マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活節第4主日 『良い羊飼いであるイエス様に従う』

 本日は復活節第4主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は
使徒言行録4:5-12 、詩編23 、ヨハネの手紙一 3:16-24及びヨハネによる福音書10:11-18。説教では、イエス様こそ私たちを導く「良い羊飼い」であることを知り、そのみ声に生涯聞き従っていくよう祈り求めました。
 吉田雅人主教の「特祷想望」にある「み旨」についても言及しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 先主日は「み言葉の礼拝」でS・Mさんが司式をされ、その中で私の説教を代読していただきました。その中で、神に立ち帰り悔い改めた「キリストの証人」として紹介したN・Mさんが先週の月曜15日に逝去され、一昨日の金曜19日に当教会で葬送式が執り行われました。ヨセフN・Mさんの魂の平安とご家族に慰めがありますようお祈りいたします。

 さて、本日は復活節第4主日です。復活節第4主日は、「良い羊飼いの主日Good Shepherd Sunday」と言われ、毎年、ヨハネによる福音書第10章の「良い羊飼いのたとえ」が読まれます。そのことから、将来の良い羊飼い・牧者を育てるという意味で「神学校のために祈る主日」とされ、聖公会神学院・ウイリアムス神学館のため、この後、代祷を捧げます。

 先ほどお読みしました福音書の箇所、ヨハネ福音書10:11-18について思い巡らしたいと思います。
 本日の福音書では、良い羊飼いであるイエス様を3つの側面から述べています。第1は、イエス様は羊のために命を捨てる「羊飼い」であること。第2は、羊を知り、羊に知られている「羊飼い」であること。第3は、囲いに入っていない羊をも導く「羊飼い」であることです。
 今回は2つ目の側面を中心に考えてみたいと思います。
 
 イエス様は14・15節で言われます。「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。」と。
 この箇所では4回「知って」という言葉が繰り返されています。
 ギリシャ語の「知る」には二つあります。「オイダ」と「ギノースコー」です。前者は「見ている、知識を持っている」、後者は「観察、経験により知るようになる」というニュアンスがあります。「オイダ」は単に知覚の範囲内にあることを示すのに対し、「ギノースコー」はしばしば知る者と知る対象との間に能動的な関係があることを示していると考えられます。
 今回のこの箇所では「ギノースコー」が使われています。良い羊飼いであるイエス様と飼われている羊は、単に知識として知っている関係でなく、観察、経験により知るようになる能動的な関係なのです。そしてそれは、父なる神様とイエス様との関係と同じだというのです。
 そのように羊を「知る」良い羊飼いは、このような人格的交わりに動かされて、羊のために命を捨てる、と言います。ヨハネ福音書15章13節に「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」とありますように、「知る」という人格的触れ合いは愛へと高まっていきます。ここでの「知る」は、熟していけば犠牲をいとわない愛になるという「知る」なのです。
 
 先ほど交唱した、詩編23編の「主」こそが、羊である私たちのために命を捨てる「羊飼い」です。その方こそ私たちのことを観察し深く知り、私たちと共に歩んでおられる主イエス様です。2週間前の墓地礼拝や一昨日のN・Mさんの葬送式でもお話ししましたが、「主イエス様は私たちと共に死の陰の谷を歩いて、向こう岸の安全なところに連れて行ってくれる」お方なのです。
 本日の福音書では冒頭から「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と始まり、15節で「私は羊のために命を捨てる。」、最後の18節に「私は自分でそれを捨てる。」とありますように、「イエス様の死」が通奏低音のように響いています。
  イエス様が羊のために「命を捨てる」のは、羊のことを深く知り人格的交わりがあるゆえであり、それが父のみ旨だからです。父なる神様とイエス様の間には、深い豊かな交わりが広がっています。私たちは、良い羊飼いであるイエス様を通して、この同じ交わりに包まれています。イエス様が私たちのために十字架上で「命を捨てる」のは、この交わりへと招き入れるためであり、それが「贖い」です。「贖い」と訳されているギリシャ語の元々の意味は、奴隷や人質を買い戻し自由にすることです。イエス様は様々なことにとらわれている私たちのために十字架に付き「贖い」、私たちを解放してくださるのです。イエスの贖いの業は「この囲いに入っていない羊」(つまり、異邦人)にも及んでいます。
 先ほど福音書前に歌った聖歌462番「飼い主わが主よ」をご覧ください。この聖歌の一節の終わりに「われらは主のもの、主にあがなわる」とある通り、私たちは主イエス様のものであり、イエス様によって贖われるのです。さらにこの聖歌では3節に「われらをあがない 命をたもう」とあるように、イエス様の十字架の死により私たちが永遠の命を得ることも示唆しています。そのようなことを知った私たちがなすべきことは何でしょうか?  それは4節にありますように「今よりみ旨を なさしめたまえ」ということ、つまり、「み旨(神様のみ心)がなされますように」と祈ることだと思います。

 本日は特祷についても見たいと思います。本日の特祷の中で私たちは「み旨」に関して、「わたしたちを み旨にかなう者とし、み前に喜ばれるすべての良い業を行なわせてくださいますように」と祈りました。では「み旨」とは何でしょうか?
 このことについては、この本、「特祷想望『日本聖公会祈祷書』特祷、解説と黙想」が参考になります。

 この本は、昨年退職された吉田雅人主教がウイリアムス神学館館長の時に執筆されたものです。この本の中にこうあります(P.140)。
『神様のみ旨、御心、御意志とは一体何なのでしょうか。まさにそれは私たち人間には図り知ることのできないものかもしれません。イエス様はそれを「神様を愛し、隣り人を愛する」ことだと言われました。(中略)神様のみ旨にかない、み前に喜ばれるような良い業を行うことなど私たち人間には不可能なことなのです。ただ、私たちは神様がイエス・キリストによって私たちの「内に働いて、御心のままに望ませ、行わせて」(フィリピ2:13)くださることを信じたいと思います。』
 ここでは、神様のみ旨とは「神と人を愛すること」であり、それは神様がイエス様によって私たちの内に働くことで実現されることを信じたいと述べています。

 皆さん、良い羊飼いは羊のことを知っており、良い羊飼いに養われる羊は、羊飼いのことを良く知っています。羊はすべてをゆだねて安心しています。単に見て知っているのではなく、心の深いところで受け入れられています。このように、イエス様は私たちのことを深く人格的に知り、受け入れて下さっているのです。先日帰天されたN・Mさんはこのことをよく知っておられて、すべてをイエス様に委ねる信仰をお持ちでした。
 イエス様こそ良い羊飼いで、私たちはこの羊飼いに養われる羊です。良い羊飼いであるイエス様は、羊である私たちを贖うために命を捨てるほど、私たちを愛しておられます。
 羊は、羊飼いの声をよく聞き分け、羊飼いをよく知らなければなりません。羊飼いに、すべてを委ねきる、本当の信頼がなければ、迷いだしてしまいます。私たちも良い羊飼いであるイエス様に全幅の信頼をしていきたいと願います。
 イエス様は十字架のみ業を為し遂げられた後、復活し、今も私たちと共に生き、導いてくださっています。この良い羊飼いのみ声に、生涯聞き従っていくことができるよう祈り求めて参りたいと思います。 

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン