マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活節第7主日(昇天後主日)『イエス様の「とりなしの祈り」に倣う』

本日は復活節第7主日(昇天後主日)です。新町の教会で聖餐式を捧げました(前橋は信徒司式による「み言葉の礼拝」)。
 本日の聖書箇所は、使徒言行録1:12-17、21-26、詩編1、ヨハネの手紙一5:9-13及びヨハネによる福音書17:6-19。説教では、世に派遣された弟子たちが聖なる者となるよう、神様に「とりなしの祈り」をしてくださるイエス様について知り、イエス様がされたように、他の人のため、「とりなしの祈り」を日常的に捧げることができるよう祈り求めました。
 テーマと関係する来住英俊神父の目からウロコシリーズ「とりなしの祈り」の文章や「ファティマの祈り」も活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は復活節第7主日(昇天後主日)です。この前の木曜日に私たちは昇天日を迎えました。イエス様が天に昇られた日です。マッテア教会では5名の参列者を得て聖餐式が行われました。そして、来週の日曜日が聖霊降臨日となります。今日私たちは、昇天日と聖霊降臨日の間にいます。管区から送られた「み国が来ますように(Thy Kingdom come)」という「祈りのしおり」では第4日目に当たります。毎日この冊子を用いることで、主の御心を知り祈りの姿勢を整えることができますので、ぜひご活用下さい。

 さて、本日の福音書箇所はヨハネによる福音書17:6-19です。
 ヨハネ福音書の最後の晩餐の後、ユダが出て行ってからの13章31節~17章の終わりは「告別説教」と呼ばれるイエス様の遺言のような言葉です。特に17章は「大祭司の祈り」と呼ばれているところです。この章は、大きく三つの部分に分けられます。初めは1節から5節までで、イエス様はご自身のことを祈っています。次が6節から19節で、ここではイエス様は弟子たちのために祈っておられます。そして20節から26節までは、私たちを含む全世界の教会のための祈りです。
 本日取り上げられた箇所は6節から19節までで、イエス様がこの世に残していく弟子たちのことを、父なる神様にとりなして祈られた箇所です。ここでは、イエス様は、父なる神様とイエス様が一つであるように、弟子たちも一つとなるように守ってください、と祈っておられます。イエス様ご自身が弟子たち、さらには、私たちのために「とりなしの祈り」をしてくださっているのです。
 
 6節で、イエス様は「世から選んで私に与えてくださった人々に、私は御名を現しました。」とおっしゃっています。イエス様の弟子たちは、神様が世から選んでイエス様に与えてくださった人たちでした。その彼らに、イエス様は御名、神の名前を現しました、と語っています。神の名前を現すとは、神ご自身、つまり父なる神様の本質を弟子たちに示したということです。最後の晩餐で、イエス様は「私を見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:9)とおっしゃいました。弟子たちは、イエス様と共に生活をする中で、その姿の中に父なる神様を見たのです。神様とはどんな方なのか、それはイエス様を見れば分かるのです。その弟子たちについて、イエスは6節の最後で「彼らは、あなたの言葉を守っています」と言って、弟子たちを褒めているのです。
 11節に「私は、もはや世にはいません。」とあります。もうすぐ自分はいなくなってしまう、そのときに「聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。」とイエス様は祈ってくださいます。これが私たちを思うキリストの、祈りの言葉です。
 12節には「私が保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。」とあります。この「滅びの子」とは「滅びに向かっている者」を示し、ここでは直接的にはイスカリオテのユダと考えられています。今日読まれた使徒書の使徒言行録の箇所では、このユダの滅びとこのユダに替わって12使徒の一人に選ばれたマティアのことが記されています。このマティアが前橋聖マッテア教会の守護聖人であるマッテアです。
 13節に「しかし今、私は御もとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、私の喜びが彼らの内に満ち溢れるようになるためです。」とあります。ここの「喜び」はギリシャ語では「カラー」です。「カラー」ば、神からの救いを見いだした人間の喜びを表します。
 死はイエス様にとって「神様のもとに」行くことであり、もといた場所に戻ることです。そして「私の喜び」とは、「神様のもとで」享受していた喜びであって、イエス様が自分だけで作り出した喜びではありません。神様のもとで享受した喜びを世へ運ぶことがイエス様の仕事であり、この喜びは父なる神様との交わりによって引き起こされました。この喜びは父なる神様からイエス様へ、そしてイエス様から弟子へ、さらに弟子から私たち信じる者へと伝わっていくのであります。
 15節に「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」とあります。イエス様の願いは、神様が弟子たちをこの敵意と憎悪に満ちた世から取り去ることではなくて、この世において彼らを悪者から守ることなのです。さらに、17節で弟子たちの共同体を悪い者から守るとはどういうことか説明しています。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの言葉は真理です。」とイエス様は祈っておられます。弟子たちが聖なる者になること、それが実は悪い者から守られることになるのです。 

 今日の福音書では、イエス様は残される弟子たちのために、十字架につかれる前に、悪い者から守られるよう、聖なる者となるよう神様へ「とりなしの祈り」をされました。
 私たちもイエス様がされたように、他の人のために「とりなしの祈り」をしたいと願います。
 実は、私たちは毎主日、礼拝の中で「とりなしの祈り」をしています。それが代祷です。世界の聖公会や管区、北関東教区の他の教会や東京教区のためや、当教会在籍信徒で記念日を迎える方々等のために祈っています。特に能登半島地震や聖地の人々のための祈りも捧げています。他者に代わって、その人のためにする祈りが代祷であり「とりなしの祈り」です。私たちはそれを、毎主日だけでなく日常的に行うことが大切であると考えます。
 
 「とりなしの祈り」については、この本、来住(きし)英俊神父の目からウロコシリーズの中の「とりなしの祈り」が参考になります。

 この本では「とりなしの祈り」の仕方を具体的に提案しています。私たちは、世界・日本の社会・苦しむ人々・愛する人々のために祈りたいと願います。しかし、それを継続的に祈るのはやさしいことではありません。粘り強く祈り続けるためにはどうすればいいか? その具体的な方法を提案しています。
 この本の冒頭にこうあります。
 『「とりなしの祈り」とは、自分以外の人のために神に願うことです。とりわけ、苦しんでいる人たちのために祈ることをいいます。』
 私は、平日、「朝の祈り」と「ロザリオの祈り」をしていますが、「ロザリオの祈り」の最後に「ファティマの祈り」を捧げています。それは、ポルトガルのファティマに現れた聖母マリアが3人の牧童たちに「ロザリオの祈り」の中で唱えるように依頼した祈りです。こうです。
「主イエス・キリスト、わたしたちの罪をゆるしてください。
わたしたちを滅びから救い、すべての人々、ことにおんあわれみをもっとも必要としている人々を天国に導いてください。アーメン」
 この祈りこそ、まさに「としなしの祈り」だと思います。  

 皆さん、イエス様は十字架につかれる前に、残された弟子たちが悪い者から守られるよう、聖なる者となるよう、父なる神様に「とりなしの祈り」をされました。それは私たちにも向けられています。
 神様はいつも私たちと共におられますので、私たちもイエス様がされたように、他の人のため、「とりなしの祈り」をして参りたいと思います。代祷や「ファティマの祈り」のような「とりなしの祈り」を、私たちが日常的に捧げることができるよう祈り求めて参りたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン