マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降誕日 聖餐式 『最初のクリスマスの出来事』

 本日はクリスマス(降誕日)です。前橋の教会で21名の参列を得て聖餐式を捧げました。

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 福音書箇所は前夕の箇所の最後の5節、ルカによる福音書の2:15-20。
 説教では、救い主の降臨を最初に告げられたのが羊飼いであることの意味をつかみ、自分の賜物で小さくされた人々に奉仕するよう、また、イエス様と一緒に心に納め、イエス様と共に熟考することができるよう祈り求めました。

   『最初のクリスマスの出来事』

 <説教>
  主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 皆さん、クリスマスおめでとうございます。降誕日(クリスマス)は教会の暦としては降誕節の最初の主日です。降誕節は降誕日(12月25日)から顕現日(1月6日)までのシーズン(期節)を指しています。
 クリスマスとは何でしょうか? クリスマスとは、Christ-masでキリストのミサということです。昨日の前夕の礼拝では聖餐式がなかったので「キリストの礼拝」とお話しましたが、正確に言えば「キリストの聖餐式」ということです。私たちは、聖餐に預かることでキリストと結ばれ霊的な生命に預かることができ、感謝なことであります。

 本日の福音書箇所はルカによる福音書の2章15節から20節までです。昨日の前夕の礼拝では今日の箇所を含む2章1節から20節まででした。
 イエス様がお生まれになったのはどこでしたでしょうか? 一般のクリスマス物語では馬小屋(家畜小屋)で生まれたことになっていますが、聖書にはそのようなことは記されていません。
 どうしてそこで生まれたと考えられたのでしょうか? 「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」とあり、生まれたばかりの子を「飼い葉桶に寝かせた」という記述から、その生まれた場所は馬小屋(家畜小屋)であると推察され、それがいつの間にか定着してしまったのだと考えられます。なお、イエス様の誕生については洞窟で生まれたという伝承がありまして、絵画等にも描かれています。あるいは洞窟の家畜小屋なのかもしれます。
 実は、3年ほど前のイスラエル旅行でイエス様の生誕地であるベツレヘムにも訪れました。その地で昼食をしたレストランはGrotto(洞窟)という名前でした。その後、イエス様が生まれたところの跡に建てられたという聖誕教会に行きました。大変な人だかりで1時間くらい待って地下の洞窟に入り、イエス様の生まれたという場所で祈りを捧げました。そこにはラテン語で「ここにてイエス・キリストは生まれたまえり」と銀の星に記されていました。

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 近くにはイエス様が置かれたという飼い葉桶がありました。ここで私たち人類全体の救い主イエス・キリストが生まれたのだと思うと感慨はひとしおでした。
 飼い葉桶とは家畜が餌を食べる場所です。イエス様は食べられるためこの場所で生まれたのです。これは一つの象徴(シンボル)と考えます。聖餐式で私たちはイエス・キリストの体である御聖体をいただいています。つまり、イエス様を食べているのですが、イエス様の誕生の時にそのことがすでに示されていたと考えます。イエス様は私たちに食べられるために生まれてきたということです。

  さらに、今日の福音書では、幼子のイエス様を最初に礼拝に来た者たちが羊飼いたちであったこと、また、それを伝えた天使の話などを聞いて、「マリアはこれらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた。」(19節)とあります。この「思い巡らす」と訳されたギリシャ語は「スンバロー」で、この語は、「共に」を意味する「スン」と、「投げる」を意味する「バロー」の合成語です。それは、本来、「共に投げ合う」ことを意味し、論じ合ったり、互いに協議したり、助けあったりすることであり、そこから派生して、「(心の中で)じっくり考える、熟考する」といった意味にもなりました。「スン」は「共に」、英語で言えばwithということです。誰と共にかと言えば「主と共に」、「イエス様と一緒に」ということです。マリアは一人で思い巡らしたのではなくイエス様と一緒に、イエス様と共に、じっくり考え、熟考したのでした。 
 さらに、その言葉の前に「心に留める」、原語でスンテーレオーという言葉があります。この語は「自分の心の中に忘れないように留め置く」ことを意味します。スンテーレオーには、「宝物を納める」という意味もあります。この「スン」も「共に」という意味で、マリアは共に心に留めた(納めた)のです。誰と共にかと言えば「主と共に」「イエス様と共に」であり、マリアはイエス様と一緒に、イエス様と共に心に留めた(納めた)のでした。
 おそらく、羊飼いへのお告げによって羊飼いたちが最初の礼拝者として訪れたことに、マリアは言葉では表現できない、何かしらそこに深いものを感じ取ったに違いありません。それをイエス様と共に心に留め、イエスと共にじっくり考えたのでした。
 人々は羊飼いたちの話を聞いてただ不思議に思ったにすぎませんが、マリアだけは、「これらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた。」(19節)ということは、私たちも、最初のクリスマスの出来事を黙想する上で見過ごすことのできない大切な何かがあることに気づかされるのであります。

 ところで、イエス様が馬小屋(洞窟)で生まれた時、そこに羊飼いたちが呼ばれた理由として、「神様は貧しい者を特に愛していることを示すため」と昨日のイブの礼拝では話しましたが、別のこともあったのではないかと思います。このように思い巡らしました。
 その時、羊飼いたちは夜通し寝ずの番をしていました。羊飼いたちは、食糧や毛布とかを持っていたと思います。だから天使がイエス様のところに彼らを遣わしたのではないでしょうか? 羊飼いたちが呼ばれたのはこの幼子と夫婦に必要なものを与えるためだったという側面もあったのではないでしょうか? 幼子と夫婦には食べものもなかったでしょうから、羊飼いたちは食べるものをそこに持っていったのかもしれません。そして一緒に何かを食べたかもしれません。また、寒かったでしょうから、羊飼いたちは自分の持っている毛布を差し上げたかもしれません。薪があればそれを燃やし、一緒に暖まったかもしれません。貧しい羊飼いたちが、飼い葉桶で寝ている幼子が、あまりにみすぼらしかったから、自分の持っている物を差し出し、分かちあったのではないでしょうか? だから、イエス様たちを助けるために最初に羊飼いたちが呼ばれたのではないかと思います。神様が救い主の誕生を最初に羊飼いたちに知らせたのは、このような理由もあったのではないでしょうか?
 羊飼いたちは自分たちの持っている物をイエス様たちに捧げ、分かち合いました。それはこの時のイエス様たちに必要な物でした。自分たちの賜物(持っているもの)を捧げ、分かち合ったからこそ、羊飼いたちは心の中に大きな喜びと希望が生まれ、賛美しながら帰っていったのだと思います。

 私たちもイエス様である小さくされた人たちに自分の賜物(持っている物)をお捧げし分かち合いたいと思います。その人たちのその時に必要としている物を。
 実は、今週の月曜、私はかつての教え子のいる障害者施設「らいず」から依頼があり、ミュージック・ケア(音楽療法)をしてきました。コロナ禍でしばらく休んでいましたが、少し収まったので11月からまた、月2回、私のオフである月曜の午後に行き、35分位ずつ2回セッションをしています。大人の知的障害の方々が大きな声で全身で喜びを表し、身体表現や鳴子や鈴等の楽器を使い、楽しく活動しています。次回は来週月曜に参ります。私としてはこのミュージック・ケアという行為は、羊飼いたちと同様の行いかもしれないと思っています。
 皆さん、神様は自分の賜物(できること)でイエス様である目の前の小さくされた人々に奉仕すること、献げ分かち合うことを求めておられます。私たちがそうできるよう、この礼拝で、また日々の生活の中で祈り求めたいと思います。
 そして、「心に留めて思い巡ら」す時も、一人でするのでなく「主と共に」、イエス様と一緒に心に納め、イエス様と共に熟考して参りたいと願います。

 最後にお祈りいたします。
「父なる神様、降誕日(クリスマス)の聖餐式に私たちをお招きくださり、そして、この日にあなたの独り子であるイエス様を生まれさせてくださり、ありがとうございます。
 クリスマスとは、キリストの聖餐式ということであり、聖餐に預かることでキリストと結ばれ霊的な生命に預かることができ、重ねて感謝申し上げます。
 あなたは、救い主であるイエス様誕生の知らせを羊飼いたちに最初に伝えられました。それはこの幼子とヨセフとマリアという夫婦に必要なものを与えるためだったのではないかと気づかされました。神様は自分のできることで目の前の小さくされた人々に奉仕すること、献げ分かち合うことを求めておられます。私たちもイエス様である小さくされた人々がその時に必要な物を、自分の持てる物、できることを、お捧げし分かち合うことができるようお導きください。そして、「心に留めて思い巡ら」すときも、「主と共に」、「イエス様と一緒に」心に納め、イエス様と共に熟考することを忘れないでいるようにしてください。
 本日、様々な事情で聖餐式に預かれなかった人々をあなたが祝福してくださいますように。クリスマスのこの日、病の床にある人々や寂しくつらい思いをしている人々はじめ、すべての人々にあなたが目を留め、恵みをお与えくださいますようにお祈りいたします。
 これらの感謝と祈りを私たちの主イエス・キリストによって御前にお捧げいたします。アーメン」