マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第2主日 聖餐式 『十字架を負いキリストに従う』

 本日は聖霊降臨後第2主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、ガラテヤの信徒への手紙3:23-29とルカによる福音書9:18-24。キリストが私たちを包んでいることに信頼して、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、イエス様に従っていくことができるよう、神の助けを祈り求めました。「十字架を負う」ということで思い浮かべた三浦綾子の小説(後に映画化された)「塩狩峠」も紹介しました。

   十字架を負いキリストに従う

<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 先主日は「三位一体主日聖霊降臨後第1主日」、そして本日は「聖霊降臨後第2主日」です。祭色が緑になりました。緑は草木の色、自然の色であり、神の恵みと成長、希望、平和を表すと言われます。Green(緑)からGrowth(成長)という言葉が生まれています。これから降臨節第1主日(今年は11月27日)で紫に変わるまで長い緑の期節が続きます。
 
 今日の福音書箇所を振り返ります。
 イエス様が一人で祈っておられたとき、一緒にいた弟子たちに「群衆は、私のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。それに対して弟子たちは、群衆や人々がイエス様のことを「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「昔の預言者が生き返った」と言う人もいます、と答えます。人々は、イエス様を偉大な者と認めてはいながらも、誰であるかの見解が一致しておらず、これまでの過去の歴史的な前例の人物をイエス様に当てはめて、イエス様をとらえています。そして、イエス様は弟子たちに、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」と質問し、「あなた自身は私をどういう者として信じるのか。」と弟子たち一人一人に問いかけます。この問いかけに、一番弟子のペトロは、「神のメシアです。」と答えました。
「あなたはメシアの先触れをする人ではありません。あなたこそメシアです。」と答えたのでした。メシアは、ヘブライ語で「油を注がれた(塗られた)者」の意味で、 旧約聖書では祭司や王がその就任の際に油を塗られたことが記されています。後にそれは理想的な統治をする為政者を意味するようになり、さらに神的な救済者を指すようになりました。しかし、ここでのペトロは政治的な王としての「メシア」を考えていたかもしれません。ペトロたちにとってのメシアの理解は、支配者であるローマ帝国から自分たちの国ユダヤを独立に導く、政治的指導者、社会的リーダーを意味していたと考えられます。 
 この弟子たちの理解に対してイエス様は、苦しみを受け、殺され、復活する、という自らのメシアの姿を語ります。すべての人を愛し、すべての人が救われるために苦しまれたメシアであるイエス様の姿です。

 続いて23節でイエス様は、弟子たちだけでなく皆に(それはつまり私たちに)向かって「私に付いて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」と言われました。「自分を捨て」「十字架を負って」「私に従いなさい」という3つの命令形は別々のことでなく、同じことを示しています。「自分を捨て」はちょっとドキッとする表現ですが、もとは<自分よりも他人を優先する>という意味の言葉です。同じく「自分の十字架を負って」などと聞くと、どうしても「キリストと同じように十字架を負う」とイメージしがちです。勿論ここには殉教というニュアンスもあるのですが、原文の直訳では<十字架の印を押される>となり、要するにキリスト者として生きることを指している言葉です。また、「付いて来たい者は」という箇所の「付いて来る」という現在形の言葉は、関係の継続を表す用法(現在不定詞)が用いられています。つまり、イエス様との関係を継続することを願うなら、ということです。そしてルカはここに「日々」という言葉を挿入することで、日常の中で福音の価値観を生きていくことを強調している、と考えられます。つまり、キリストと同じように、私たちも日常の中で人の痛みや苦しみを共に担っていく、ということでしょうか? そしてイエス様に従っていくことが求められています。それこそが信仰です。「自分の」ではなく「イエス様の」生き方に従っていくことです。イエス様との関係を継続したいと願うなら、日々キリスト者としてイエス様に従っていくことが求められているのです。
 24節で、イエス様は「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを救うのである。」と言われます。これは23節の説明でありまして、イエス様に従うことが自分の命を救うための唯一の手段であり、自分を捨て、キリスト者としてイエス様の教えられた愛の生き方を貫くことによって永遠の命を得ることができると言っているように思います。

 今日の福音書箇所で、私にとって気になる言葉は「自分の十字架を負って」という言葉でした。私たちが負うべき(担うべき)自分の十字架とは何でしょうか? 私たちは、生まれ育ちや境遇、生まれながらの病気や障害、そして今置かれている仕事や家庭等の状況を自分に与えられた十字架ととらえる傾向があると思います。私もそう思いがちです。
 しかし、クラドックという現代アメリカの神学者、説教者の注解書にこうありました。「十字架を担うという生き方は、人が「引き受けた」生でなければならない。つまり、自発的に選ぶものなのである。関節炎や悪い成績、不幸せな結婚、薬漬けの子供などはこの場合当てはまらない。十字架を担う生き方は、神に仕えるために自己を否定することを含む。昔も今も真実なのは、神に仕えてイエスに従うということは、十字架や、払うべき代価や、受けるべき痛みや傷が横たわっている、一つの道を行くということである。ここで言っているのは、死の希望ではなく、神の支配に従順であるということである」と。
 クラドックは、十字架は引き受けた生であり自発的に選ぶものだと言っています。神に仕えるため痛みや傷を受けることがあるが、神の支配に従順であることが十字架を担うということである、と言っています。

 このことで思うことがあります。それは今年、生誕100年を迎えた三浦綾子の小説「塩狩峠」です。これは実話に基づく長編小説で1968(昭和43)年に刊行され、5年後、映画化もされました。今回、私はこのDVDで映画を観ました。

 主人公は若き鉄道員、永野信夫。この作品では、北海道名寄から旭川方面へ向って塩狩峠を登っていた汽車の最後尾車両の連結が外れ、暴走した時に、乗り合わせていた主人公が自分の身を投げて客車を止め、命をささげて乗客を救ったことが描かれています。主人公の永野信夫は鉄道会社に勤める敬虔なキリスト者で、事故は婚約者との結納に向かう時に起きました。このことは、鉄道員という自分の職業とキリスト教信仰に基づき、自発的に日々十字架を負って生きていたからなされた行動であると思うのです。 

 では、日々自分の十字架を負って生きていくことのできる原動力は何でしょうか? その答えは本日の使徒書の中にあるように思います。ガラテヤの信徒への手紙3章27節にこうあります。「キリストにあずかる洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです。」
 パウロは「あなたがたは皆、キリストを着たのです」と表現します。「着る」の原語は「エンデュオー」で「衣服を着せる、身に着ける」の意味、さらに<包まれている>状態のことを表します。キリストに結ばれた私たちを、いつもキリストが<包んで下さっている>のです。
 私たちは、「ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、男も女も」関係なくキリストによって包まれているです。キリストが私たちを包んで下さっている。これこそ、私たちが日々十字架を負って生きていくことのできる原動力ではないでしょうか?

 キリストが私たちを包んで下さっていることに信頼して、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、イエス様に従っていくことができるよう、そして、私たちが常に「キリストに結ばれた者」であり続けることができるよう、神の助けを共に祈り求めたいと思います。