マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

主イエス命名の日 聖餐式『神の言葉を心に留め思い巡らす』

 本日は一年最初の日で、主イエス命名の日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、民数記6:22-27、詩編 8、ガラテヤの信徒への手紙4:4-7、ルカによる福音書2:15-21。  
 説教では、イエス様が「イエス(主は救い)」と命名されたことの意味を考え、「神の言葉や出来事をすべて心に留めて思い巡らしていたマリア」に倣い、その姿勢を持ち続け、神を信頼してこの一年歩むことができるよう祈り求めました。
 本日の福音書箇所である前橋の聖堂のステンドグラス「クリスマス(イエスの誕生)」の絵を紹介しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 皆さん、新年あけましておめでとうございます。元旦、お正月の朝に皆さんと一緒に礼拝を献げることができ、感謝いたします。

 本日は教会の暦では、「主イエス命名の日」という特別の日です。カトリック教会では「神の母聖マリアの祝日」であり「世界平和の日」でもあります。聖餐式聖書日課は昨日の主日から「改正祈祷書試用版」を用いています。
 イエス様は、生まれて間もなく、8日目に、当時のユダヤの習慣に従って、割礼を受けられました。そして、「イエス」と名がつけられました。この名前は、母マリアの胎内に宿る前に、天使から示された名前であります(ルカ1:31)。

 「イエス・キリスト」と言いますが、イエスが名前で、キリストが苗字だと思っている人がいるかもしれませんが、そうではありません。「キリスト(ギリシャ語でクリストス)」とは、ヘブライ語ではメシア、「油注がれた者」、「救い主」という意味です。後の時代にイエス様を神の子と信じた人たちから、つけられた称号、身分を表す肩書きです。

 「イエス」は、ギリシャ語で「イエスース」と言い、その意味は「主は救い」です。ヘブライ語では「ヨシュア(イェシュア)」と言い、「ヤーウェは救いである」を意味しています。イエスという名は、ユダヤ人の間で、ありふれた名前で、非常に多かったようです。そこで「ナザレのイエス」のように出身地を入れて特定したようです。日本でも苗字がなかった時は「~村の○○」と言っていました。
 イエス様を特定する呼び方としては、その他に「ダビデの子」「インマヌエル」「神の小羊」などがあります。また、イエス様自身は、ご自分のことを「人の子」と呼ばれ、「私は命のパンである」とか、「私は良い羊飼いである」とか言って、ご自分を紹介しておられます。

 「主イエス命名の日」は、単に、生まれたばかりの幼子に、イエスという名前がつけられたことを記念するだけではありません。日本には「名は体をあらわす」という言葉がありますが、名前は、物事の本質、または存在そのものを意味するしるしでもあります。イエス様は「主は救い」という名前の本質、そのものなのです。
 また、私たちが、お祈りをする時、いつも、「イエス・キリストによって、お願いします。」とか、「主イエス・キリストのみ名によって、お願いします。アーメン」と言って、祈りを終わります。
 それは、ただ、長年の習慣であるとか、祈りの終わる決まり文句と理解してはならないと思います。神のみ子であるイエス様が、私たちと神の間に立って、「とりなし」て下さることを願っているのです。そして、それができるのはイエス様だけであり、イエスの名にまさる名前はないのです。

 そのことを歌っているのが、本日の礼拝の最後で歌う聖歌226番です。ご覧ください。1節に『み子イェスのみ名に まさる名はなし これぞ世に示す 神のみ心』とあります。父なる神の心が「イエス(主は救い)」という名で世に示されているのです。その意味をさらにはっきり示しているのが2節です。『いと高きかみの み子にいませど 世を救うゆえに「イェス」と呼ばれぬ』とあります。それゆえ全節の折り返しでこう歌います。『「われらの主イェス」と 喜び歌う とうとき み名こそ たぐいもなけれ』と。これらの意味をつかんで退堂の折には、喜びに満ちて歌ってほしいと思います。

 私たちは「主イエス命名の日」に、「イエス(主は救い)」と名付けられた神のみ子への信頼と感謝を、新たにしたいと思います。
 先程読んでいただいた本日の使徒書、ガラテヤの信徒への手紙4章4節以下に、このイエス様への信頼と感謝の根拠が記されています。ここでは、父なる神がイエス様をこの地上に遣わしたのは、律法のもとで罪の奴隷になっていた私たちを解放し子としての身分を授けるためである、とあります。そして、私たちは子であり、神の相続人であると宣言されています。
 解放され神の相続人となった私たちに神が求めているのはどういうことでしょうか? それは、本日の福音書のマリアの姿に現れていると考えます。
 この場面を表しているのが、当教会の聖堂後ろの真ん中のステンドグラス「クリスマス(イエスの誕生)」です。

 馬や牛のいる家畜小屋で誕生したイエス様をマリアが抱き、ヨセフが手を合わせて礼拝しています。おそらく羊飼いたちや三人の博士が訪問し、礼拝した後のシーンであるように思われます。
 誕生したイエス様を最初に礼拝しに来たのは羊飼いたちであり、イエス様の誕生を伝えた天使の話などを聞いて、「マリアはこれらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた。」(ルカ2:19)のです。
 ここの「これらのこと」の「こと」はギリシャ語では「レーマ」でした。「レーマ」は通常「言葉」と訳されますが、「出来事」と訳されることもあります。本日の福音書の15節の「主が知らせてくださったその出来事」の「出来事」がレーマでした。17節の「天使から告げられたこと」の「こと」もレーマでした。
 「レーマ」とは出来事となる言葉であり、出来事となった言葉です。「マリアはこれらのことをすべて心に留めて」とある「心に留める」はここでは未完了形でした。未完了形は動作の継続や反復を表します。ですからマリアは「レーマ」を心に留め続けたのです。マリアの神の言葉に対するこの姿勢を持つことを、神は私たちに求めているのだと思います。
 神の救いは「飼い場桶に寝ている乳飲み子」に示されています。幼子のイエス様は名前の通り「主の救い」を現す者です。しかし、神が与える救いの意味を私たちはすぐには悟ることはできません。ですから、神の言葉を「心に留め思い巡らす」ことが必要なのだと考えます。

 皆さん、新しい年の始まりにあたって、イエス様が「イエス(主は救い)」と命名されたことの意味を考え、解放され神の相続人となった私たちに神が求めていることについて思いを馳せましょう。2024年もウクライナパレスチナの戦闘の終結の道が見通せない状況ですが、神様は必ず脱出の道を示してくださることを信じます。私たちは「神の言葉や出来事をすべて心に留めて、思い巡らしていたマリア」に倣い、その姿勢を持ち続け、神を信頼してこの一年も歩むことができるよう祈り求めて参りたいと思います。

 一言お祈りいたします。
 父なる神様、主イエス命名の日、そして一年の始まりの元旦の礼拝に、私たちをお招きくださり、ありがとうございます。あなたは、独りのみ子をこの世に送り、「主は救い」を表すイエスと名付けられました。罪の奴隷になっていた私たちを解放し子としての身分を授けるため、イエス様をこの地上に遣わしてくださり感謝します。私たちは「神の言葉や出来事をすべて心に留めて、思い巡らしていたマリア」に倣い、その姿勢を持ち続け、神を信頼して新しい年も歩んでいきたいと願います。この一年の間、どうかそうできるよう、私たちを守り導いてください。
 世界に平和が訪れるように私たちに知恵をお与えください。
 これらの感謝と祈りを、私たちの主イエス・キリストのみ名によって御前にお捧げいたします。アーメン