マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活節第4主日 聖餐式『門であり、真の羊飼いであるイエス様に聞き従う』

 本日は復活節第4主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。 
 聖書箇所は、ペトロの手紙一2:19-25、詩編23とヨハネによる福音書 10:1-10。説教では、イエス様は神の国・永遠の命にいたる門で、真の羊飼いであることを知り、その声に聞き従い、主に喜ばれる良い業を行うことができるよう祈り求めました。
 「羊の囲い」が分かる当時のユダヤの牧舎の絵も活用しました。

<説教>
 本日は復活節第4主日です。復活節第4主日は、毎年「よい牧者」をテーマとしてA年・B年・C年ともにヨハネ福音書10章の「羊と羊飼いのたとえ(よい牧者のたとえ)」が読まれます。(A年は1-10節、B年は11-16節、C年は22-30節)。ですから、この日は「良い羊飼いの主日(よい牧者の主日)Good shepherd Sunday」とも言われます。shepherdには牧師(牧者)の意味もあります。
 そこで、この日はカトリックでは「召命祈願の日」で、教会の奉仕のために働く者が数多く出てくるよう祈る日になっています。私たち聖公会では復活節第4主日は「神学校のために祈る主日」であり、聖公会神学院、ウイリアムス神学館のため、この後、代祷を捧げます。
 使徒書はペトロの手紙一2:19-25で 、善を行って受難し、人類を義とするため罪を負った魂の牧者であり監督者であるキリストに従うことの重要性を語っています。また、詩編は「主はわたしの牧者」で始まる有名な第23編が採用されています。キーワードは「牧者」です。
 
  今日の福音書の箇所を振り返りましょう。 
 1節から5節までは、当時の牧羊の状況を紹介しています。
 1節にこうあります。
「よくよく言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。」
 「羊の囲い」というのは、私たちの生活にはなじみが薄いのですが、当時の羊飼いたちは、石などで羊が跳び越えられない高さに囲いを作って、夜にはそこに羊を入れておいたそうです。それが「羊の囲い」です。  
 受付の透明なファイルにも入れておきましたが、この絵をご覧ください。

これはこの当時のユダヤの牧舎で、この石を積み上げた壁が「羊の囲い」です。
 「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」とは、どういうことでしょうか? これは、盗人や強盗は、正式に門を通らないで、羊を盗んだりするためにほかの所から入るということです。 
 イエス様がなぜ、この話をしたかといいますと、前の章とのつながりからです。今日の話の前に、生まれつき目の見えない人を癒やすという出来事(ヨハネ9章)があります。イエス様は生まれつき目の見えない人を見えるようにしているのに、それを見ても、ファリサイ派の人たちは、イエス様が神からのものだと信じませんでした。そこでイエス様は、御自分を信じないで、門を通らずに柵を乗り越えて入ってくる彼ら(ファリサイ派の人々)を、そして羊(民衆)がその言うことを聞かなかった彼らを、「盗人であり、強盗」だと、言っているのです。

 3節から4節では、門番は羊飼いに門を開きます。ここでは「羊は羊飼いの声を聞き分け、羊飼いに従う。羊飼いは羊を自分の子のように愛し、一匹一匹に名前をつけて呼び、羊は名を呼ばれると羊飼いの所に来る。羊飼いは先頭に立ち、羊はその後についていく」という、羊と羊飼いの関係が語られています。 
 ここで「聞き分ける」と訳されているギリシャ語原文「アクーオー」の意味は、①(一般的な)聞くのほか、②聞いて知る・理解する、③言うことを聞く・聞き従うなどがあります。つまり、羊は羊飼いの声を、単に聞くだけでなく、その意味することを理解し、その言葉に従っているのです。

 イエス様は、羊と羊飼いとの関係を、たとえとして語りましたが、イエス様のこの話を聞いていたファリサイ派の人々は「何のことか分からなかった」(6節)のです。そこで、イエス様は7節から10節でこのたとえを解説されました。 
 ここで、イエス様は御自分を「羊の門である」と言われます。この当時の羊飼いは野獣や強盗から羊を守るため寝ずの番をして、門としての役割を果たす場合もあったそうです。イエス様は命がけで羊である私たちを守ってくださるのです。また、門はそれを通る者が救われる門であり、出入りして牧草を見つけるための門です。このように、「門」は二重の機能を果たします。門の中にいる羊にとって、真の羊飼いとそうでない者とを識別するためのしるしであり、同時に、そこを通って、豊かな牧草地へと導かれるための通路でもあります 。
 「門」であるイエス様を通って「入る」なら、その人は救われるのです。この「門」とは、神の国・永遠の命にいたる門です。イエス様が救いへの門の役をしているのです。イエス様の声に聞き従う羊はここを出入りして、豊かな牧草を見つけ出します。この「門」を通る者には命が与えられます。盗人は「盗み、屠り、滅ぼす」ために来ますが、イエス様は羊が「命を豊かに得るために」来たのです。
 
 私たちは毎日、テレビやインターネット等で、多くの情報を得ています。その中には不確実で私たちを恐怖と混乱に導くものもあります。まるで今日の福音書ファリサイ派のようです。「盗人であり、強盗」である彼らの声に従うことをイエス様は戒め、真の「羊飼いであり門」であるイエス様に聞き従うことを勧めているのであります。

  さて、本日は、先ほど交唱した詩篇23編についても、触れたいと思います。詩篇23編は詩編の中で最も有名で、最も人気のある詩編と言えると思います。
 聖書日課の2ページ詩篇23編の1節を御覧ください。
「主はわたしの牧者∥ わたしは乏しいことがない」
 「牧者」を辞書で引くとこうありました。「① 牧場で,牛馬などの世話をする人。牧人。 ② 転じて,信徒を導く神や人。キリスト・牧師・司祭などをいう。」牧者とは羊飼いのことです。主御自身が羊飼いとして表現されています。この「主」という言葉は、通常の「主人」という意味ではなく「神」という言葉の代理語です。しかし神というのでなく「主」ということに大きな意味があります。単なる神でなく私の主である神なのです。「主はわたしの牧者。」この言葉に、私という存在と神との関係が語り尽くされています。そして、主が私の牧者であるから、私には欠けているものは何もない、必要なものはすべて備えられている、というのです。
 4節にはこうあります。
「たとえ死の陰の谷を歩んでも、わたしは災いを恐れない∥ あなたがわたしとともにおられ、あなたの鞭と杖はわたしを導く」  
 ここで詩人は、「たとえ死の陰の谷を歩んでも、わたしは災いを恐れない」と言い、その理由として「あなたがわたしとともにおられ」るからと言っています。
 最後の6節にはこうあります。
「神の恵みと慈しみは、生きている限り、私に伴い∥ わたしは永遠に主の家に住む」
 人生を終えた後、私のために「永遠の住まい」が準備されています(ヨハネ14:2-3)。その永遠の住まいは、ここでは「主の家」と呼ばれています。よく考えてみると、詩篇23編は「主」で始まり、「主の家」で終わります。
 さらに考えてみると、私たちはもう既に「主の家」に住んでいるのではないでしょうか? 1節「主はわたしの牧者」と言うとき、また2~3節「神はわたしを緑の牧場に伏させ∥ 憩いの水辺に伴われる。神はわたしの魂を生き返らせ∥ み名のゆえにわたしを正しい道に導かれる。」と語るとき、もう既に私たちは主の保護のもとにあり、「主の家」に住んでいるのです。私たちが生きているこの場所が既に「主の家」「永遠の住まい」なのであります。

 本日の福音書でイエス様は「私は羊の門である」とおっしゃっています。その門は、神の国・永遠の命に至る門であり、そこを通って私たちは「主の家」「永遠の住まい」に至ることが出来るのです。

 皆さん、私たちは羊、イエス様は羊飼い、牧者です。主イエス様は今日も私たち羊の名を呼んでくださっています。私たちは聞き覚えのあるその声に聞き従い、イエス様の後をついて行きましょう。そのとき、私たちは主の保護のもとにあり、神の国・永遠の命につながり「主の家」に住んでいます。そして、神のみ旨・み心にかない、主に喜ばれる良い業を行うことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。