マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨日 聖餐式『聖霊を受け使命を果たす』

 本日は聖霊降臨日。午前・前橋、午後・新町の教会で聖餐式を捧げました。主日では1年に2回しかない赤の祭色でした。

 新町は前回から、前橋は今回から二種陪餐を再開しました。全員インティンクションで、一種の希望者は御聖体をいただいたら自席に戻るようにしました。
 聖書箇所は、使徒言行録2:1-11、詩編104:30-35とヨハネによる福音書20:19-23。説教では、聖霊により罪の赦しの権能と派遣の使命を与えられたことを知り、人々の罪を赦す者に変えられ、派遣された使命を果たすことができるよう、聖霊の助けを祈り求めました。
 本日の使徒書や福音書の舞台となった2階部屋(アパ・ルーム)の写真も活用しました。

<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨日(ペンテコステ)です。クリスマス、イースターと並ぶキリスト教の3大祝日の一つです。聖霊降臨日はイエス様の復活から50日目に聖霊が降ったことを記念する日です。日曜学校の子供たちには「教会の誕生日です」と言っていました。先ほど読んでいただいた使徒言行録2章1節以下にあるように、この日、弟子たちに聖霊が降り教会の活動が始まったからです。なお、復活日から今日までが復活節であり、「大いなる50日」とも言い、この日までパスカルキャンドルを設置します。ギリシャ語の「ペンテコステ」とは「50番目」という意味です。昇天日から使用してきた「み国が来ますように(Thy Kingdom come)」の「祈りのしおり」も最終日となりました。

 本日は、与えられているヨハネによる福音書の箇所を中心として、私たちに働いている聖霊について、考えたいと思います。

 本日の福音書は、復活節第二主日(今年は4月16日)にも読まれた箇所の前半部分です。イエス様の十字架の三日後、マグダラのマリアに復活の姿を見せたその日の夕方、エルサレムのとある家の2階部屋(アパ・ルーム)に弟子たちが密かに集まっているところに復活した主イエス様が現れた箇所です。ちなみに、この部屋は、イエス様と弟子たちが最後の晩餐をした部屋です。2018年にここを訪問したときの写真がこれです。

 現在の建築は、1335年にフランシスコ会による再建された物です。この部屋はマルコの母親の家と言われています。この当時、二階建ての家を持つということはかなり裕福だったと考えられます。今日の使徒言行録に記された復活日から50日目に聖霊が降臨したのもこの部屋でした。
 
 今日は、特に、今回与えられている福音書箇所の後半を中心に思い巡らします。聖書日課ヨハネによる福音書20章21節・22節をご覧ください。
『イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。』
 復活した主イエス様に会えて喜んでいる弟子たちにイエス様は、もう一度「あなたがたに平和があるように」と言います。この言葉はユダヤ人たちが挨拶としてしている「シャローム」というものですが、2度も言っているということは単なる挨拶を超えた意味であることを示しています。この平和は神様から来る賜物であり、イエス様を通して人に与えられます。その場合、平和は単なる無事や平安ではなく、神様がもたらす救いと同義であり、イエス様を通して神様から人に与えられる恵みの賜物を意味します。
 さらに、イエス様は弟子たちを「遣わす・派遣する」と言います。それが弟子たちの「ミッション・使命」です。これまで父である神様から派遣された者としてイエス様が地上で行ってきた使命を、今度は弟子たちが行っていくことになります。そして弟子たちが、その使命を果たすことができるように「聖霊」という神様からの力が与えられるのです。
 
聖霊」とは何でしょうか? 私たちは祈りの時に十字を切り「父と子と聖霊の御名によって」と言います。父である神様、その御子であるイエス様、それは分かるが、聖霊はどうも分かりにくいという方が多いかも知れません。聖霊とは、どのようなものをいうのでしょうか?
 「聖霊」の「聖」は「神の」という意味です。「霊」はギリシア語で「プネウマ」、ヘブライ語で「ルーアッハ」と言い、どちらも本来、「風」や「息」を意味する言葉です。古代の人は、目に見えない大きな力(生命力)を感じたときに、それを「プネウマ」とか「ルーアッハ」と呼び、それが神様からの力であれば「聖霊」ということになります。
 聖霊は目に見えないので、その働きを感じさせる「しるし」をもって表現されています。使徒言行録2章では「激しい風が吹いてくるような音」(2節)や「炎のような舌」(3節)がそれにあたり、ヨハネ20章では「息を吹きかけ」(22節)がその「しるし」です。
  ここでイエス様がなさった「息を吹きかけて」という行為は、創世記2章でアダムが創造された場面を思い起こさせます。
 その場面は創世記2:7で、こうあります。「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」
  ヨハネ20章22節の御言葉『彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。』は神様が天地創造の最後に人間を創られた時の、この言葉に対応していると考えられます。イエス様は弟子たちに息を吹きかけ、復活の命に生きる者へと新たに創造しました。これこそ永遠の福音です。神様の働き・神様とのつながり(聖霊)を受けることにより、私たちは父なる神様とイエス様を真に知ることができ、真に生きることができるのだと思います。 
 このことについては、後ほど聖別祷の特別叙唱として祈る中で簡潔に示されています。祈祷書の195ページですがこうあります。
「主イエス・キリストは天に昇り、父の右に座して後、公会に聖霊を降し、そのみ力によって万国に永遠の福音を宣べ伝えさせられました。わたしたちは聖霊によって闇と惑いの中から明らかな光に導かれ、父とそのみ子イエス・キリストをまことに知ることができます」
 イエス様は昇天の後、聖霊を降し、それによりすべての国に永遠の福音を宣べ伝えました。私たちは聖霊により闇から光に導かれ、父なる神様とイエス様を真に知ることができるのです。このことを記念するのが本日の聖霊降臨日なのです。

 23節をご覧ください。『誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」』です。
 これは、どういう意味でしょうか? 
 これは、21節の中で「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」と父なる神様がイエス様を派遣したように、弟子たちもイエス様から派遣の使命をいただきますが、その目的が示されています。イエス様が弟子たち、そして私たちを派遣する目的、それは「罪の赦し」をもたらすためだと言っているのです。

 さらに、今回この箇所をギリシャ語で読んだときに、新たな気づきが与えられました。それは「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」と日本語では前後どちらも「遣わす」と訳された言葉が、ギリシャ語では別の単語だったということです。「父が私をお遣わしになったように」の「遣わす」は「アポステッロー」の完了形、「私もあなたがたを遣わす」の「遣わす」は「ペムポー」そのままの現在形でした。「アポステッロー」から「アポストロス(使徒)」という名詞が生まれました。ギリシャ語辞典では「アポステッロー」も「ペムポー」も「送る、遣わす、派遣する」でした。「ペムポー」が「送る、遣わす」を表す一般的用語で、「アポステッロー」は「アポ(から離れて)」と「ステッロー(遣わす)」の合成語とのことでした。もっと詳しいこの「ギリシア新約聖書釈義辞典Ⅲ」で「ペムポー」を引いてみましたら、こうありました。

『復活後の主は神的な救いの業を行う力を弟子集団に委譲する(現在形!)。それによって、父ないし子による弁護者(パラクレートス)の派遣も可能になる。地上のイエスの言葉と行いは、臨在するキリストの霊が教会において証しを行う時に初めて、その真の価値を十全に発揮することができるのである。』
 分かりにくい文章ですが、これはこういうことではないでしょうか? 
『復活したイエス様が弟子たちを派遣するに当たり「アポステッロー」でなく「ペムポー」が用いられているのは、派遣された弟子たち、あるいは私たちが、イエス様から離れて遠くに派遣されるのではなく、イエス様を派遣した父なる神様がいつもイエス様と共にいたように、復活したイエス様は聖霊という形でいつも私たちと共におられるのだ。』と。
 私たちが派遣されるに当たり、復活されたイエス様が聖霊としていつも一緒にいてくださる、なんとも感謝なことであります。

 皆さん、イエス様は他人の罪を赦すことを命じておられます。しかし、私たちはなかなか人の罪を赦すことはできません。そんな私たちにイエス様は息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。」と言われます。それは「私自身を受けなさい」と言っておられるように思います。人の罪を赦すことができるようにイエス様は聖霊を受けるよう促しておられます。聖霊によってもたらされる「罪の赦し」です。人の罪を赦すことは人間の力でできるのものではありません。聖霊によって神様が私たちにその権能をお与えくださるのです。   
  
 今日は聖霊降臨日です。聖霊により罪の赦しの権能と派遣の使命を与えられた信仰共同体である教会が誕生した日です。聖霊は、聖霊降臨日に初めて注がれたのではありません。聖霊天地創造の時から与えられているのです。
 私たち一人一人も神様の息(聖霊)によって新たに生かされたことを喜び、人々の罪を赦す者に変えられ、派遣された使命を果たすことができるよう、聖霊の助けを祈り求めたいと思います。 
 「み国が来ますように(Thy Kingdom come)」の「祈りのしおり」(本を見せる)の本日の祈りを唱えて、終わりにしたいと思います。
『ご自分の息を吹き入れ、世界を新たに作り変えてくださる主よ、この世界をあなたの平和のみ国へとするために、私たちに聖霊を激しく注いでください。あなたの息によって私たちを整えてください。聖霊降臨によって 弟子たちがひとつとなって使命を果たしたように、私たちの教会をひとつとし、平和の器として用いてください。そしてすべての人がこの世界において喜びのうちに互いに慈しみ合い、安心して過ごすことができますように。この祈りを主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。』