マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降臨節第3主日 聖餐式 『メシアの到来こそ真の喜び』

 本日は降臨節第3主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、イザヤ書35:1-10とマタイによる福音書11 :2-11。イエス様こそメシアであり、天の国をもたらそうとしていることを知るとともに、自分の無力さ・弱さを認め、神の到来・受肉を真の喜びとできるよう祈り求めました。クリスマスの出来事を物語るチャプレンをしている幼稚園の聖劇での祈りについても言及しました。

   メシアの到来こそ真の喜び

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

  本日は降臨節第3主日です。「降臨節」は、イエス様が来られることを待ち望み、イエス様を迎えるために、私たちの心の準備をする期間です。降臨節待降節)は、英語で「Advent(到来の意味)」と言いますが、今日は「イエス様の到来によってもたらされた喜びとは何なのか」ということを中心に考えていきたいと思います。

 本日の旧約聖書イザヤ書35章では、荒れ果てた大地と打ち倒された人々に向かって、喜び踊る時が訪れて来ることを告げています。そしてそれは、イエス様の到来による喜び、「主における」喜びです。
 福音書を見ていきましょう。
 本日の福音書の箇所(マタイ11 :2-11)は、先主日に続いて洗礼者ヨハネに焦点を当てています。しかし、今日はメシアのための道を整えるという彼の役割にではなく、イエス様のメシアとしての使命の証しに焦点を当てています。
  少し振り返ってみます。
 牢の中にいる洗礼者ヨハネは自分の弟子をイエス様のところに送りました。そして尋ねさせました。「来るべき方は、あなたですか。」と。
  イエス様は、直接的な答えを与えず、ただヨハネに証拠を報告するように、と彼の弟子に命じます。「人々は癒され、耳の聞こえない人は聞こえ、貧しい人々は福音を告げ知らされている」と言い、自分がメシアであることを暗に示します。
 ヨハネの弟子が帰るとイエス様は、群衆たちにヨハネについて言及します。「ヨハネ預言者以上の者で、救い主が現れる前に道を整える者である」と。「しかし、天の国で最も小さな者でも、ヨハネよりは偉大である」と。・・・
  このような箇所です。

 今日の福音書は2つの段落に分かれます。2節から6節までと、7節から11節までです。今回、この箇所で私の心に残った文が4つありました。各段落2つずつです。それは第1段落では3節の「来るべき方は、あなたですか」と6節の「私につまずかない人は幸いである」、第2段落では9節の「そうだ。言っておく。預言者以上の者である」と11節の「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」です。
 
 それぞれ考えてみましょう。
 まず3節、「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」です。
 洗礼者ヨハネは牢の中にいますが、イエス様の行ったことについて既に聞き及んでいました。ヨハネは困惑します。イエス様の行動が、旧約聖書でメシア(救い主)がもたらすであろうと告げていた「斧、火、審判」と一致していないように思えたからです。そこで、ヨハネは、イエス様に直接尋ねるため、自分の弟子たちを何人か送りました。そして彼らは尋ねます。「来るべき方は、あなたですか。」と。来たるべき方とは旧約聖書の時代から待望されていたメシアのことです。つまり、「イエス様、あなたは私たちが待ち望んでいたメシアですか」と尋ねたのです。
  それに対して、イエス様は5節で「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」と言います。「規定の病」は新共同訳聖書では「重い皮膚病」、それ以前には「らい病」と訳されていた、旧約聖書の律法で規定された病いです。また、「貧しい人」というのは「さまざまな事情で圧迫され小さくされた人」のことです。一昨日の金曜に管区主催の人権担当者会で横浜の寿地区で炊き出しのボランティアをしましたが、一杯の雑炊をもらうために列を作っている、このドヤ街に住むことを余儀なくされた人々も「貧しい人」と言えると思いました。なお、「規定の病を患っている人」の「患う」、患者の「患」という字は「串と心」と書きます。「患う」とは心が串刺しになっている状態と言えます。そのような人を癒し救ってくださるのが、私たちの主、イエス・キリストです。5節の内容は、本日の旧約聖書イザヤ書等でメシアのしるしとして預言されていたことです。したがって、イエス様は、ご自分が確かにメシアであることをお示しになったのです。
 そして6節で、イエス様は「私につまずかない人は幸いである。」とおっしゃいました。
 旧約聖書に書かれているメシアに関する預言は、とても難解なものです。それは、栄光に輝く、王なるメシアの到来を告げているとともに、へりくだって、苦難を受られる、しもべのメシアのどちらもが語られているからです。多くの人々は、洗礼者ヨハネと同じように、栄光のメシアだけを待ち望み、受難のメシアについては比喩的にとらえていて、文字通り起こると信じていないようでした。
 私たちも自分のイメージで救い主をとらえてしまってはいないでしょうか?そして、それと違うといってつまずくことがあるのではないでしょうか? 先入観をなくし、自分をむなしくしてイエス様を理解したいものです。
 ここまでが第1段落です。

 続いて第2段落に入り、ヨハネの弟子が帰るとイエス様は群衆に「ヨハネは何者か」というような内容を問います。
 そして9節でイエス様はこう言います。「そうだ。言っておく。預言者以上の者である。」と。
 ヨハネ預言者でした。預言者たちは、神の言葉を人々に告げるものであり、メシアの来られることを預言していました。しかし、ヨハネは、メシアが実際に来られる直前に現れて、道備えをするように説いた人物です。その意味で、他の預言者よりもすぐれた働きをしました。また、洗礼者ヨハネは旧約と新約をつなぐ預言者でもあります。
 最後に、11節「よく言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」です。
 「天の国」はマタイ福音書特有の言い方で、「神の国」と同じ意味です。ユダヤ人たちは神を畏(おそ)れ尊ぶあまりに、「神」という言葉は使わずに「天」という言葉で表しました。だから、「神の国」と言わずに、「天の国」と言うのです。さらに、イエス様は洗礼者ヨハネ預言者として、人間として最大限に評価していますが、同時に「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言っています。それは、確かに洗礼者ヨハネ預言者としては最大の人物であったが、イエス様に出会い、イエス様を通して注がれる神の慈しみを受けて神の支配にあずかった者は、そのヨハネを超える者となるということです。それほどに天の国の力は圧倒的であり、人をまったく新しく造り変えていくのであります。

 ところで、この期節(シーズン)、受肉Incarnation ということを考えずにはいられません。神が肉体を受け、人となってこの世に来られたことです。受肉とは、詳しく言えば、父なる神のもとに存在した神の独り子が人間となって地上に現れたことによって、救いが出来事になったということです。ですから、神の子が肉をとって人となったことが救いであり、救いの始まりなのです。そして、自分の独り子をこの世に遣わさなければならなかった父なる神の痛みについても思います。誕生の喜びとともに、受肉の重さを思わずにいられません。
 神様はなぜイエス様において御自身を地上に宿らせ、御自身を人間にお示しになったのでしょうか?
 神様がこの世に独り子イエス様をお送りになり、神様御自身をイエス様において全人類に示されたのは、神様がそれほどまでに人間を大切に思い、愛していたからです。 
 キリストは神の独り子でありながら、いや神の独り子であるが故に、私たちのために人の姿で(つまり、受肉し)この世に降臨されたのです。これがクリスマスの出来事です。

 昨日、私がチャプレンをしている玉村のマーガレット幼稚園でクリスマス会がありました。

   そこで子供たちが聖劇、イエス様の降誕劇をしていましたが、イエス様が貧しい馬小屋で生まれ、イエス様を最初にお祝いしたのが貧しい羊飼いだったことを強調していました。この劇は礼拝として行いましたが、私は聖劇の最後の祈りの中で、このように話しました。『イエス様は、羊飼いさんたちのような寂しい思いをしている人、貧しい人、大変な思いをしている人たちのために、馬小屋という汚く、寂しいところでお生まれになったのです。神様がこのようにイエス様を生まれさせたのは、神様が貧しい人、大変な思いをしている人たちのことを大切に思っているからです。神様は私たちをも大切にしてくださり、イエス様は私たちがつらく寂しい思いをしているときにも、そばにいてくださいます。』と。これがクリスマスの出来事であり、神様はこのようなお方なのであります。

 皆さん、神様は私たちを大切にしておられます。「大切」という字は「大きく切る」と書きます。神様はご自分を大きく切って、独り子のイエス様をこの世に送られたのです。クリスマスは喜びと痛みを伴っているのです。
 神様の受肉の恵み・痛みから自分を見る時、神様の愛と比べて自分はいかに無力で弱い者であるかを思わずにはいられません。しかし、自分の無力感、自分の弱さを知れば知るほど、それを支えるためにこの世界まで降りて近づいてくださる神様の姿が、私たちにとってより大きな喜びとなります。
 私たちは自分の弱さを知りながら、神様の愛の存在に目を注いで参りましょう。このアドベント、私たちは自分の無力さ・弱さを認め、神の到来・受肉を真の喜びとできるよう準備していきたいと思います。