということと関係すると思います。ユダヤ人は自分たちを救ってくれるメシアをずっと待っていましたが、イエス様が現れて病人を癒したり、パンを増やしたり、奇跡を行うので、皆、この人がメシア(救い主)だと思ったのです。
しかし、彼らが考えていたメシアと、イエス様がメシアであるということの意味が全く違いました。簡単に言うなら、ユダヤ人たちはイエス様を目に見える幸せをもたらしてくれる方、現世御利益的なメシアであると思ったのです。でも、本当のメシアは違います。イエス様がメシアであるということは、もっと深い意味があるのです。
この福音書から言うなら、31節にあるように「多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活する」、そのようなメシアです。いかにもメシアらしくないメシアです。科学の進んだ現代に生きる人にとって理解しがたいメシアですが、当時のユダヤの人々にとってもそうでした。イエス様はペトロでさえ「十字架に上るメシア」ということを理解していない状況で、人々にこの世のメシア(救い主)と誤解されることが予想されたので、「誰にも話さないように」命令をされたのだと思います。
この後は「イエス様の弟子であるとはどういうことか」という話が続きます。「本当の弟子はどうするのか」ということです。
34-35節にこうあります。
『それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである。』
弟子に加えて群衆を対象に、つまり、私たちすべての人間に向かってイエス様はこの言葉を発せられています。
34節の「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」というイエス様の言葉を直訳すると「もし誰かが私の後ろに従うことを欲するなら、彼は彼自身を否定しなさい。そして彼の十字架を彼は運びなさい。そして彼は私に従いなさい。」となります。
ここには、イエス様に従う弟子の取るべき態度が示されています。イエス様の後ろに立って、後に従いたければ、自分を「否定して」、十字架を「運び」、イエス様に「従う」者とならなければならない、というのです。弟子は、イエス様を否定せずに、むしろ自分を否定し、自分の望みを捨てて、十字架を負い、イエス様に従うのであります。ここでの「十字架」とは人間の常識からかけ離れた「神の思い」のことです。
そして、もう一つ、この御言葉で重要なところがあります。
それは、イエス様が言われた「私の後に従いたい者は」というところです。これは、ギリシヤ語で「オピソー・ムー」とあり、「私の後ろに」という意味です。英語の聖書では「after me」とありました。
この個所の直前に、こんなやり取りがありました。イエス様が「排斥され殺され三日後に復活する」ことを弟子たちにお話しになり、弟子たちはそれを理解できずペトロがイエス様をいさめ、それに対しイエス様がペトロを叱って「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」と言われたところです。ここで「引き下がれ」と訳されている言葉も、実は、「オピソー・ムー」なのです。「私の後ろに行け」なのです。
イエス様が望まれているのは「イエス様の後ろに行く」こと、つまり「イエス様の後に従う」ことです。「私に従いなさい」とイエス様は命じておられます。英語の聖書には「follow me」とありました。「主に従う」ということが、弟子としての在り方です。「十字架を負うこと=イエス様の後に従う」ことと言えます。
続く35節の「自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである。」の「自分の命」とか「福音のために命を失う者」の「命」はギリシャ語原文では「プシュケー」であり、「魂」や「自己」とも訳すことができる言葉です。私たちは自分の魂「自己」を救おうとするとそれを失い、イエス様のため、福音のため自分の魂「自己」を捨てると、イエス様が救ってくださるというのです。このように、一人一人の命(魂)を助けて下さる方がイエス様というメシア(救い主)なのであります。
ここで昔、ある人に教わった言葉を思い出します。それは「自己否定的自己貫徹」という言葉です。普通に考えれば、自己を否定すればその自己はないので自己を貫徹するというのは矛盾ですが、これはそういう意味ではありません。「自己否定的自己貫徹」とは、自分中心の魂(自己)を否定することによって、「神に従う・主に従う」というキリスト者としての自己の在り方を貫徹することができるということです。
34-35節で示された「自分を捨て、自分の十字架を背ってイエス様に従う者」「自分の命を救うのではなくて、福音のために命を失う者」、これが本日の福音書が伝える私たち弟子の生き方だと言えます。端的に言えば「主イエス様に従う」ということです。
「主イエス様に従う」ことで、思い浮かべる音楽があります。それは、「I will follow him」という曲です。受付で取っていただいたこの曲の歌詞をご覧ください。「I will follow him」は、1963年に14歳のペギー・マーチが歌い全米1位となったヒット曲です。
この曲はその後、1992年の映画『天使にラヴソングを(Sister Act)』のラストでシスターたちの聖歌隊が歌って、また話題になりました。今日はこの曲を、ペギー・マーチのオリジナル盤で聞いていただきたいと思います。歌詞をご覧になりながらお聞きください。
https://www.youtube.com/watch?v=iodfGifc3ZY
I will follow him (by Little Peggy March)
Love him, I love him, I love him
And where he goes, I'll follow, I'll follow, I'll follow
彼を愛する、彼を愛する、彼を愛する
そして彼が行くところ 私はついて行く、私はついて行く、私はついて行く
I will follow him Follow him wherever he may go
There isn't an ocean too deep A mountain so high it can keep me away
私は彼について行く 彼がどこへ行こうと、彼について
どんなに深い海 どんなに高い山も私を遠ざけられない
I must follow him Ever since he touched my hand, I knew
That near him I always must be And nothing can keep him from me
He is my destiny
彼について行かなくては 彼が私の手に触れたときから私には分っていた
彼の傍に私はいつもいるべきだと 何も私から彼を遠ざけられない
彼は私の運命
I love him, I love him, I love him
And where he goes, I'll follow, I'll follow, I'll follow
He'll always be my true love, my true love, my true love
From now until forever, forever, forever
彼を愛する、彼を愛する、彼を愛する
そして彼が行くところ 私はついて行く、私はついて行く、私はついて行く
彼はいつまでも私の真実の愛だろう、私の真実の愛、私の真実の愛
これからも、いつまでも、いつまでも、いつまでも
I will follow him Follow him wherever he may go
There isn't an ocean too deep A mountain so high it can keep, keep me away
私は彼について行く 彼がどこへ行こうと、彼について
どんなに深い海 どんなに高い山も私を遠ざけられない
Away from my love
私の愛から離れない
And where he goes I'll follow, I'll follow, I'll follow
I know I'll always love him I love him, I love him, I love him
And where he goes, I'll follow, I'll follow, I'll follow…
だから彼がどこへ行こうと 私はついて行く、私はついて行く、私はついて行く
分るの、私はいつまでも彼を愛すると 彼を愛する、彼を愛する、彼を愛する
だから彼がどこへ行こうと 私はついて行く、私はついて行く、私はついて行く...
この曲の「I love him」「I will follow him」の「him(彼))」は、キリスト者(クリスチャン)にとっては主なる神様のことです。
この曲をキリスト教の観点で訳すとこうなります。
『主を愛している そして主についていく 主の行かれる所ならどこへでも
どんな深い海も どんな高い山も 主の愛から引き離せはしない
主についていく 心に触れた日から分かっていた
この先ずっと主のみもとを何があっても離れない 主こそ我が運命
いつも主と共に 主の愛と共に
どこまでもついていく どこまでもついていく
主を愛している 主についていく
真実の愛、主はずっと変わらない真実の愛。
今も、そして永遠に 永遠に』
キリスト者にとってこの曲は、どのようなことがあろうとも、生涯、神様を愛し、主イエス様に従うという決意の歌と言えます。
皆さん、イエス様は私たちにも「イエス様とは何者か」、また「イエス様の弟子であるとはどういうことか」と問いかけておられます。私たちはこの問いに答え、「イエス様こそ私の救い主である」と告白し、「自分を捨て十字架を負ってイエス様に従う弟子」でありたいと願います。クリスチャンとは「キリストに従う者」という意味です。私たちは生涯、神様を愛し、主イエス様に従って信仰生活を送ることができるよう、祈り求めたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン