本日は大斎節前主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、
列王記下2:1-12、詩編50:1-6、コリントの信徒への手紙二4:3-6、マルコによる福音書9:2-9 。
説教では、「キリストの変容」の箇所を通して、イエス様に聞き従い、イエス様と同じ栄光の姿に変えてもらうよう祈り求めました。
本日の箇所を描いた冊子「絵で見るロザリオの祈り」の黙想の絵「イエス、タボル山で栄光の姿を現す」も活用しました。
説教原稿を下に示します。
<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン
能登半島地震発生から40日が過ぎ、死者は240人を超し、約14,000人が避難所生活を余儀なくされ、住居の破損は6万戸を超しています。連日テレビで様々な報道がなされていますが、先日は奥さんと義理の父を土砂崩れで亡くした人が出ていました。土砂の中から奥さんからプレゼントされた腕時計が出てきて感極まり、「どうして私がこのような目に遭わなければならないのか?」という思いがあふれ、「とにかく二人を帰してほしい」と涙ながらに訴えていました。「私たちができることは何なのか」考えていきたいと思います。
さて、本日は、教会の暦では「大斎節前主日」という主日で、今週の水曜日、14日から「大斎節」に入ります。
本主日の福音書はマルコによる福音書9:2からの、いわゆる「変容貌(キリストの変容)」の箇所で、イエス様が受難予告をされて、エルサレムに行くと決めてから6日後の出来事だと言われています。
この箇所が「大斎節前主日」に取り上げられるのは、この出来事がイエス様の生涯の中で、ちょうど半ばあたりに置かれ、これ以後今までのガリラヤからエルサレムでの十字架、復活へと進展していくことが、イエス様の地上での生の前半を記念してきた顕現節から、後半の部分を記念する大斎節へと入っていくのと重なっているからです。
今日の福音書箇所について、解説を加えて振り返ります。
イエス様は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人を連れて、高い山に登られました。その山の上において、弟子たちの目の前で、イエス様の姿が変わったという出来事が起こりました。ここのギリシャ語原文を直訳すると「彼は姿が変えられた」で、神的受動形(行為の主体が神であることを婉曲的に示す受動形)であり、これはイエス様の姿を変えたのは他ならぬ神様だということです。さらに「衣は真っ白に輝いた。それはこの世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどだった」と記されています。衣が真っ白に輝き、「この世の」とわざわざ断ったのは、この白さが天上の輝きから発出していることを示しています。その光景は、イエス様が神の栄光をお受けになったことを表す姿です。
そして、そこで、弟子たちは、不思議な光景を目にしました。モーセとエリヤが現れ、イエス様と話し合っておられたのです。モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の中心部分を表し、この3人が語り合うとは、イエス様の受難と復活が、聖書に記された神様の計画の中にあることを示していると考えられます。
多くの画家がこの場面を描いていますが、私はこの絵に今、一番親しみを感じています。
私は火曜から金曜の午前10時半から「朝の祈り」と「ロザリオの祈り」をしていますが、後者では今「絵で見るロザリオの祈り」の冊子を使っており、この絵はこの中の「光の神秘」第4の黙想の絵「イエス、タボル山で栄光の姿を現す」であります。この絵では、山の上で姿を変えられたイエス様が輝く光のオーラと雲の中にモーセとエリヤを伴い、浮かんでいます。そして、下の地上には三人の弟子たちがいます。
聖書に戻ります。弟子たちは、その変容貌の光景から、イエス様がモーセとエリヤを相手に親しく語り合っておられると、とっさに思ったのです。そこで、ペトロは思わず口走りました。「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために。」と。
ペトロが幕屋を建てようと言っているのは、このあまりに素晴らしい光景が消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからと考えられます。ちなみにここで「幕屋」と訳されている言葉(スケーネー)は、遊牧民が寄留地での住まいとする「幕屋・天幕・仮小屋」を表します。この前の新共同訳聖書では「仮小屋」、口語訳では「小屋」と訳されていましたが、「幕屋」が原文に一番近いと考えます。「幕屋」は神様を礼拝する場所でもあります。
さて、そのうちに、雲が彼らを覆いました。雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。すると、「これは私の愛する子。これに聞け」という声が、雲の中から聞こえました。声の主はもちろん父なる神様です。「私の愛する子」という言葉は、ヨルダン川でイエス様が洗礼を受けられたときに天から聞こえた声と同じです(マルコ1:11)。洗礼の時から「神の愛する子」としての歩みを始めたイエス様は、ここからは受難の道を歩むことになりますが、その時に再び同じ声が聞こえます。つまりここで、この受難の道も「神の愛する子」としての道であることが示されたのです。「これに聞け」の「聞く」はただ声を「耳で聞く」という意味ではなく、「聞き従う」ことを意味します(申命記18:15等)。弟子たちが急いであたりを見回しますと、そこには、イエス様のほかには誰もいませんでした。
イエス様は、山を下っているとき、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」と、弟子たちに命じられました。
これが、山の上でイエス様の姿が変わられた(変容貌)という出来事です。
この箇所を通して、神様は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか?
7節に「これは私の愛する子。これに聞け。」とあります。この言葉の前にペトロは5節でイエス様とモーセとエリヤに一つずつ「幕屋」を建てようと提案しています。これは、ペトロはイエス様をモーセやエリヤと同列に置いていると言えます。しかし、その提案は神様から退けられ、神様は「イエス様に聞きなさい」と教えられました。この神様の声は、イエス様こそが旧約聖書を成就する者であることを明らかにしています。そして、イエス様こそ神様が愛してやまない我が子であることが示されました。さらに神様は「これに聞け」とつけ加えました。イエス様が語る通りに、イエス様が行う通りにあなたがたはしなさい、ということです。
この声が聞こえた後、弟子たちが周囲を見回すと、誰も見えず、イエス様だけが自分たちと共にいるのに気がつきます。弟子たちと共にいるイエス様は、これから十字架の道を歩みます。神様は弟子たちがイエス様と共に十字架を担うことを求めておられるのです。
十字架の道こそが栄光への道です。それを教えるために、神様が山の上で天からの栄光を弟子たちにまざまざと示して、「イエス様に聞き従って受難の道を歩むように」と呼びかけたのです。「イエス様と共に十字架を担い、永遠の栄光を目指して歩むべきだ」と。それこそが神様が求めておられることであります。
皆さん、イエス様は私たちをも神様に出会う山に連れて行ってくださいます。「これは私の愛する子。これに聞け。」という言葉は、私たちにも向けられています。「イエス様に聞く」とはイエス様の言動(言葉と行い)に聞き従うことです。
本日の礼拝の退堂で歌う聖歌457をご覧ください。これは前橋の日曜学校でよく歌った聖歌で、各節の最初はそれぞれ、1「主に従い行くは いかに喜ばしき」、2「主に従い行くは いかに幸いなる」、3「主に従い行くは いかに心強き」です。主に従うことが「喜び」「幸い」「強さ」なのであります。
聖書に戻ります。「イエス様に聞く」とは本日の福音書箇所では、受難に向かうイエス様と共に十字架を担うことです。しかし、それは自分の力でできるものではありません。日々聖書を読み祈り、主日の礼拝に参列すること等により、それぞれの十字架を負う力が強められ、徐々にキリストの姿に変容させられていくのだと思います。
神様が山の上で天からの栄光を弟子にまざまざと示して、「イエスに聞き従って受難の道を歩むように」と呼びかけています。私たちは信仰によってそれを負う力を強めていただき、神様によってイエス様と同じ栄光の姿に変えていただけるよう、祈り求めて参りたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン