マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活節第4主日 聖餐式 『永遠の命を与える主イエス様』

 本日は復活節第4主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、ヨハネの黙示録7:9-17とヨハネによる福音書10:22-30 。 

 主イエス様は私たちのすべてを知っており、私たちに永遠の命を与えてくださることを知り、生涯を通じて主イエス・キリストの声に聞き従うことができるよう祈り求めました。発掘された現在のエルサレム神殿と「ソロモンの回廊」の写真も紹介しました。

   永遠の命を与える主イエス

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は復活節第4主日です。この日には毎年、ヨハネ福音書10章の「羊と羊飼いのたとえ」が読まれ、「良い牧者(羊飼い)の主日(Good shepherd Sunday)」と呼ばれています。福音書は、復活して今も生きておられるイエス様と私たちの深いつながりが語られています。また、使徒書は、ヨハネの黙示録の天上での礼拝の場面で、「小羊であるキリストが大群衆の牧者となること」が述べられています。 

  本日の福音書の箇所を振り返ります。
 冒頭にこうあります。「その頃、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。」(22・23節)
 ヨハネによる福音書では7章の途中から、イエス様はエルサレムに入り、神殿の境内で様々な教えをなさっています。10章22節にある「神殿奉献記念祭」は、口語訳や新改訳では「宮清めの祭」と訳されていました。紀元前164年に、ギリシャ人の支配からユダヤ人が独立を果たし、神殿から異教の像を一掃し、新しい祭壇を建て、宮を清めました。その次第は旧約聖書続編の「マカバイ記」に記されています。このことを記念し、12月中旬に8日間にわたり神殿を灯火(ともしび)で明るく照らす祭が行われました。それが「神殿奉献記念祭」で、この祭は、「光の祭(ハヌカ)」と呼ばれました。
 ちなみに、発掘されたエルサレム神殿は現在このようになっています。

 私は約4年前に訪れましたが、壮麗な建物で驚いたことを覚えています。
 また、「ソロモンの回廊」は神殿内の「異邦人の庭」の東側にある、屋根付きの回廊です。最初のエルサレム神殿ダビデが構想しソロモンが建築にあたり完成させました。しかしその後、何度も破壊されては建築されました。イエス様の生きた時代において、この「ソロモンの回廊」は昔のままに残されたものだと言い伝えられていたため「ソロモンの回廊」と呼ばれていたようです。そこは、おそらくこのような場所だったと考えられます。

 左の方に、いけにえにする羊などをつないだ場所が見えます。
 その回廊をイエス様は歩いておられたのです。その時、ユダヤ人たちがイエス様を取り囲んで言いました。「いつまで、私たちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」(24節)と。
 「メシア」はヘブライ語で、そのギリシャ語が「キリスト」です。日本語では、「救い主」と訳されています。
 その当時のユダヤ人たちは「救い主」が現れるのを待ち望んでいました。当時のイスラエルは、ローマ帝国の属国で、人々の生活は貧しく苦しく、宗教的には戒律が厳しく、ユダヤ人たちは心身ともに疲れており、メシア(救い主)が現れ、軍事的にも経済的にも自分たちを救ってくれることを待ち望んでいました。具体的に言えば、ユダヤ人たちはダビデ王の再来を待ち望み、ダビデ王の時代のような繁栄、豊かさを望んでいたのです。
 そのような状況の中、ユダヤ人たちが、イエス様を取り囲み、「いつまで、私たちに気をもませるのか。」と言い、「お前は、メシア(キリスト)なのか」と言って迫ったのです。 
 それに対してイエス様は「私は業によって私を証している。」と言い、羊飼いと羊の関係にたとえて、「しかし、あなたがたは信じない。私の羊ではないからである。」(26節)とおっしゃいました。さらに、こう言われました。27節から28節です。
「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、また、彼らを私の手から奪う者はいない。」と。
 イエス様は「良い羊飼い」、私たちは「その羊」です。イエス様に養われる羊たちは自分の主人であるイエス様の声を聞き分けます。イエス様はご自分の羊のことをよく知っており、羊たちはイエス様に従います。その者たちにイエス様は「永遠の命」を与えられます。そして、「その者たちは決して滅びず、イエス様と信じる者たちの絆、つながりを誰も奪うことはできない」というのです。
 最後に、イエス様はこうおっしゃいました。29節・30節です。
「私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、誰も彼らを父の手から奪うことはできない。私と父とは一つである。」と。
 独り子キリストにご自分の羊たちを与えてくださった父なる神はすべてのものより偉大であり、誰も彼らを奪うことはできず、父なる神と子なるキリストは一体である、と宣言されたのです。

 本日の福音書はこのようでした。この箇所では、私たちとイエス様との関係として3つのことが記されています。第1に私たちはイエス様の声を聞き分けることができること、第2にイエス様は私たちを知っておられること、第3として私たちはイエス様に従う者であること、ということです。
 第1のことから考えます。イエス様の声は何によって聞き分けることができるでしょうか? イエス様が語った言葉の一つ一つは聖書に記されていますから、聖書をよく読むことによってイエス様の声を聞き分けることができると言えるでしょう。第2の「知る」はただ単に知識として知っているというのではなく、イエス様と私たちの深いつながり「交わり」を表す言葉です。イエス様が私たちのすべてを知っていてくださるということは大きな恵みであります。第3のイエス様に従う者であることについては、復活の場面を思い起こします。逃げ出してしまった弟子たちのところに、羊飼いであるイエス様の方からやってきて、羊である弟子たちを再びつなぎとめて、従う者にしてくださいました。私たちが従う者になるのではなく、イエス様が私たちを従う者にしてくださったということです。
 そして、「永遠の命」、これがこの箇所におけるもう一つの重要なテーマであります。「羊」は「羊飼い」である主イエス様の声を聞き分け、その声に信頼して従います。それによってイエス様は「羊」である私たちに新しい命、すなわち「永遠の命」を与えてくださいます。「永遠の命」とは「永遠である神に触れて生きる命」を意味します。主イエス様を信じれば平穏無事で、悩み苦しみのない人生が送れるということではありません。「羊飼い」に従う「羊」たちは困難があり危険があり脅かされる荒れ野の中に生きます。しかし、そのような中でも「羊飼い」が共にいてくださるということ、神様の御手が私たちを守っているという事実こそが「神に触れて生きる命」「永遠の命」なのであります。

 なお、聖書で「命」と日本語に訳された言葉は、ギリシャ語では2種類あります。「プシュケー」と「ゾーエー」です。「プシュケー」は、肉体的な限りある命を指し、「ゾーエー」は、根源的・霊的な命を指します。28節の「永遠の命」には「ゾーエー」が使われています。それは永久に続く霊的な命です。また、「プシューケー」には「命」の他、「気」という意味もあります。本日の福音書箇所で、ユダヤ人たちがイエス様を取り囲んで言った「いつまで、私たちに気をもませるのか」(24節)の「気」が「プシューケー」です。ユダヤ人たちが、肉体的な限りある命である「プシュケー」(気)について問うているのに対して、イエス様は根源的・霊的な命である「ゾーエー」で答えたのでした。そして、そのような「永遠の命」はイエス様によって与えられるのです。私たちに求められていることは、イエス様の声を「聞く」ことと「従う」ことだけです。
 「永遠の命」は、死んでから始まる命ではなく、今、既に始まっている命です。イエス様がいつも共にいてくださるということが「永遠の命」として生かされることです。それは努力して獲得するものではなく、祈り求めて受けることのできる「賜物」です。それは「この世のもの」でも、「死後のもの」でもありません。現在も、また死を超えてなお、神様との交わり、イエス様とのつながりは限りなく続くものなのであります。
 
 イエス様とはどのようなお方でしょうか? そのことについては本日の使徒書で明確に示されています。ヨハネの黙示録7章17節です。
玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり 命の水の泉へと導き 神が彼らの目から涙をことごとく 拭ってくださるからである。」
 この小羊が主イエス・キリストです。私たちの罪の贖いのためにいけにえとなられた方が私たちの牧者(羊飼い)となり、永遠の命を導いてくださるのです。この方の声に聞き従うことにより、このつながりが限りなく続くのであります。

 皆さん、復活節の期節を過ごす私たちは、復活されたイエス様こそがまことの「羊飼い」であることを知り、「羊」である私たちはその声を聞き分けたいと願います。生涯を通じて「良い牧者(羊飼い)」である主イエス・キリストの声に聞き従うことができますように。また、救いを求めている多くの人々がその声を聞くことができますように。そして、私たちが神様の御心にかなう者となり、神様に喜ばれるよい業を行わせてくださいますように、祈り求めて参りたいと思います。