マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第3主日 聖餐式 『主イエス・キリストの道に従う』

 本日は聖霊降臨後第3主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、列王記上19:15-16、19-21とルカによる福音書9:51-62。主イエス様に従う道は、私たちを「この世の執着」から解放し、救いを得させる道であることを理解し、神の国と神の義を第一として、キリスト者であり続けられるよう、聖霊の導きを祈り求めました。この道を歩むことを歌った聖歌の歌詞を確認し、その曲の入った「こども聖歌」も紹介しました。

   主イエス・キリストの道に従う

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は「聖霊降臨後第3主日」です。北関東教区では毎年「聖霊降臨後第3主日」を「児童の日」として、日曜学校・教会学校の働きや教会に集う子供たちのために祈り、子供に関わる様々な事柄について思いを馳せることとしています。私は前橋の教会ではずっと日曜学校の教師をしていましたが、私が神学校に行っている間に、前橋も子供たちがいなくなり日曜学校もやめてしまったとのことです。この「児童の日」にあたり、教会に子供たちがもっと集うことができるよう、また、子供の貧困や虐待やいじめ等、子供に関わる様々な事柄を教会の課題として考える機会にできるといいと思います。

 さて、本日の福音書は、ルカによる福音書9:51-62です。
 51節に「天に上げられる日が満ちたので、イエスエルサレムに向かうことを決意された。」とあります。主イエス様がエルサレムに上ろうと決意されたのは、天に上げられる日が近づいたからだったのです。イエス様が天に上げられる、それは、イエス様が復活して天に昇られたことによって実現しました。しかしそのことが起る前には、十字架につけられて殺されるという受難があるのです。「天に上げられる」という言葉は受難をも含んでいると言えます。十字架の死と復活と昇天によって天に上げられる、その時がいよいよ近づいたことをイエス様は悟り、そのことが起こる場所であるエルサレムへと向かう決意を固められたのです。
 そのようにしてエルサレムへの旅が始まったわけですが、この旅においてイエス様は、52節にあるように、「先に使いの者たちをお遣わしにな」りました。エルサレムへの旅において、弟子たちは主イエス様の先駆けとして遣わされたのです。主イエス様はサマリアを通って旅しており、弟子たちもサマリア人の村へと先に派遣されました。53節に「しかし、サマリア人はイエスを歓迎しなかった。イエスエルサレムを目指して進んでおられたからである」とあります。これは、当時ユダヤ人とサマリア人との間にあった対立によることです。それには歴史的な背景があり、簡単に言えばサマリア人というのはユダヤ人と異邦人の混じりあった民族で、ユダヤ人たちはサマリア人を不純な民として軽蔑しており、サマリア人もそれに対抗してエルサレムとは違う場所に自分たちの礼拝の中心を置いていたのです。そこでエルサレムへと上っていくユダヤ人であるイエス様と弟子たちの一行をサマリア人が歓迎しなかったのであり、これはイエス様とその弟子だから、という理由ではありません。いずれにせよ、イエス様と弟子たちの一行はサマリアの人々に歓迎されなかった、むしろ敵意を持って迎えられたと考えられます。
 そういうサマリア人の敵意に対して、弟子のヤコブヨハネが、こちらも敵意を持って振る舞おうとしたのが54節です。彼らは「主よ、お望みなら、天から火を下し、彼らを焼き滅ぼすように言いましょうか。」と言いました。ここには、当時のユダヤ人がサマリア人に対して抱いていた感情が現れていますが、同時にこの二人の弟子の性格も現れています。ヤコブヨハネは兄弟ですが、彼らは主イエス様から「雷の子」と呼ばれたということがマルコ福音書に語られています。それは彼らが短気で、時々癇癪を起して怒り出すような人だったということでしょう。この時も彼らは、自分たちに敵意を向けるサマリアの人々に対して激しく怒り、「こんなやつらは滅ぼしてしまいましょうか」と言ったのです。しかしイエス様は、「そんなことを言ってはいけない」と彼らをお叱りになったのです。
 
 主イエス様の弟子となってイエス様に従うとはどのようなことなのか、ということが57節以下に語られています。ここには、イエス様に従っていこうとした三人に対するお言葉が並べられています。最初の人は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。すばらしい信仰の決意表明です。しかしイエス様はこの人の決意に水をさすように、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われたのです。「人の子」とはイエス様がご自身を指して言われる言葉です。「あなたは私の行く所ならどこへでも従って来ると言っているが、その私には枕する所もないのだ、安住の地のない、心の休まる暇もない歩みをしていくのだ、その私に本当に従えるのか」というお言葉です。捕えられ、十字架につけられるためにエルサレムへと向かうイエス様の旅はまさにそのような枕する所もない歩みです。主イエス様に従うとは、イエス様のこの旅路を共に歩むことなのです。
 二人目の人には、イエス様の方から「私に従いなさい」と声をおかけになりました。これが、主イエス様が弟子を招く方法です。するとその人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。イエス様は「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。しかし、あなたは行って、神の国を告げ知らせなさい」とおっしゃいました。父親の葬式を出すことは、私たちの社会でも同じですが、当時のユダヤ人たちの間でも、子供としての最大の義務とされていました。しかしイエス様は、主イエス様に従うことを父親の葬式を出すことよりも優先せよ、とおっしゃるのです。そのくらいの思いを持っていないとイエス様に従って生きることはできない、というのです。
 三人目の人においても同じようなことが語られています。その人は、「主よ、あなたに従います。しかし、まず私の家の者たちに別れを告げることを許してください。」と言いました。しかし主イエス様は、「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」とおっしゃたのです。鋤は農地などを開墾するための道具で、この時代は片手で牛を操作しながらもう一方の手で舵を取らなければならなかったようです。当然、後ろを向けば十分に操作はできません。本日の旧約聖書日課で、エリシャも牛を使って鋤に手を掛けていました。列王記上19-21では、エリシャは父母へのいとまごいを願い、エリヤはそれを聞き入れています。しかし、イエス様は、その願いは「神の国にふさわしくない」とお答えになりました。イエス様は、「家族に別れを告げようとすることは、鋤に手をかけてから後ろを顧みるような未練がましいことだ、そういう思いを断ち切るのでなければ、神の国にふさわしくない」と言っています。つまり、イエス様によってもたらされる神の国に預かる信仰者は、家族との関係よりも、主イエス様に従うことの方を大切にすべきだ、というのです。

 この57節以下に語られているのは大変厳しいことです。主イエス・キリストに従うことが私たちの信仰であり、そこにはこのような厳しさが伴うのです。父を葬りに行くとか、家族にいとまごいに行くというのは、人間として最も大事な、なすべきことです。それは当然優先にされるべきだと誰でも思うものです。私たちは、そういう、当然優先されるべきことを他にもたくさんかかえています。この世を生きる者として、この社会の一員として、いろいろな責任を負っている者として、「これは優先にしないと」ということはいくらでもあります。そういう現実の中で私たちは、主イエス様に従おうと思いつつも、いつしかそれを二の次・三の次にしてしまう傾向があるのだと思います。イエス様のこの厳しいみ言葉は、そのような私たちに、本当に大切なことは何か、何を第一とすべきなのかを教えています。それは何でしょうか? それは神の国、そして神の思いを第一とすることであると考えられます。ルカではなくマタイの福音書ですが「まず神の国と神の義とを求めなさい。(6:33)」とあります。今日の福音書箇所の最後のみ言葉「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」。私たちはこのみ言葉をしっかりと受け止める必要があると考えます。
 
 今日の福音書は、主イエス様に従う者に求められる心構えと覚悟について教えていると考えます。極端な物言いをしていますが、ここは、父の葬式を出している暇があったら宣教せよ、とか、家族のことは放っておいてイエス様に従え、ということではありません。主イエス・キリストに従う者は優先すべきことが普通とは違っているということです。主イエス・キリストに従う者とはキリスト者、クリスチャンのことです。キリスト者は、父を葬るとか、家族にいとまごいをすることに象徴されている親や家族との関係から出て、一人の人間として主イエス様と共に生きるのです。言い換えれば、キリスト者であるということは、私たちが生まれつき属している集団、その中で自然に共有されている考えや感覚、常識など、言い換えれば「この世の執着」から離れて、主イエス・キリストと共に生きることにおいて与えられる新しい意識、感覚、思いや志に生きていく一筋の道なのであります。

 本日の礼拝の入堂で歌った聖歌457番をご覧ください。この聖歌は「こども聖歌」の第4番であり、かつて日曜学校で子供たちと声を合わせて歌ったことを思い出します。

1、主に従い行くは いかに喜ばしき 心の空晴れて 光は照るよ
  み跡を踏みつつ 共に進まん み跡を踏みつつ 歌いて進まん

 主に従い歩む道は喜ばしい道、光に照らされた道です。イエス様は私たちをこの道に招いておられます。この世の論理や常識からすると、その道はあまりに厳しく「社会の一員としてどうなのか」と感じられることもあるかもしれません。しかしその道は、私たちを「この世の執着」から解放し、救いを得させる道、神の国に至る道なのです。そのことを心に留め、日々、神の国と神の義を第一として、私たちが常に主イエス・キリストに従っていく者、キリスト者であり続けることができるよう、聖霊の導きを共に祈り求めたいと思います。