マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降臨節第3主日『悔い改めにふさわしい実を結ぶ』

 本日は 降臨節第3主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、ゼファニヤ書3:14-20、主の救いの歌(イザヤ書12:2-6)、フィリピの信徒への手紙4:4-7 及びルカによる福音書  3:7-18。説教では、喜びの主日にあたり、主の来臨の準備として「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ことが望まれていることを知り、私たちが神様の方を向いて、自分の持てるものを他の人と分かち合うことができるよう祈り求めました。
 本日のテーマから思い浮かべた、渡辺和子の本の題名で有名な言葉も紹介しました。
 本日の説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
  
 本日は降臨節第3主日です。アドヴェントクランツのローソクも、3本火が点りました。伝統的に降臨節第3主日は「喜びの主日」と言われてきました。降臨節の祭色は紫ですが、この日だけ祭服をバラ色やピンク色を使う教会もあります。そこで、「バラ色の主日(Rose Sunday)」とも言われます。
 本日の聖書日課でも、旧約聖書の冒頭で「娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜びの声を上げよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び祝え。」とか、使徒書でもその冒頭で「主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」とあるように喜びが強調されています。  
 そして、福音書では、洗礼者ヨハネがその到来を予告した救い主がすぐ近くに来ておられる、という喜びの雰囲気がこの主日にはあります。

 本日の福音書箇所は、ルカによる福音書3:7-18で、この箇所を含む聖書協会共同訳聖書の小見出しは「洗礼者ヨハネ、悔い改めの洗礼を宣べ伝える」と記されていて、洗礼者ヨハネによってイエス様の来臨の備えをすることが述べられています。この箇所では、特に、「群衆」「徴税人」「兵士」に対するヨハネの教えや「勧め」(18節)が挿入されているのが特徴と言えます。 
 本日の福音書箇所を振り返ります。
 イエス様が宣教活動を始められたのは、およそ30歳であったと記されています(ルカ3:23)。その前に、ヨハネという人が荒れ野に現れて、人々に罪の悔い改めを勧め、ヨルダン川で、洗礼を授けていました。そのことから、このヨハネは、バプテスマのヨハネ、洗礼者ヨハネと呼ばれます。今日の箇所の後に記されていますが、イエス様もこのヨハネからヨルダン川で洗礼を受けます。
 この洗礼者ヨハネは、そこに集まってきた群衆に向かって、今日の福音書の冒頭で「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ。・・・斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒され、火に投げ込まれる。」(7-9節)と叫び、神の怒りと神の裁きを宣告しました。
 「悔い改めにふさわしい実を結べ。」の「実」のギリシャ語は「カルプース」で「カルプス(実)」の複数でした。ここの英語の聖書(NRSV)は「Bear fruits worthy of repentance.」でした。「実」はfruits と複数でした。であれば、この「実」は悔い改めを示す洗礼を指すのではなく、生活の中で悔い改めを示す具体的な複数の行動を意味していると考えられます。
 また、8節に「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。」 とあります。「アブラハムの子」というのは選民意識の表現です。ユダヤ人は神から選ばれた特別な民であるという意識が根底にあります。ここではヨハネユダヤ人たちに「アブラハムの子孫というだけで神からの救いが保証されると考えるな」と警告しています。これは、「人間は出自(生まれたところや家柄)で人格や人生が決まるものではない」ということです。この言葉は異邦人を含むすべての人に向かって言われています。いかなる人も救いを受ける資格があるということです。
 これを聞いた「群衆」は、「では、私たちはどうすればよいのですか」と尋ねました。すると、ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えました。つまり、持たない者、貧しい人に、衣服や食べ物など生活の必需品を分かち合うようにと、答えたのです。続けて、徴税人も兵士たちも、それぞれ、「私たちはどうすればよいのですか」と尋ねました。「徴税人」はユダヤ人でありながらローマ帝国のために同胞から税を取り立て、そのことによって自分の利益を得ていた人です。彼らの中には不正な取立てをする者も多く、その職業というだけで罪人のレッテルを貼られていました。その徴税人にヨハネは「規定以上のものは取り立てるな」と言っています。「兵士」に対してヨハネが語ったのも、ただ、「人に対して悪を行なわないように、貪欲(どんよく)になるな」ということでした。ヨハネは徴税人や兵士に向かって、その仕事を辞めることを要求していません。「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」とは、みんなで荒れ野に行くことではなく、それぞれの置かれた日常の場で神様の方を向いて、自分の持てるものを他の人と分かち合うことであり、ヨハネはそうするように勧めたのです。 
 
 このようなヨハネの言葉を聞いて、民衆は、この人は、我々が待ち望んでいるメシア(救い主)ではないかと思い始めました。ここでの「民衆(ラオス)」とは、救いを受け入れる準備のできた人のことです。民衆が「自分のことを、救い主、メシアではないか」と思い始めたことを知ったヨハネは言いました。「私よりも力のある方が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる。その手には箕がある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる。」と。(16-17節)
 洗礼者ヨハネは、自分の後から来られる、イエス様のことを「私よりも力のある方。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」と言って紹介しました。「履物のひもを解く」は奴隷の仕事であり、「私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない」というのは、来られる方がいかに偉大であるかを強調する表現です。洗礼者ヨハネは、民衆に、自分の後に来られる方こそ、聖なる霊と火において洗礼を授ける偉大な方なのだと示したのです。そこには私たちを包み込むイメージがあります。そして、その方は裁きを行いますが、麦は倉に納めます。つまり、良い実は救われるのであります。

 18節に「ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。」とあります。ヨハネの告げた「福音(よい知らせ)」とは何でしょうか? 第一には「真の救い主が私の後に来られるということ」でしょう。と同時に「悔い改めによって救いにあずかることができるということ」も福音であると考えます。「悔い改め」とは「悪いことはもうしません」ということではありません。「生きる方向を変えて神と向き合うこと」であり、「神に立ち帰ること」です。言い換えれば、自分中心の視点から神の視点に変えるということです。主がもうすぐ来るということ、悔い改めによって救われるということ、この2つが福音と言えるのではないでしょうか?

 洗礼者ヨハネは、来たるべき方のために、道備えを叫ぶ人でありました。「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言われた当時の人々は、口々に「では、私たちはどうすればよいのですか」と尋ねました。
 今、イエス様をお迎えしようとする私たちが、ヨハネの言葉を聞いて、「では、私たちはどうすればよいのですか」と尋ねるならば、洗礼者ヨハネはどのように答えるでしょうか?(少し待つ)

 そのことで思い浮かぶ言葉があります。それは「置かれた場所で咲きなさい」という言葉です。この言葉は、渡辺和子のこの本で広く知られるようになりました。

 この言葉はアメリカの有名な神学者、ラインホルド・ニーバーの詩の一節です。この言葉の英語原文は「Bloom where God has planted you.」(神が植えた場所で咲きなさい。)です。
 洗礼者ヨハネは、今の仕事をやめることや荒れ野での生活を推奨したわけではありません。「置かれている生活の場でキリストの弟子として生きよ」と励ましたのです。主イエス様の来臨を控えた私たちの生き方とは、神から与えられた場所で主イエス・キリストの弟子として生きることなのであります。

 皆さん、本日は降臨節第3主日、「喜びの主日」です。イエス様はすべての人を救うためにこの世界に来られます。それには生まれや家柄は関係ありません。いかなる人も救いを受ける資格があります。すべての人の救い主であるイエス様がもうすぐ来られのです。これは大きな「喜び」であります。
 私たちがその準備としてなすべきことは何でしょうか? それは「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ことです。ヨハネは私たちに、自分中心から神中心に視点を変え、貪欲にならずにそれぞれの置かれた場所で神様の方を向いて、自分の持てるものを他の人と分かち合うようにと教えています。この洗礼者ヨハネの教えを日々の生活の中で行うことがことができるよう、共に恵みの主に祈り求めて参りたいと思います。  

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン