マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

顕現後第3主日 聖餐式『「人間をとる漁師」であるイエス様に応える』

 本日は顕現後第3主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、ヨナ書3:1-5・10、詩編62:5-12、コリントの信徒への手紙一7:29-31、マルコによる福音書1:14-20。 
 説教では、最初の弟子の召命の箇所から「人間をとる漁師」であるイエス様の招きに応え、イエス様に従って、日々歩むことができるよう祈り求めました。
 本日の福音書箇所の舞台であるガリラヤ湖のほとり等の写真も活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 1月1日に発生した能登半島地震の死者は230人を越え、未だ20人以上の行方不明者がおり、およそ3万人が避難生活をしています。この寒さで学校の体育館やビニールハウス、自家用車での避難を思うと胸がつぶれるような思いがします。海外に目を転じれば、ウクライナでの戦闘も未だ激しく、パレスチナではガザ地区の死者が2万4千人を超えています。私たちにできることは、共に祈ることです。今日の礼拝から「能登半島地震のための祈り」と「聖地の人々のための祈り」を代祷で祈ることとします。代祷は英語でintersessionで、カトリックでは「とりなしの祈り」と言います。「とりなしの祈り」とは自分以外の人のために神に願うことです。とりわけ、苦しんでいる人たちのために祈ることを言います。「能登半島地震のための祈り」と「聖地の人々のための祈り」は「とりなしの祈り」にふさわしいと考え、移動しました。共に祈りを捧げましょう。 

 さて、本日は顕現後第3主日です。期節としては顕現節です。顕現節は、主イエス・キリストの出現を公言する(おおやけにいう)期節です。顕現節は顕現日(1月6日)から大斎始日(灰の水曜日)の前日まで、今年は2月13日までです。

 顕現後第3主日福音書は、イエス様の公生涯の第一声から選ばれています。
 B年の本日の福音書箇所はマルコによる福音書 1:14-20節で、「悔い改めて福音を信じなさい」と私たちに回心を呼びかけています。また、旧約聖書はヨナ書3章からで、ヨナは自分の狭い見方を改めてすべての人の救いを望まれる神の意志に従っています。そして、使徒書はコリントの信徒への手紙一7章からで、パウロは「時が縮まっている」、つまり「定められた時が迫っている(新共同訳)」のだから、「イエス様への信仰を最優先しなさい」と説いています。こうして、本日の聖書では「福音を信じ、新しい生き方を始めなさい」と、繰り返し私たちに勧めています。福音とは、み言葉、神の言葉です。

 福音書を中心に考えます。本日の福音書の内容は、大きく2つの部分からなっています。イエス様のガリラヤ宣教の要約(14-15節)と最初の弟子の召命(16-20節)です。聖書協会共同訳聖書の小見出しは「ガリラヤで宣教を始める」と「四人の漁師を弟子にする」となっています。

 まず、14-15節です。こうあります。
ヨハネが捕らえられた後、イエスガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言われた。』
 この箇所の「時」のギリシャ語原文は「カイロス」であり、ここでは「神が救いを完成させる終末の時」を表しています。また、「悔い改める」のギリシャ語は「メタノエオー」で、この言葉はヘブライ語「シューブ」に当たります。「シューブ」は「立ち帰る」であり、元々の意味は「元いた場所に戻る」ということで、ここでは「神の許に帰る」ということです。それが「悔い改める」ということです。そのことを、イエス様は勧めておられるのです。

 16-18節をご覧ください。
『イエスは、ガリラヤ湖のほとりを通っていたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。』とあります。
 シモンとは、後に教会のリーダーとなるペトロの本名です(ちなみにペトロとはイエス様が彼につけたニックネーム「ケファ(岩)」のギリシャ語読みです)。イエス様は、シモンとアンデレという漁師の兄弟の仕事の様子をご覧になり、「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。すると二人はすぐに網を捨てて従ったのでした。
 これがペトロとアンデレの召命物語です。場所はどこでしょうか? ガリラヤ湖のほとりです。 

 現在この場所にはペトロ召命教会という名前の教会があります。私は2018年に聖地旅行をした時に、この場所にも訪れました。

 イエス様は漁師の兄弟二人に魚や貝ではなく「人間をとる漁師にしよう」と言われたのです、「人間をとる漁師」とは何か・・・。私はこう思います。「何よりもまずイエス様が、人間をとる最高の漁師であられたのだ」と。漁師は普通魚をとって、食べたり売ったりして、生活の糧を得るためにそうするのですが、人間をとる漁師であるイエス様は、人間をとって食べるわけではありません。イエス様は、人間をとって、御自分のいるところ、御自分がつながっている命の源である神様につなげるために「とる」お方ではないかと思います。
  
 次に、イエス様は舟の中で網の手入れをしてるゼベダイの子のヤコブヨハネの兄弟をご覧になり、そしてお呼びになりました。するとこの二人もイエス様の後に付いていました。「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、」とありますが、雇い人がいたということは裕福だったということだと思います。そういう裕福な状況を捨てて、ゼベダイの子のヤコブヨハネの兄弟はイエス様に従ったのです。
 
 イエス様が弟子を招くパターンは三つの動作で示されています。まずイエス様が「ご覧になる」、次に「私に付いて来なさい」と呼びかける。そして、弟子になる人たちがイエス様に「従う」のです。イエス様は私たちの日常をよく見てくださいます。シモンとアンデレは舟の中で網を打っていました。ヤコブヨハネは舟の中で網のつくろいをしていました。その日々の日常をイエス様は、「ご覧になり」、そして「私に付いて来なさい。」と呼びかけられました。すると、この漁師たちは、すぐに、イエス様に「従った」のです。
 漁師であるシモンとアンデレの兄弟、そしてヤコブヨハネの兄弟が、すぐに自分の仕事の糧である網を捨てて、裕福な状況を捨ててイエス様に従ったのは常識的に考えれば、あまりに変であると思います。しかし、ヨハネ福音書1章35節以下によれば、洗礼者ヨハネの弟子だったアンデレは既にイエス様のことを知っていて、兄弟のペトロに紹介していましたし、漁師仲間のゼベダイの子のヤコブヨハネにも話していたように思います。イエス様から「私に付いて来なさい。」と言われたとき、この4人はこの方こそが「真実の漁師」で、付いていくべき存在だと理解し、呼びかけに応え、信じて従ったのではないかと考えます。

 イエス様に従っていくために、私たちも何かを捨てなくてはならないと思います。それは必ずしも今の仕事ということではないように思います。それは囚われとか執着とか、過去の私を縛っている生き方、などです。それによって新しい価値観の聖なる世界に招かれるのだと思います。具体的に言えば、富や地位や力という世俗の価値観を捨て、神様に従い仕えることで真の平安を得る事ができるという聖なる価値観への転換です。この世中心だった生き方を神中心に変え、主に立ち帰ることを神様は望まれています。そして、そうするよう神様は私たちの現場に赴き、招いておられるのです。

 本日のこの箇所から、私には思い当たることがあります。私がこの信仰に入った時のことです。
 私は26歳の時、1981年のイースターに洗礼を受けました。キリスト教との出会いは入学した大学が、たまたまキリスト教主義学校だったことです。卒業後、教師として群馬県の山間部の小学校に赴任し3年を過ごし、そこではなんとか務めることができました。しかし、その後、都市部の中学校の教師になった時、その学校がかなり荒れていてどう対応したらいいか思い悩み、同僚の教師からは「もっと厳しく指導すべきだ」と言われ、行き詰まってしまいました。ついには学校に行けず、不登校のような状態にまでなってしまいました。そんなある時、25歳でアドベントの頃、河川敷の駐車場に車を止め街の中心に行こうとして歩いていたら、たまたま出身大学と同じ聖公会の教会があり、何かに呼ばれるようにその門をくぐり礼拝に参列しました。今は榛名の施設におられるM・Kさんが私に優しく声をかけてくださり、隣に座り導いてくれました。それからこのマッテア教会に通うようになり、翌年のイースターに受洗し、生き方が変わりました。そして、その後いろいろありましたが、定年の60歳まで教師として勤めることができました。そうできたのは、主が25歳の私を「ご覧」になり、「私に付いてきなさい」と呼びかけ、主の導きにより「従った」からです。この出来事は、今思えば、神様が私の現場に赴き招いてくださったことです。そして、それを直接私になさったのは「人間をとる漁師」であるイエス様だったのだと思うです。
 
 皆さん、イエス様は私たちを、神様のもとに運び、結び付ける「人間をとる漁師」です。この方こそ従うべき存在だと分かった時、私たちは「すぐに」招きに応えるのであります。それがイエス様の弟子である私たちの召命です。この世中心だった生き方を神中心に変え、主に立ち帰ることを神様は望まれています。このことを心に留め、「私に付いて来なさい」と招いてくださったイエス様に感謝して、それに応え、イエス様に従って、日々歩むことができるよう祈り求めて参りたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン