マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第18主日『信仰により小さき者を受け入れる』

 本日は 聖霊降臨後第18主日です。福田司祭がコロナに罹患したため、新町は休止し、高崎はA兄の司式・説教代読で「み言葉の礼拝」を捧げました。聖書箇所は、知恵の書1:16-2:1・12-22、詩編54、ヤコブの手紙3:13-4:3・7-8a 及びマルコによる福音書9:30-37。説教では、イエス様は私たちを含む、弱く、助けを必要としている人を受け入れてくださることを知り、このイエス様への信仰ゆえに、小さき者を受け入れて歩むことができるよう、共に祈りを捧げました。
 テーマに関わりNPO法人「工房あかね」についても言及しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は急な変更で申し訳ありません。先週、17日(火)から20日(金)、3泊4日で神学院の説教セミナーに参加しました。その後、私、福田司祭ですが昨日朝から熱っぽいので医者に行きましたら、コロナの陽性が出てしまいました。そこで、「み言葉の礼拝」に変更し、秋吉さんに司式をお願いし、説教を代読してもらうようにしました。どうぞよろしくお願いします。

 さて、本日は聖霊降臨後第18主日です。本日の福音書はマルコの9:30-37です。この箇所は3つの部分から構成されています。第一はイエス様がされた二度目の受難予告の部分(30-32節)、第二はそれに対する弟子たちの無理解を記した部分(33-34節)、第三はイエス様が弟子のあるべき姿を述べた部分(35-37節)です。

 今日の箇所を振り返ります。イエス様は、御自分が「十字架につく」という受難予告を三回されるのですが、今回は二回目です。ただ受難だけではなくて、復活をするということを伝えています。弟子たちはこれから起こることについて怖くて尋ねられなかったのでした。その後に弟子たちとイエス様との話が出てきますが、これはイエス様が十字架にかかり、そして弟子たちはどう生きるかということを説明するような議論になっています。

 33節にこうあります。
『一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「道で何を論じ合っていたのか」とお尋ねになった。』
 イエス様が「何を論じ合っていたのか」と言うと弟子たちは答えられませんでした。何を論じ合っていたかというと、「誰がいちばん偉いか」ということを論じ合っていました。これは弟子たちが何回か論じ合っていたことですが、このような議論をしていたということは、弟子たちの中に世俗的な価値観というものがあったというのがはっきり分かります。それは、今の社会にもある、能力のある者や金持ち、あるいは地位が高いとかで評価されるような、この世的な価値観を表してるように思います。
 しかし、イエス様は私たちを、それとは違う価値観で生きるように求めておられます。それはどのような価値観と言いますと「すべての人の後になり、すべての人に仕える者に」(35節)なること。そしてさらに「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れる」(37節))ということです。
 「すべての人の後」とは末席に座ること、つまり最も地位が低いことを意味します。また、「仕える者」のギリシャ語原文は「ディアコノス」であり、それは本来「食卓で給仕する者」を意味しますが、他人に対するあらゆる奉仕を指すために使われるようになりました。イエス様は、最も地位を低くしすべての人に奉仕をする者になるよう求めておられるのです。
 次に、イエス様は弟子の取るべき態度を「受け入れる」ということを用いて教えました。子どもを彼らの間に立たせて抱き、このような子どもを受け入れる者がイエス様を受け入れる、とおっしゃいました。当時の社会では、子どもは価値のない、無力な者の代表と見なされていました。その子どもを受け入れるということは、無力な者、弱く小さい者、助けを必要としている者の一人を受け入れるということを象徴的に教えています。マルコ福音書ではこの後10章14節にも子どもが登場し、イエス様はこう言われます。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」さらに16節「そして、子どもたちを抱き寄せ、手を置いて祝福された。」イエス様は子どもたちを、小さき者を受け入れ祝福されるのです。

 そして、本日の箇所でイエス様は「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」(37節)とおっしゃっています。「私の名のために」とは、「イエス様への信仰のゆえに」ということです。イエス様への信仰のゆえに、イエス様の教えを受け入れ、それに従って生きていこうとするがゆえに、私たちは小さき者を受け入れるのであります。
 私たちが、最も地位を低くしすべての人に奉仕をする者になる、そして、子ども・女性・障害者や生活困窮者・難民等の弱い立場の人、小さくされた人々を受け入れる、そのような価値観で生きることをイエス様は求めておられます。イエス様の示された価値観を生きるように呼ばれているということを、私たちは改めて思い起こしたいと思います。

 弱い立場の人を受け入れるということでは、障害者のアート活動を支援する「工房あかね」もそうだと思います。運営は大変だと思いますが、知恵を出し合ってこの人たちが輝いて生きられるように主の導きを祈ります。

 皆さん、イエス様の弟子である私たちは、イエス様の価値観を少しでも実践できるように祈り求めていきたいと思います。弱い立場にある人々を大切にし、進んで受け入れることは、それらの人たちの内におられるイエス様を受け入れることなのです。
 私たちがそうするのは、神様が私たちに恵みを与え、イエス様が私たちをも受け入れてくださるからです。本日の特祷で「憐れみ深い全能の神よ、どうか主の恵みによって」と祈り、本日の詩編54編6節後半に「主よ、恵み深い御名に感謝します。」とある通りです。

 イエス様は私たちを含む、弱く、無力な、助けを必要としている人を受け入れ祝福してくださるのです。このイエス様の生き方を心に刻み、イエス様への信仰ゆえに、小さき者を受け入れて歩むことができるよう、共に祈りを捧げたいと思います。 

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン