マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

顕現後第2主日聖餐式 『イエスのもとにとどまる』

 本日は顕現後第2主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、コリントの信徒への手紙1:1-9とヨハネによる福音書1 :29-41。イエスのもとにとどまることで、イエスを知りイエスを「メシア」と告白し証しする者と変えられることを知り、神の望みを自分の望みにできるよう祈り求めました。
 本日のテーマから思い浮かぶ十字架の聖ヨハネの言葉も引用しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は顕現後第2主日、顕現節に入って2番目の主日です。顕現節は1月6日の顕現日から大斎始日(灰の水曜日)の前日(今年は2月21日(火))までの期節です。祭色も緑になりました。
 
 今日の福音書を振り返ります。ヨハネによる福音書1:29-41です。ここは2つの部分からなっています。前半が34節までで聖書協会共同訳聖書では「神の小羊」という小見出しがついています。そして、後半が35節からで「最初の弟子たち」という小見出しがついています。   
 まず、前半です。ヨルダン川で洗礼を授けていた洗礼者ヨハネは、ある時、イエス様が自分の方へ歩いて来られるのを見て言いました。
 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。
 この言葉には、旧約聖書のある出来事からの大きな意味があり、ヨハネのイエス様に対する信仰を告白する言葉でもあります。
 「世の罪を除く神の小羊」は聖餐式の中で陪餐の前に唱えられる言葉ですが、旧約聖書出エジプト記の中のある出来事を思い出します。それは出エジプト記12章にあるエジプト脱出の晩のことで、神様が起こした災いは、小羊の血を家の入口に塗った家を過ぎ越し、イスラエルの民は全員助かりました。そこから小羊は神の救いのシンボルとなり、イスラエルの民は毎年、過越の祭に小羊を屠(ほふ)ってこの救いの業を記念しました。イエス様はこの過越の祭の頃に十字架刑に処せられました。また、イザヤ書53章7節では「屠り場に引かれる小羊のように」と苦難の僕がたとえられています。
 ヨハネが、イエス様を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったのは、「この方こそ、人々の罪を取り除くために、出エジプトの時に家の入口に血を塗るために屠られた小羊」、「世を救ってくださる方だ」という意味であります。

 続いて後半です。さて、その翌日、ヨハネは2人の弟子とともにいました。
 ヨハネは、歩いて来られるイエス様を見つめて、「見よ、神の小羊だ」と、もう一度、同じことを言いました。
 2人の弟子は、それを聞いて、イエス様に従っていました。するとイエス様は、振り返って、彼らが従って来るのを見て言われました。「何を求めているのか」と。するとヨハネの弟子たちは言いました。「ラビ(『先生』という意味)、どこに泊まっておられるのですか」
 すると、イエス様は、「来なさい。そうすれば分かる」と言われました。そこで、彼らは、イエス様に付いて行って、どこにイエス様が泊まっておられるかを見つけました。
 そして、その日は、イエス様が泊まっておられる所に泊まりました。それは午後4時ごろのことでした。時刻を記しているほど印象深かったのだと思います。
 洗礼者ヨハネの言葉を聞いて、イエス様に従った2人のうちの1人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレでした。アンデレは、その後すぐに、自分の兄弟シモンに会って、「私たちはメシアに出会った」と言いました。

 このような箇所でした。この箇所をギリシャ語で読むと何度も出てくる言葉があります。それは「メノー」という言葉です。この言葉が今日の箇所のキーワードであると考えます。
 前半の32節のヨハネのイエス様の洗礼の時の証し、「私は、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。」の「とどまる」に当たる言葉が「メノー」の三人称・単数・過去形でした。また、33節の神様の言葉『霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』。の「とどまる」に当たる言葉が「メノー」の目的格・単数・現在分詞でした。
 そして後半の38節で、ヨハネの2人の弟子たちがイエス様から「何を求めているのか」と聞かれて、「どこに泊まっておられるのですか」と言うところの「泊まって」が「メノー」の二人称・単数・現在形でした。さらに39節のイエス様が「来なさい。そうすれば分かる」と言われ、彼らはついて行って、「どこにイエスが泊まっておられるかを見た。」の「泊まって」が「メノー」の三人称・単数・現在形で、さらに「その日は、イエスのもとに泊まった。」の「泊まった」が「メノー」の三人称・複数・過去形でした。
 今日の箇所の前半の「とどまる」、後半の「泊まる」がどちらも原語では同じ「メノー」という言葉が使われていたのでした。
 「メノー」はギリシャ語の辞書では「留まる、滞在する、宿る、住む、引き続き(ある状態に)いる」とありました。この言葉は、「家や船など、ある具体的なところにとどまる、泊まる」とか、「教えや信仰など、ある状態にとどまる、つながる」の意味で使われます。後者の場合は、「人が自分本来の在り方を見い出したところから離れず、そのままとどまる」といった意味になります。
 ヨハネ福音書では、この言葉が40回も使われているのですが、ヨハネ福音書を書いた人は、特別の意味を込めて、この言葉を使っていると考えます。
 ヨハネ福音書15章に、「私はまことのぶどうの木」という有名な聖書の個所がありますが、その4節では、「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。・・・」とある、この「つながっている」という言葉にも、「メノー」という言葉が使われています。

 イエス様は、ヨハネの弟子たちに、「何を求めているのか」とお尋ねになりました。これに対して、彼らは、「先生、どこに泊まっておられるのですか」と、反対に尋ね返しました。
 それは、今晩泊まる所は、宿屋ですか、誰かの家ですかと、具体的な寝る場所を聞くと同時に、「どこにとどまっておられるのですか」「どこにつながっておられるのですか」、「あなたは神様とどのようなつながりがあるのですか」と尋ねているのでもあります。

 イエス様は、「来なさい。そうすれば分かる」と言われました。そして、彼らは付いて行って、どこに泊まっておられるのかを見ました。この方が、どこにとどまっておられるのか、誰につながっておられるのか、誰であるか、神様とどのような関係にあるのかを知って確かめました。それは、単に聞いて、見たというだけではなく、この方を受け入れ、信じたことを意味します。

 2人のうちの1人、アンデレは、兄弟シモン・ペトロに会い、「私たちは、メシアに出会った」と言って、信仰を告白し、証ししました。
 メシアというのは、油注がれた者、救い主という意味です。イエス様のもとに泊まる前、イエス様のもとに留まる前、2人の弟子はイエス様のことを「ラビ(先生)」と呼んでいました。今やアンデレはイエス様のことを、人々に解放、魂の救いをもたらす「メシア(キリスト、救い主)」と呼んでいます。この間に何があったのでしょうか? それは分かりません。しかし、この2人の男がイエス様のもとに泊まり、イエス様のもとにとどまったとき、心の変化と果てしない心の平安に包まれたことは想像に難くありません。
 彼らは、イエス様のもとに泊まり、イエス様に「とどまった」「つながった」のです。イエス様のもとにとどまった結果、この方がどなたなのかが分かり、受け入れました。そして、証しする人に変えられていきました。

 今回、もう一つ注目したいのが、38節で、イエス様が振り返り従って来る2人を見ておっしゃった「何を求めているのか」という言葉です。この言葉は、ヨハネによる福音書におけるイエス様の最初の言葉です。そして、この言葉は私たちに対しても向けられています。イエス様は私たちの心の中をのぞき、私たちが根本的な求めに気づくようにと呼びかけておられます。私たちは人生で何を望んでいるでしょうか? 何を求めているでしょうか?
 多くの現代人は、自分の望みや喜びを得ることが幸せと思い、自己実現を求めていると考えます。しかし、それが本当に幸せなのでしょうか?
 聖書を読むと、多くの人物は、自分が望んだことではなく、神様から望まれたことをしています。モーセイスラエルの民をエジプトから解放したのは、自分が望んだからでなく、神様に命じられたからです。マリアがイエス様の母になったのは自分が希望したからではなく、天使ガブリエルのお告げに従ったからです。ヨセフもまた、マリアを妻にしたのは天使に夢の中で命じられたからです。この人たちは信仰に基づき、神様の望みこそが本当の自分の望みであると考えました。私たちも、神様の望みを自分の望みにできるかどうかが、問われていると思います。では、どうすることが神様の望みなのでしょうか? 

 このことで思い浮かぶ言葉があります。それは十字架の聖ヨハネの言葉で、彼の著書「カルメル山登攀」の中でカルメル会修道士としての自分の生き方について述べたものです。

 こうあります。  
「次のように常に心がけること。 
 よりたやすいことよりも、より難しいことに、 
 より快いことよりも、より不快なことのほうに、   
 慰めになるよりも、むしろ慰めのないことに、  
 より大いなることよりも、より小さなことに、 
 より高く、より貴重と見えるものより、よりいやしく、ないがしろにされるものへ  と、
  何かを求めるのではなく、なにものも求めないように、 
 そして、キリストのために、この世にあるすべてのことから全く裸になり、 
 虚しく、心貧しくなるように。」と。(『カルメル山登攀』P.107 ) 
 十字架の聖ヨハネは16世紀のスペインのカトリック司祭で、アビラの聖テレジアと共にカルメル会の改革に取り組みました。彼は神様を求める道、神様に導かれる生き方を貫き、神(キリスト)とつながり一致に至ることを見い出しました。先ほどの言葉のように生きることで神(キリスト)との一致に至ることができると、十字架の聖ヨハネは考えたのです。そして、それこそが神様の望みであり、自分の望みであると言っていると思います。
 
 皆さん、イエス様は、私たちをも振り返り「何を求めているのか」とお尋ねになっておられます。私たちも「先生、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねます。するとイエス様は、「来なさい。そうすれば分かる」と言われます。
 私たちも、まず、腰を上げて、第一歩を踏み出して、イエス様に付いて行く必要があります。そして、イエス様のもとにとどまりイエス様につながることでイエス様を本当に知り、イエス様を「メシア(救い主、キリスト)」として信仰を告白し、証しする者と変えられるのです。イエス様の「何を求めているのか」の質問に真摯に答えられるよう、日々の祈りの中で「イエス様こそ神の小羊であること」を心に留め、思い巡らしましょう。私たちは、神様が望まれていることを自分の望みにできるよう祈り求めたいと思います。