マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

昇天日 『イエス様の昇天という福音』

 本日は昇天日です。前橋の教会でその記念の聖餐式を捧げました。
 本日の聖書箇所は、使徒言行録1:1-11、詩編47、エフェソの信徒への手紙1:15-23及びルカによる福音書24:44-53。説教では、イエス様の昇天とは、神様の普遍的な愛と私たちも天においてイエス様と共にいるという希望の福音であることを知り、その恵みに感謝し、私たちが今も後も絶えずイエス様と共にいることができるよう祈り求めました。
 テーマと関係する聖歌498番の歌詞や星野富弘さんの詩画集「足で歩いた頃のこと」の中の文章も活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は昇天日です。本日は復活日から40日目の日に当たります。昇天日は7つある主要祝日の一つです。昇天日以外の主要祝日は、復活日・聖霊降臨日・三位一体主日・降誕日(12/25)・顕現日(1/6)・諸聖徒日(11/1)であります。 
 復活したイエス様は40日にわたって弟子たちに姿を現した後、天に上げられました。そこから、昇天日は復活日後40日目の復活節第6木曜日に祝われることになりました。多くのキリスト教国、フランスやドイツなどでは昇天日は法定休日となっています。

 本日の福音書ルカによる福音書24:44-53で、ルカ福音書の結びにあたります。この箇所は2つの段落からなっています。44-49節と50-53節です。本日は昇天日ですので、主に後半について見ていきます。
 50・51節に「それからイエスは、彼らをベタニアまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」とあります。「祝福」という言葉が2回続いて使われています。天に昇る直前も、そして天に上げられながらも、イエス様は弟子たちを祝福されたのです。イエス様は私たちをも祝福されるでありましょう。
 さらに52・53節に「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに戻り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」とありますが、この「伏し拝む」は「礼拝する」ことを表す言葉で、弟子たちがイエス様を礼拝したことが記されています。ここで初めて弟子たちはイエス様とはどういう方であるかを本当に悟ることになったのです。

 イエス様の昇天については2つの意味があると考えられます。
 一つはイエス様が天に昇り、神様の右の座に着いたということから人の子であるイエス様が神の栄光の状態に上げられ、御父のもとで最高の権威に参与されたことです。父なる神様と一つであることが示されたのです。また、イエス様が天に昇られたので、ユダヤ人だけでなく、どんな国の人も神様のもとに私たちは共に歩むことができるようになりました。「天」からなら世界中の人にイエス様のメッセージを届けることができるのです。それは、神様の普遍的な愛、それを全ての人が受けられるようになった、ということです。
 もう一つは、イエス様の昇天が私たちの昇天の原型であり、保証でもあるということです。本日の特祷に「わたしたちは独りのみ子イエス・キリストが天に昇られたことを信じます。どうかわたしたちも心と思いを天に昇らせ、絶えず主とともにおらせてください。」とありますように、私たちも、私たちに先駆けて天の栄光に入られたイエス様に倣って、いつかイエス様とともにいることができるという希望のうちにこの出来事を祝うのであります。

 このことを示している聖歌があります。先ほどの福音書前の聖歌 498番「主われを愛す」の3番です。こうあります。
『みくにの門(かど)を ひらきてわれを 招きたまえリ いさみて昇(のぼ)らん
  わが主イエス わが主イエス わが主イエス われを愛す 』
 天に昇られたイエス様は、天国の門を開いて私たちを招いて下さいます。私たちも喜び勇んで天国に昇っていきましょう、という意味です。
 なお、ここのオリジナルの英語を直訳すればこうなります。
「イエスは私を愛しておられる! 主はいつも私のそばに寄り添ってくださる。私が主を愛すると、私が死ぬとき、主は私を天のふるさとに、つれていってくださる。」
 これは天のふるさとに入れる信仰、確信への賛美であり、私たちが天国に招かれるのはイエス様の昇天のお陰なのです。今日はそのことを感謝する昇天日の礼拝であります。
 
 さらに、「復活→昇天→聖霊降臨」を時間的な流れの中で起きた出来事としてとらえたいと思います。「復活」は、イエス様が死に打ち勝ち今も生きているという面を表します。「昇天」は、イエス様が神様のもとに行き、そこで神様とともに永遠の命を生きる方となったという面を表します。そして「聖霊降臨」は、イエス様が目に見えないけれども私たちのうちに今も働いていてくださることを表していると言えます。特に、「昇天」から「聖霊降臨」については、今日からの11日間を、神様とイエス様の恵みを覚え、管区から送られてきた小冊子「み国が来ますように(Thy Kingdom come)」という「祈りのしおり」を毎日使用することで、この意味も実感することができると考えます。

 なお、この運動は、祈りを通してイエス様との交わりを深め、主を証し、他の人をイエス様のもとに導くことを目的としています。ぜひ、皆さんの周りでイエス様のもとに導きたい5人の方の名前をご自分のしおりに書いて祈っていただきたいと思います。私も福音を宣べ伝えたい5名の名前を記しました。

 今回私の心に響いたのは、イエス様の本当の故郷は神のもとだということです。人間のイエス様の故郷はナザレでしたが、本当の故郷は神様のもとだったのです。では私たちはどうなのかというと、私たちの本当の故郷も、イエス様と同じように、この地上にあるのではありません。私たちもイエス様と次元は違いますが、私たちも神様のもとから来て神様のもとに帰っていく存在であるということを、イエス様の昇天と共に、もう一度思い起こしたいと思うのであります。

 先日の星野富弘さんの前橋キリスト教会での葬儀では、祭壇に「私たちの国籍は天にあります」というプラカードが掲げられていました。
 司式された内田和彦牧師は、こう祈っておられました。「あなたは、富弘兄をお召しになりました。富弘兄はその不自由な身体から解放され、天の故郷に帰って行かれました」と。
 私は、イエス様が富弘さんを大きな手を広げて招いておられる様子が目に浮かびました。このことを、富弘さんはこの詩画集「足で歩いた頃のこと」の中の「真っ直ぐに」(P.42)の詩画で表していると思いました。

 こうあります。
「坂道もあるけれど 
 この道の先には 両手を広げて待っている人がいる 
 真っ直ぐにこの道を行こう」
 私たちも、両手を広げて待っておられるイエス様に向かって真っ直ぐに歩いて行きたいと願うものであります。
 
 皆さん、イエス様の昇天の出来事は、神様の普遍的な愛と私たちが天においてイエス様と共にいることができるという希望の福音を伝えています。天に昇る直前も、天に上げられながらも、弟子たちを祝福されたイエス様は、私たちをも祝福し、私たちを両手を広げて招いておられます。私たちはその恵みに感謝し、今も後も絶えずイエス様とともにいることができるよう祈り求めて参りたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン