マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降臨節第2主日『神・イエスに向きを変える』

   本日は 降臨節第2主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。アドベント・リース等の飾りがされていました。

これらのリースは伊勢共栄姉が作成し飾って下さいました。これもそうです。

 これらに囲まれていると、クリスマスに向けての気持ちが高まってきます。
 さて、本日の聖書箇所は、バルク書5:1-9、ザカリアの歌(ルカによる福音書1:68-79)、フィリピの信徒への手紙1:3-11及びルカによる福音書3:1-6。説教では、神は、神とのずれを直し、生きる方向を神・イエスに向きを変えることをお望みであることを知り、日々、聖書を読み、神と対話し、喜びを持って救い主、イエスを迎える備えができるよう祈り求めました。
 本日のバイブルサンデーの由来や6年前の旅で撮影した荒れ野とヨルダン川沿いの地方の画像も紹介しました。
 本日の説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 先ほど入堂の時に、聖歌52番「迎えまつらん 主は来ませり」と歌いましたが、この聖歌を歌いながら「今年も降臨節アドヴェント)がやって来たな」と思わされました。この聖歌は「古今聖歌集」では第1番でした。小さな古今聖歌集を右から開くと第1部の最初に降臨節第1番とあり、縦の歌詞を目で追って歌ったことを思い出します。
 さて、本日は降臨節第2主日です。降臨節アドヴェント)に入り2回目の主日です。降臨節第2主日は、代祷の項目にもありますがバイブルサンデーと言われる主日です。それにはこのような訳があります。1549年に英国聖公会は第一祈祷書を出版しましたが、その中で降臨節アドベント)に再臨のキリストに備える目的に沿って、主日ごとに祈りの課題を設定しました。それは第1主日「キリストが与えられたことを感謝する」、第2主日 「聖書が与えられたことを感謝する」、第3主日「聖職が降誕の備えをする」、 第4主日「再臨への備えをする」でした。これに沿って、英国聖書協会は、毎年、降臨節第2主日を「聖書の日曜日(バイブル・サンデー)」と定めたのでした。
 降臨節に聖書の重要性を認識し聖書を読む機会とするのは、神の言葉がイエス様として受肉したこの時宜にかなっていると言えます。

 さて、降臨節第2主日には毎年、洗礼者ヨハネのことが福音で読まれます。教会暦は降臨節から新しい年になり、本年はC年でルカによる福音書を主に読んでいきます。 本日の福音書は、ルカによる福音書3:1-6で、この箇所を含む聖書協会共同訳聖書の小見出しは「洗礼者ヨハネ、悔い改めの洗礼を宣べ伝える」です。
 本日は、洗礼者ヨハネが宣べ伝えた「悔い改め」や彼の言葉を中心に、クリスマスを控えた心の姿勢等について考えたいと思います。

 本日の福音書を解説を加えて振り返ります。
 冒頭の1節で「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」の後のポンティオ・ピラトからリサニアまで「皇帝ティベリウス」のもとで、それぞれの地方を統治していた権力者の名が列挙されています。このように詳しく述べるのは、これから語られる出来事が歴史上の確かな出来事であることを示すためと考えられます。「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」とありますが、ティベリウスは第2代ローマ皇帝で、紀元14年に即位していますから、これは紀元28年ごろのことだということになります。
 2節になると「アンナスとカイアファが大祭司であったとき」とあり、今度は宗教上の権力者が示されます。このような政治上と宗教上の権力者がいた時代背景で、「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに臨んだ」のです。ここの「神の言葉」の「言葉」はギリシャ語原文は「レーマ」でした。「レーマ」は言葉と共に出来事も意味していますので、神の言葉と出来事がヨハネに臨んだ、つまりヨハネは神からの預言者であるということを示していると言えます。      
  3節にこうあります。「ヨハネヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」
 荒れ野とヨルダン川沿いの地方一帯ですが、6年前にこの地を旅したときの画像がこれです。

 荒れ野は何も育たない不毛な地です。奥に見える細い川がヨルダン川です。左に見えるのが死海の一部です。ヨハネはこのような厳しい自然環境のもとで暮らし、この地方一帯に行って、悔い改めの洗礼を宣べ伝えたのです。
 この「悔い改め」という言葉ですが、日本語でイメージする「悔い改め」に留まるものではありません。「悔い改め」は原語のギリシア語では「メタノイア」であり、聖書がこのギリシア語を用いる場合、「方向転換」「生き方全体の根本的な転換」を指しています。この語の背景にはヘブライ語の「シューブ〈向きを変える・立ち帰る〉」があります。聖書の述べる「悔い改め」は「神の業にあわせて向きを変えること」、つまり「神に立ち帰ること」を意味します。さらに言えば、旧約聖書の「悔い改め」は、神様の定めた正しい道である「律法」への回帰でしたが、新約聖書では「神の子イエス様」へと立ち帰ることです。ですから、キリスト教の「悔い改め」とは「悪いことをしました。もうしません」と言うことではなく、イエス様を知りイエス様を信じて従い、自らの人生の中心にイエス様を置くこと、つまり、生きていく方向をイエス様に向けるということです。従って「悔い改め」と「信仰」と「イエス様に従う」というのは、同じ事柄の別の側面と言えるのであります。
 なお、聖書で言う「罪」とは、悪い行いのことではありません。「罪」とは、神に背を向けて生きてきた人間と神との間に生じた「ずれ」と言えます。神の支配が始まろうとしている今、この「ずれ」をなくす必要があり、そのために洗礼者ヨハネは、悔い改めの具体的な表明として、洗礼を宣べ伝えたのです。
 そして、その洗礼者ヨハネのしたことが、預言者イザヤの言葉の書に書かれてある通りであると言って、イザヤ書40:3-5が引用されています。ここのイザヤ書本文はこうです。
『呼びかける声がする。「荒れ野に主の道を備えよ。私たちの神のために 荒れ地に大路をまっすぐに通せ。」谷はすべて高くされ、山と丘はみな低くなり 起伏のある地は平らに、険しい地は平地となれ。こうして主の栄光が現れ すべての肉なる者は共に見る。主の口が語られたのである。」』
 イザヤ40~55章は「第二イザヤ」と呼ばれています。1~39章とは別の、バビロン捕囚時代(紀元前6世紀)の無名の預言者の言葉と考えられています。預言者とは神の言葉を預かる者、神の言葉を民衆に伝える者です。バビロン捕囚でこのユダヤの地から離れている人々が、遠く離れたバビロンからユダヤに帰ることを予言するところです。「主の道を備えまっすぐに通せ」というのは、神様がエルサレムに帰って行く道をまっすぐに整えてくださるということを言っています。ルカ3:5に「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」とありますが、ここの動詞は受動態であり、神が行為の主体であることを表す神的受動態と考えられます。であれば、谷を埋め、山や丘を低くし、曲がった道をまっすぐにし、でこぼこの道を平らにするのは神であり、すべて神様がそのようにしてくださると言ってくださっているのです。ですから、私たちに「道をまっすぐにし、平らな道にせよ」と言っているわけではありません。神様がそうしてくださって、イスラエルの民がもともと住んでいたエルサレムの地に帰ることが可能だと言っているのです。また、イザヤ書本文では「主」は「私たちの神」のことですが、福音書の引用では「私たちの神のために」が省かれ、ルカは 「主」をイエス様のことと受け取っています。
 なお、ここのルカ3:4の預言者イザヤの言葉の「言葉」のギリシャ語原文は「ロゴス」でした。そうであれば、この「言葉」はイエス様自身を表すと考えてもいいように思います。イエス様が来臨される、そのとき「人は皆、神の救いを見る」のです。イエスの語源は、ヘブライ語で「ヤハウェ(主)は救い」を意味するのであります。イエス様こそ救い主です。
 このような話でした。

 本日の箇所から、神様が私たちに伝えたいと思っているのはどのようなことでしょうか?
 そのことに関して、まず洗礼者ヨハネはどのような位置にあるか見てみましょう。
 本日の詩編をご覧ください。本日は旧約聖書詩編ではなく、これまで「ザカリアの賛歌」と呼ばれていた「ルカによる福音書1:68-79」が採用されています。ここは「ザカリアの歌」という名称になりました。ザカリアは洗礼者ヨハネの父で祭司です。父ザカリアが聖霊に満たされ預言したのが「ザカリアの歌」です。その7節・8節をご覧ください。こうあります。
「7幼子よ、あなたはいと高き方の預言者と呼ばれる。 主に先立って行き、その道を備え 8 罪の赦しによる救いを 主の民に知らせる」
 この「幼子」「あなた」がヨハネです。ヨハネ預言者と位置づけられ、主イエス様に先立って道を備え、罪の赦しによる救い、悔い改めの洗礼を宣べ伝え、預言は成就されたのです。
 洗礼者ヨハネは「預言者(神の言葉を預かる者)」として、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。であれば、神が私たちに望んでいることは、「罪の赦し」であり「悔い改め」だということになります。「罪の赦し」とは私たちと神様とのずれを直すこと、「悔い改め」とは私たちの生きる方向を神様・イエス様に向きを変えることです。それが「主の道」であり「救いの道」と言えます。そして、その道は神様によって整えられるのです。それは喜ばしいことです。神様が私たちに伝えたいと思っていることは、そのようなことではないでしょうか?
  
 私たちが神様とのずれを直し、神様・イエス様に向きを変えるためにはどうしたらいいでしょうか? それは「祈る」ことだと思います。「祈り」は神様との対話です。私たちが話すばかりでなく神の言葉を聴くこと、この両方が必要です。  
 神の言葉は聖書に書かれています。本日は「バイブルサンデー」です。日頃から聖書に親しみたいものです。私は、毎日「朝の祈り」で聖公会手帳にある「聖書日課」に基づいてスタディバイブル(解説付き聖書)を読んでいます。今の期節(降臨節)では、先日取っていただいた北関東と東京の聖職及び信徒が執筆した「み言葉と歩む降臨節から降誕節」の黙想集を毎日読むのもいいと思います。本日も受付に置きましたので、お取りでない方はお取りいただき活用してほしいと思います。また、毎週水曜の午後7時15分からZoomで「聖書と祈りの会」を行っています。その週の主日福音書箇所について学び、祈る会です。ご参加いただければうれしいです。

 皆さん、神様は、私たちと神様とのずれを直し、私たちの生きる方向を神様・イエス様に向きを変えることをお望みです。それが「主の道」で、それは神様が整えてくださいます。この降臨節アドベント)の期節、日々、聖書を読み、神様と対話し、喜びを持って救い主、イエス様を迎える備えができるよう祈り求めたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン