マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎節第2主日 聖餐式『キリストに従い共に歩む』

 本日は大斎節第2主日です。午前は前橋、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、創世記17:1-7・15-16、詩編22:23-31、ローマの信徒への手紙4:13-25、マルコによる福音書8:31-38。 
 説教では、主イエス様は「イエス様の後に従う」ことを求めておられることを理解し、生涯キリストの後に従って共に歩むことができるよう祈り求めました。
 本日のテーマと関連して思い浮かべる本、ヘンリー・ナウエン「イエスとともに歩む~十字架の道ゆき~」も活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は教会暦では大斎節第2主日です。(新町:入堂で聖歌129番を歌いましたが、「よそか(40日)ふ(経)るまで かて(糧)をもた(断)ちて」と歌うと「大斎節だな」という気がします。)今年の大斎節は2月14日(水)から始まり、本日は11日目です。 
 本日の福音書はマルコによる福音書8:31-38で、聖書協会共同訳聖書の小見出しは「イエス、死と復活を予告する」です。イエス様と弟子たちはガリラヤにいて、この箇所の直前では、ペトロが「あなたはメシアです」と信仰告白をしています。
 マルコ福音書は全部で16章ありますので、本日の箇所はちょうど真ん中あたりで、この後の9章2節からが、山の上でイエス様の姿が変わる、いわゆる「キリストの変容(変容貌)」の箇所になります。
 その前の本日の箇所では、イエス様は弟子や群衆に、ご自分の死と復活を予告しています。私はこの箇所の中心聖句は34節だと思いました。今日はこの御言葉を中心に思い巡らしてみたいと思います。こうあります。
『それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「私の後に従いたい者は、 自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。』

 イエス様は弟子たちに加えて群衆に、つまり私たちに、「自分の十字架を負って私に従いなさい」と語られます。しかも「自分を捨てて、十字架を負いなさい」と、とても厳しい言葉として響いてきます。
 新共同訳聖書では「自分の十字架を背負って」とあり、日本語でも「十字架を背負う」と言います。一般的には「自分の持って生まれたものや生きているうちに与えられたものを日々背負って生きていく」ことなどを言うと思います、広辞苑には「罪の意識や悲しみを身に受け持つ」とありました。「私は、この十字架を一生背負い続けます」というような言葉を聞くこともあります。イエス様がここで言っていることもこのようなことなのでしょうか?

 この箇所をギリシャ語原文から直訳するとこうなります。
「そして、群衆を彼の弟子たちと共に呼び寄せて、彼は彼らに言った。
 もし誰かが私の後ろに従うことを欲するなら、彼は彼自身を否定しなさい。
 そして、彼は彼の十字架を運びなさい。そして彼は私に従いなさい」。

 マルコ福音書は、異邦人、特にローマ人向けに書かれましたので、この当時の読者(主にローマ人)にとっては十字架刑は馴染みのあるものですが、現代の私たちがこの聖句を理解するには、当時の十字架刑について知る必要があります。
 十字架刑は、ギリシア人及びローマ人が発明した刑です。元々は反乱した奴隷に限って用いられ、その後すべての犯罪者に適応されました。十字架刑は、刑を受ける人が十字架を担いで行きます。その向かう途中で群衆の嘲りを受けます。この刑の本来意味していることは、かつて反乱した者が、今は「ローマ法に従順に服している」という姿を見せることでした。
 「自分の十字架」とは、イエス様と同じような苦しみの十字架を担げという意味ではありません。「自分の十字架」とは、比喩的表現で「自分の思いと神の思いが交差する時、自分の思いを捨てて神の思いに従順になりなさい」という勧めです。
 つまり、「十字架を運ぶ」「十字架を負う」とは「従順の勧め」です。十字架刑が意味しているのは、ローマ法への従順、つまり、「支配している権威への従順」です。イエス様は、父なる神に従順に歩まれました。どこまで従順だったかというと、「死に至るまで」です。そのように、私たちも、神様の御心に従順になる必要があると思います。自分の思いを優先させたい、自分の欲望を満たしたいと思う時に、そうではなくて、神様の御心に従順になること、それが「自分の十字架を負う」という意味であると言えます。
 ですから「自分の十字架を負う」とは「自分の問題、悩み、傷等を背負って生きる」ということではありません。それらは、自分を捨てる時に主にお委ねしました。そうではなく、「主に従う」ということです。言い換えれば「神様の御心に従う」ということが、「自分の十字架を負う」ということであると思います。

 そして、もうひとつ、この御言葉で重要なところがあります。
 イエス様が言われた「私の後に従いたい者は」というところです。これは、ギリシヤ語で「オピソー・ムー」とあり、「私の後ろに」という意味です。英語の聖書では「after me」とありました。
 この個所の直前に、こんなやり取りがありました。イエス様が「排斥され殺され三日後に復活する」ことを弟子たちにお話しになり、弟子たちはそれを理解できずペトロがイエス様をいさめ、それに対しイエス様がペトロを叱って「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」と言われたところです。ここで「引き下がれ」と訳されている言葉も、実は、「オピソー・ムー」なのです。「私の後ろに行け」なのです。
 イエス様の後ろに行く。その反対は、「イエス様の前に行く」ことです。それはイエス様が望まれたことではありません。イエス様が望まれているのは「イエス様の後ろに行く」こと、つまり「イエス様の後に従う」ことです。
 では、「イエス様の後に従う」とはどういうことでしょうか? それはイエス様とつかず離れず共に歩むこと、具体的には「日々祈り、御言葉をよく聞き、神様を信じて生きる」ということだと思います。また、今日のように礼拝に参列して、主なる神様をほめたたえることです。イエス様と共に歩み信仰生活を続けていくことが、「十字架を負うこと=イエス様の後に従う」ことと言えます。
「イエス様と共に歩む」ということで、思い浮かべる本があります。それは、ヘンリー・ナウエンの「イエスとともに歩む~十字架の道ゆき~」です。

 この本はシスター・ヘレン・ダビデの描いた15枚の絵に基づく黙想です。イエス様が十字架に向かって歩まれる場面を貧しく小さくされた人々の姿に投影させた15枚の絵について、短い黙想が記されています。日本語版は絵が白黒で小さいのですが、英語版は絵がカラーで大きいので、私は英語の本も参照しています。英語の題名は「Walk With Jesus ~Stations of Cross~」です。

 この本では、私たちの心の内にある痛み、そして世界の痛みを抱えている人たちと共に黙想しています。ナウエンは「はじめに」で、このように記しています。「わたしたちを囲むひろい世界には、計り知れない痛みがあります。わたしたちのうちなる小さな世界にも、計り知れない痛みがあります。しかしすべての痛みは、イエスが受け取ってくださいます。」
 そして十字架の道ゆきの15の黙想を始める前に、ナウエンは序「わたしはイエスとともに歩く」(英語では「Introduction I WALK WITH JESUS」)という文章を書いています。「わたしは今まであまり『歩く』生活をしてきませんでした」(P.3)、「しかし、イエスは歩かれました。そして今も歩いておられます。…ともに歩かれる人に注意深く耳を傾け、同じ道を歩く本当の仲間として、ある力をもって語り掛けられます。」(P.4)。
 そのように書いた上で、「イエスはあなたと一緒に今も歩いてくださっています。だからイエスの十字架への道ゆきをたどりながら、イエスと一緒に歩んでいきましょう。その時、今まで気づかなかった大切なことに気づかされます。」そのように語ってから、15の黙想を始めています。
 ここで述べられているのは、イエス様は私たち及び痛みを抱えている人々と共に歩んでおられるということです。十字架へと向かう途上においてです。だから、イエス様は、「私につかず離れず共に歩んでほしい」と言っているのだと思います。

 皆さん、主イエス様は、私たちがイエス様に従い共に歩むことを求めておられます。クリスチャンとは「キリストに従う者」という意味です。それがイエス様の本当の弟子です。「十字架を負うとはイエス様の後に従う」こと、イエス様と共に歩み信仰生活を続けていくことです。大斎節のこの期間、あらためて自分を見つめ直し、生涯、イエス様が求めておられる生き方、「キリストの後に従い共に歩んでいく信仰生活を送る」ことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。

   父と子と聖霊の御名によって。アーメン