マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活節第7主日(昇天後主日)聖餐式『「イエスの祈り」に倣う』

本日は復活節第7主日(昇天後主日)。前橋の教会で聖餐式を捧げました。 聖書箇所は、使徒言行録1:8-14、詩編47とヨハネによる福音書17:1-11。説教では、十字架直前におけるイエスの祈りについて知り、私たちも神を崇め、神に自分の魂を委ね、心を合わせてひたすら祈るとともに、生涯、神とイエスを信じて受け入れ、「互いに愛し合う」という戒めを守って生きるよう祈り求めました。
 本田哲朗神父訳の聖書「小さくされた人々のための福音」も活用しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は教会暦では「復活節第7主日」であり、同時に、「昇天後主日」と呼ばれる日でもあります。この前の木曜日に私たちは昇天日の礼拝を捧げました。そして来週の日曜日が聖霊降臨日となります。今日私たちは、昇天日と聖霊降臨日の間にいます。
 本日の特祷では、「み子イエス・キリストに永遠の勝利を与え、天のみ国に昇らせられた栄光の王なる神よ、どうかわたしたちをみなしごとせず、聖霊を降して強めてください。そして救い主キリストが先立って行かれたところに昇らせてください。」と、祈りました。イエス様が、「天に昇られた」ということから、この世に残された私たちを「みなしご」とせず、すなわち、「孤児」としないで、聖霊によって強めて下さいと祈ったのでした。

 本日の福音書は、ヨハネによる福音書の17章1節から11節で、弟子たちにした告別説教と言われる別れの言葉の最後、十字架の直前にイエス様が父なる神に祈られた箇所です。聖書協会共同訳聖書では「イエスの祈り」と表題があります。このヨハネ福音書17章は「大祭司の祈り」とも呼ばれています。それはイエス様が祭司の代表として人間のために神にとりなす祈り(代祷)をしたからと思われます。私たち聖公会では、このヨハネ福音書17章を3年サイクルの教会暦に従って、毎年この主日に3分割して読むことになっています。17章全体は、①イエス様ご自身のための祈り(1~5節)、②弟子たちのための祈り(6~19節)、そして、③すべての人々のための祈り(20~26節)の3つの祈りに分けられます。本日は、①イエス様ご自身のための祈りと②弟子たちのための祈りの前半の箇所が割り当てられています。

 本日の箇所を振り返ります。
 1~5節ではイエス様の栄光(神の臨在)により人々に永遠の命が与えられることが語られます。
 イエス様は、最初に「父よ、時が来ました」と呼びかけておられます。ここで、イエス様は、ご自分に差し迫っている時、これから受けようとする苦難と死を予感しながら祈っておられる「時」であることが分かります。
 3節に、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあります。これはどういうことでしょうか?
 永遠の命とは、「神の国」、「天国」と同じ意味です。ここの「知る」は、ギリシャ語で、「ギノースコー」という言葉が使われています。この言葉は、単なる知識ではなく、神とキリストとの人格的交わりを意味します。神を「知る」とは、神様についての知識を持つことではなく、神様を信じ、その信仰にふさわしく生きることを表します。ヨハネの手紙一では、『「神を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であり、その人の内に真理はありません。』(Ⅰヨハネ2:4)と述べられています。キリスト者は神とキリストを「知って」生きる者であります。「神を知る」とは、神が人を愛したように、「互いに愛し合う」という戒めを守って生きることと言えます。
 ですから、「永遠の生命」とは、父である神と、子であるイエス・キリストを、信じて、受け入れ、「互いに愛し合う」という戒めを守って生きることです。そのことを知らせるためには、栄光の神の子が、苦難と十字架の死を通らなければなりませんでした。その時が来ました。イエス様は、今、その使命を果たし、父である神様のもとに帰り、再び、栄光の座に着こうとしているのであります。

 イエス様が不在となる心細いときに、今日の福音書が与えられています。今日の福音書の6節以降で、イエス様は私たちのために神様に祈ってくださっています。
 6節の最初の文はこうです。
『世から選んで私に与えてくださった人々に、私は御名を現しました。』
 これはどういう意味でしょうか?
「世から選んで私に与えてくださった人々」とは、一義的には今、イエス様の前にいる11人の弟子のことですが、広く考えれば今この福音を聞いている私たちとも言えると思います。その人々にイエス様は御名を現したというのです。聖書協会共同訳では分かりにくいですね。ここを本田哲朗神父の訳の聖書「小さくされた人々のための福音」で見てみます。

 こうありました。
『あなたが世から取り分けて委ねてくれた人たちに、わたしはあなたご自身を現しました。』
 日本語でも「名は体を表す」と言いますが、ここの御名とは、父なる神の本質を示します。今、イエス様は父なる神と対話して祈っており、「わたしはあなたご自身を現しました。」と神に向かって告白しています。さらに10節で「私のものはすべてあなたのもの、あなたのものは私のものです。」と言っています。これらは、「イエス様は神である」というイエス様の神性宣言であります。
 そして、11節には「私は、もはや世にはいません」とあります。もうすぐ自分はいなくなってしまう、そのときに「聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。」とイエス様は祈ってくださいます。「父なる神さまご自身で弟子たちを守ってください。」これが私たちを思うキリストの、祈りの言葉です。イエス様がいない、そのことで心細く思うかもしれない、あるいは絶望に落ち込むかもしれない、そのような私たちの心を先取りして、イエス様が神様に祈ってくださるのです。さらにその目的は何かと言えば「私たちのように、彼らも一つとなるためです。」とあり、父なる神とイエス様が一体であるように、弟子たち、イエス様に属する者たちが一つとなるためにイエス様は御名(神の名)によって守護を祈っておられるのです。
 なお、先ほど紹介した本田神父訳では、ここの6節以降の表題は「イエスに委ねられた、世の小さくされた者たちを守ってください」とあります。
 
 そのように私たちのために祈ってくださるイエス様の弟子として、私たちはどうあればいいのでしょうか? 
 それは本日の使徒書に示されています。使徒言行録の1:8以下で、イエス様が天に昇られた後に、弟子たちが一つの部屋に集まってしたようにすることと言えます。14節にこうあります。「彼らは皆、女たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。」
 これが信徒、そして信仰共同体である教会の姿だと思います。心を合わせてひたすら祈ることです。

 ところで、新型コロナウイルス感染症が5月8日から5類感染症に移行となり
ました。実に3年以上、私たちは日常生活では三密を避ける、ソーシャル・ディスタンスを取るなどに配慮してきましたが、ここでのイエス様の祈りは姿勢としてはまったく逆と言えます。神様との人格的な交わりを勧め、弟子たちが一つとなることを祈っています。神様との密接な関係を維持し、こういう言葉があるか分かりませんが、神様とのスピリチュアル・ディスタンス(霊的な距離)を近くに取るということに努めたいと思います。

 そのためには、具体的にどうすればいいでしょうか? 日々、聖書を読み祈ることが考えられます。今であれば、「昇天日」から「聖霊降臨日」の11日間を黙想する小冊子「み国が来ますように(Thy Kingdom come)」という「祈りのしおり」を毎日使用することをお勧めします。この「祈りのしおり」は昨年から主教会が黙想文を作成し、日本人に即した内容となっています。今日は4日目で、悔い改めたザアカイから黙想しています。ぜひ毎日、この小冊子を活用してほしいと思います。
 なお、この運動は、祈りを通してイエス様との交わりを深め、主を証し、他の人をイエス様のもとに導くことを目的としています。ぜひ、皆さんの周りでイエス様のもとに導きたい5人の方の名前をご自分のしおりに書いて祈っていただきたいと思います。私も福音を宣べ伝えたい5名の名前を記し、毎日の「朝の祈り」の中で名前を挙げて祈っています。

  皆さん、私たちキリスト者の模範はイエス様です。十字架の直前にイエス様はご自分に神様が栄光を与えて下さるように、また、神様が守って下さるよう私たち人間のために祈っておられます。私たちも神様を崇め、神様に自分の魂を委ね、心を合わせてひたすら祈りたいと願います。そして、生涯、父である神と子であるイエス様を信じて受け入れ、「互いに愛し合う」という戒めを守って生きることができるよう祈り求めて参りたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン