マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活節第5主日 『ぶどうの木であるイエス様につながる』

 本日は復活節第5主日です。午前は高崎、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。
 4月から新たに高崎オーガスチン教会の管理牧師になり、月の第4主日は高崎の教会の10:30からの礼拝の司式・説教をすることになりました。本日は久しぶりに高崎で聖餐式を捧げ、懐かしい皆さんにもお会いでき感謝な時でした。

 本日の礼拝の聖書箇所は使徒言行録8:26-40、詩編22:25-31、ヨハネの手紙一4:7-21及びヨハネによる福音書15:1-8。説教では、私たちはぶどうの枝であり、ぶどうの木であるイエス様の一部であることを知り、御言葉を聞き、祈り、聖餐に預かるなどの恵みに感謝し、イエス様につながっていくことができるよう祈り求めました。
 管区から送られた小冊子「み国が来ますように(Thy Kingdom come)」という「祈りのしおり」についても言及しました。
 高崎の教会における説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 皆さん、お久しぶりです。こちらでの礼拝は2021年4月4日のイースター以来、約3年ぶりとなります。今度は管理牧師ということで、礼拝は月一回(第4日曜)で、あとは毎週水曜日に高崎で聖務を行うようにしています。私は平日は午前10時半から「朝の祈り」と「ロザリオの祈り」を捧げていますが、高崎でも同様にしています。よろしかったら一緒にどうぞ。また、お話等のある方もぜひお出かけください。主に事務的なことは大山執事さんにお願いしていますが、私は今年度は3つの教会の牧師になりましたので、前橋や新町との連携、例えば「聖書と祈りの会(Zoom)」や前橋の会館で行っている「キリスト教文化入門(赤毛のアンを英語で読む会)」等の教会行事の相互交流等を図りたいと考えています。心に留めておいてほしいと思います。
 
 さて、本日は復活節第5主日です。復活節は復活日(イースター)から聖霊降臨日(ペンテコステ)までの50日間ですが、本日は復活日(3月31日)から29日目で、来週の木曜(5月9日)が40日目で昇天日です。その日には前橋聖マッテア教会で10時30分から昇天日聖餐式が行われます。よろしければご参加ください。

 本日の福音書は、ヨハネによる福音書のイエス様が弟子たちに語った告別説教といわれる箇所から取られています。
 本日の箇所は15章1-8節で、イエス様がぶどうの木、私たちはその枝、そして父なる神様が農夫にたとえられています。この箇所で印象的なのは「つながっていなさい」または「つながる」というイエス様の言葉です。1節から8節までで9回も使われています。何のためにつながるのかということが「実を結ぶ」という言葉で説明され、これも7回出てきます。「実を結ぶためにつながる」ということが、本日の箇所のテーマではないかと考えられます。

 2節にこうあります。
「私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」
 ここの「取り除き」とはギリシア語の「アイロー」で、「持ち上げる、取り上げる」ことです。それに対し「手入れをなさる」と訳された語は「カサイロー」で、「清める、剪定(せんてい)する」という意味です。
 イエス様は、「私につながりながらも実を結ばない枝は、天の父が取り除かれる」と言われます。何ら実を結ばないならば、天の父なる神様が取り除かれます。しかし、イエス様につながって少しでも実を結びはじめたら、もっと実を結ぶようにと剪定されるのです。
 取り除かれた枝は「投げ捨てられて枯れ、集められて火に投げ入れられて焼かれてしまう」(6節)、そのように否定的な言葉がまた語られていますから、自分は取り除かれてしまう枝なのか、それとも残される枝なのか、ということが気になるかもしれません。
 そのことについては、3節後半にある「あなたがたはすでに清くなっている」という言葉に注目します。ここの「清くなって」と訳された言葉は「カサロイ」でそれは「手入れをなさる」と訳された「カサイロー」から派生した言葉で、その意味に従って訳すと「あなたたちはすでに手入れがすんでいる」(本田哲郎神父訳)となり、私たちはみな神様によって手入れされ残された枝であることが分かります。私たちはイエス様につながる枝として、エネルギーを与え続けてくださるイエス様からそれを受けながら生きるのです。

 5節にこうあります。
『私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。』
 イエス様は別れを前にした弟子たちに語っています。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と。イエス様はご自分のことを「ぶどうの幹である」とおっしゃっているのではありません「ぶどうの根である」と言っているのでもありません。「私はぶどうの木である」とおっしゃっているのです。つまり、根も幹も枝も含めたぶどうの木全体であると言うのです。そして弟子たちに「あなたがたはその枝である。」とおっしゃっています。つまり「あなたがた枝は、ぶどうの木である私の一部である」とおっしゃっているのであります。  
 ここで「つながる」と訳されているこの元々のギリシャ語は「メノー」という言葉です。葬送式等の福音書箇所の「私の父の家には住む所がたくさんある。」
ヨハネ14:2)の「住む」も原文は「メノー」です。「メノー」の本来の意味は「ある場所や状態に留まる」ということです。そこから「つながる、留まる、住む、離れないでいる」という訳になります。「人が私につながって(メノー)おり、私もその人につながって(メノー)いれば、その人は豊かに実を結ぶ。」とはキリスト者とイエス様との深い交わりを表しています。
 イエス様は、ここで弟子たちに「ぶどうの枝になりなさい」と言っているのではありません。「あなたがたはその枝である。」と断定されているのです。そして、この言葉はイエス様の弟子である私たちにも向けられています。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と。このままイエス様につながっていれば豊かに実を結ぶことができるのです。

 再度、6節の言葉に注目します。それは「私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」と脅かしのようにとらえかねない言葉です。これはどういうことでしょうか? この前後をよく読みますと、4節の「私につながっていなさい」には「私もあなたがたにつながっている」という言葉が続いています。同様に、5節でも「人が私につながっており、私もその人につながっていれば」と語られ、7節では「あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば」と述べられています。つまり、「私につながっていなさい」という命令には、「私もあなたがたにつながっている」からというイエス様の慰めの言葉が付いているのです。単に、「イエス様につながりなさい」と言っているのではありません。その前に、「イエス様が私につながっている」のです。

 具体的に、私たちはどうしたらいいでしょうか? 日々聖書を読み、み言葉を聞き、祈る、礼拝に出席する、教会に連なる、そのようなことが考えられます。信徒である私たちは、聖奠(サクラメント)である洗礼と聖餐でつながることができます。特に聖餐式での陪餐、イエス様の体とイエス様の血をいただくことで、私たちは養われ、育てられるのであります。

 さらに言えば、祈祷書の聖餐式の式文で、181ページの「近づきの祈り」の後半で、私たちは、このように祈ります。
 「恵み深い主よ、どうかわたしたちが、み子イエス・キリストの肉を食し、その血を飲み、罪あるわたしたちの体と魂が、キリストの尊い体と血によって清められ、わたしたちは常にキリストにおり、キリストは常にわたしたちにおられますように アーメン」
「わたしたちは常にキリストにおり、キリストは、常にわたしたちにおられますように」。この祈りと共に、主イエス・キリストの肉と血に与ることこそが、「私につながっていなさい」と言われる、イエス様の言葉が、目に見えるかたちで示される「大切な時」なのではないでしょうか?
「イエス様につながること」の大切さを噛みしめたいと思います。

 ところで、冒頭お話ししましたように、来週の木曜(9日)が昇天日です。私たちは「復活→昇天→聖霊降臨」を時間的な流れの中で起きた出来事としてとらえたいと思います。「復活」は、イエス様が死に打ち勝ち今も生きているという面を表します。「昇天」は、イエス様が神様のもとに行き、そこで神様と共に永遠の命を生きる方となったという面を表します。そして「聖霊降臨」は、イエス様が目に見えないけれども私たちのうちに今も働いていてくださることを表していると言えます。特に、「昇天」から「聖霊降臨」については、神様とイエス様の恵みを覚え、今回、管区から送られてきた小冊子「み国が来ますように(Thy Kingdom come)」という「祈りのしおり」を毎日使用することで、この意味も実感することができると考えます。

 この「祈りのしおり」は一昨年から主教会が黙想文を作成し、日本社会に即した内容となっています。ぜひ、5月9日(木)から毎日、この小冊子を活用してほしいと思います。

 最後に、先ほど、福音書前に歌った聖歌491番「天なる喜び」にも触れたいと思います。聖歌491番をご覧ください。この聖歌はチャールズ・ウェスレーの代表作で、2年前のエリザベス女王の葬送式でも歌われました。この聖歌では、キリストの受肉に見られる神の愛を大きく讃え、その後に清めについて触れています。2節では、神様を信じる一人一人の体に宿る聖霊の真理を強調し、3節では、私たちの信仰が栄光と共に増し加えられるように語っています。さらに「み国に昇りて み前に伏す日 み顔の光を 映させたまえ」とあるように、死後の光明を祈っています。
 1節最後に「乏(とも)しき心に 宿らせたまえ」、そして2節最初「命を与うる 主よ とどまりて」とありますが、ここの「宿る」や「留まる」がおそらくギリシャ語では「メノー」で主イエス・キリストとつながることを祈願していると思われます。
 この聖歌から本日の使徒書のヨハネの手紙一4:9の聖句を思い浮かべます。
「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。」
 父なる神様は、私たちを愛するがゆえに独り子イエス・キリストをこの世に遣わされました。それはすべての人の救いのためです。
 エリザベス女王葬送式の最後にこの歌が歌われたのも、一人女王のためでなく、人類すべての救いを願ってだったのだと思います。

 皆さん、私たちはぶどうの枝であり、ぶどうの木であるイエス様の一部であります。御言葉を聞き、祈り、聖餐に預かるなどの恵みに感謝し、生涯、イエス様につながっていくことができるよう祈り求めて参りたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン