マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎節前主日聖餐式 『私たちに近寄るイエス様に聞く』

 本日は大斎節前主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、出エジプト記24:12、15-18とマタイによる福音書17:1-9。イエス様の「変容貌」を通して、イエス様が私たちに近寄り、直接触れてくださることを知り、イエス様に聞くことやイエス様と同じ栄光の姿に変えていただくよう祈り求めました。
 本日の福音書箇所から思い浮かぶ絵画、ティツィアーノの「キリストの変容」も活用しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 教会の暦では、本日は「大斎節前主日」という主日で、今週の水曜日、22日から、「大斎節」に入ります。その日が大斎始日で、当教会では「灰の水曜日の礼拝」が10時半から行われます。礼拝の中でしゅろの十字架を灰にしたものを額に塗り、悔い改めのしるしとします。この礼拝に参列いただけたら幸いです。
 なお、火曜日までは顕現節ですので、本日は祭色も「緑」のままですが、大斎始日(灰の水曜日)から祭色は「紫」に変わり、その日からイエス様の十字架を経て復活日へと進む期節である大斎節に入ります。そのことを視野に入れた主日が、今日の「大斎節前主日」です。
 この主日福音書箇所は、毎年、イエス様の山上での変容の出来事(いわゆる「変容貌」)が取られています。それはこのことが、イエス様の公生涯の、ちょうど半ばあたりに置かれ、これ以後今までのガリラヤからエルサレムでの十字架、復活へと進展していくことが、イエス様の地上の生の前半を記念した顕現節から後半の部分を記念する大斎節に入っていくのに重なっているからです。
 本主日福音書の箇所はマタイ17:1からで、雲の中から神様が「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」と弟子たちに語るという、父である神様と子であるイエス様の関係などを示す出来事が記されています。
 旧約聖書出エジプト記24章からで、福音書箇所に対応して、モーセシナイ山に昇ると、雲が山を覆い、雲の中から神様が呼びかけられた出来事を読んでいただきました。

 福音書を中心に考えます。本日の福音書の箇所は、イエス様が約3年間、宣教活動をされた後、弟子たちを連れてエルサレムに向かい、弟子たちに最初に死と復活を予告された直後(6日後)のことでした。この箇所を振り返ります。

 イエス様は、弟子たちの中からペトロ、ヤコブヨハネの3人を連れて、高い山に登られました。その山の頂上で、弟子たちの目の前で、イエス様の姿が変わったという出来事が起こりました。
 どのように変わったのかと言いますと、2節で「顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった」と記されています。真っ白になり、太陽のように光り輝かれたのです。その光景は、イエス様が神の栄光をお受けになったことを表す姿です。人間となられた神が、一瞬、神となられた、神が、神に戻られた瞬間でした。
 そして、そこで、弟子たちは、不思議な光景を目にしました。そこに、モーセとエリヤが現れ、イエス様と話し合っておられたのです。
 モーセは、イエス様の時代からさかのぼって、1300年ぐらい昔の預言者です。最も有名なユダヤ人の宗教的指導者です。エリヤは、860年ぐらい前の預言者です。イスラエルの人たちは、誰でも、「神の律法」は、モーセを通して与えられたことを知っていますし、エリヤは預言者たちが活躍した王国分裂時代の北イスラエルの最初の預言者です。二人とも、預言者の中の預言者として知られています。
 弟子たちは、その変容貌の光景からイエス様が、律法を代表するモーセと、預言者を代表するエリヤを相手に、親しく語り合っておられると、とっさに思ったのです。ペトロは思わず口走りました。
「主よ、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、ここに幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために」と。
 ペトロが幕屋を建てようと言っているのは、このあまりに素晴らしい光景が消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからと考えられます。ちなみにここで「幕屋」と訳された言葉(スケーネー)は、遊牧民が寄留地での住まいとする「幕屋・天幕・仮小屋」を表します。この前の新共同訳聖書は「仮小屋」と訳されていましたが、今回より原文に忠実に訳されました。英語の聖書(TEV)ではtentsでした。ちなみに、イスラエルの民にとって、神の住まいである「幕屋」は神と出会う場所であり(黙示録21:3)、エジプトから民を導く神が現存するしるし(出エジプト29:43以下)であります。ペトロにはそのようなイメージがあって「『幕屋』を建てましょう」と思わず言ったのではないかと思います。
 さて、そのうちに、光り輝く雲が彼らを覆いました。雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。
 すると、「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」という声が、雲の中から聞こえました。声の主はもちろん父なる神様です。この言葉は、イエス様がヨルダン川で洗礼を受けられたときに天から聞こえた声と同じです(マタイ3:17)。ここでは弟子たちにさらに「これに聞け」と呼びかけられます。「聞く」はただ声を耳で聞くという意味だけでなく、聞き従うことを意味します(申命記18:15等)。
 3人の弟子たちはこの声を聞いて、思わずひれ伏し、非常に恐れを感じました。彼らは頭も上げられず、ひれ伏していると、イエス様が近寄って来て、彼らに手を触れて言われました。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」
 彼らが顔を上げて見ますと、そこには、イエス様のほかには誰もいませんでした。
 さらに、イエス様は、山を下りるとき、弟子たちに、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」と、口止めをされました。
 これが、山の上でイエス様の姿が変わられた(変容貌)という非常に神秘的な出来事です。

 今回この箇所から私が思い浮かべたのが、ティツィアーノの絵画「キリストの変容」です。ティツィアーノは16世紀のヴェネチア派の画家です。

 この絵では、中央のキリストは目を天に向け、神々しく輝きを放ち、父なる神を仰ぎ見ています。向かって左には十戒の石板を持ったモーセ、右側にエリヤがキリストの光に照らされています。そして、この出来事に驚いた弟子たち(左からペトロ、ヤコブヨハネ)は、のけ反り倒れています。

 この箇所を通して神様は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか?
 私は2つあると思います。
 一つは5節の、ペトロに向かって神様が言った言葉「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け。」からです。この言葉の前にペトロは4節でイエス様に「主よ」と呼びかけ、イエス様とモーセとエリヤに一つずつ「幕屋」を建てようと提案しています。これはイエス様をモーセやエリヤと同列に置いていると言えます。ペトロの理解が不足しているので、神様は「イエス様に聞きなさい」と教えられました。この神様の声は、イエス様こそが旧約聖書を成就する者であることを明らかにしています。イエス様こそ神様が愛してやまない、我が子であること、み心に適う者、み心を行う者であることが示されました。さらに神様は「これに聞け」とつけ加えました。それは、イエス様が語る通りに、イエス様が行う通りにあなたがたはしなさい、ということです。
 私たちは、神様が示す生き方を求めます。神様のみ心は福音書のイエス様の言動の中に現れています。そこで、私たちは神様のみ心を知るために聖書を読み、祈る必要があるのです。「これに聞け」という言葉は直接的には弟子たちに向けられた言葉ですが、私たちにも向けられていると言えます。

 私の思う神様が私たちに伝えようとする、もう一つは7節で示されていることです。それは『イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」』です。
 ここで「立ち上がりなさい」と訳されている言葉は、新共同訳聖書では「起きなさい」と訳されていましたが、原形は「エゲイロー」で、それは「(死人を)甦らせる、復活させる」という意味もある言葉です。英語の聖書(ASV)ではarise とありました。
 また、ここの「イエスは近寄り」の「近寄る・近づく」という言葉は、多くの場合、イエス様に「近づく」人に用いられますが、この箇所とマタイ28:18だけ、イエス様に用いられています。そこでは、復活したイエス様が弟子たちに近づき「世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と約束して彼らを宣教に派遣しています。復活のイエス様を描くのと同じ語を用いて変容のイエス様を描写しており、変容の出来事は復活と結びついていることを示しています。山で神秘的な出来事に出会った弟子たちは、この後、山を下りていきます。イエス様の変容はイエス様が神の子であることを明らかにするだけでなく、山を下りて宣教という日常へと戻っていく弟子たちを励ますための出来事でもあったのです。
 私たちもこのような神秘、イエス様の変容に出会っています。それは例えば、この聖餐式です。イエス様は私たちを聖餐式という高い山に連れていってくださり、そこで御聖体(パン)に変容され、私たちに近づき、直接触れてくださり「私が一緒にいるから恐れるな」と言われるのです。そして、聖餐式のたびにキリストの体である御聖体を私たちがいただくことによって、私たちも、このキリストの姿に変容させられていくのであります。
 そして、この神秘的な出来事の後、山を下り日常の中で宣教という使命を神様は私たちに与えています。私たちは、それに応えたいと願います。

 さらに、イエス様の変容貌については、十字架の苦しみの中で弟子たちが迷わないように、イエス様が復活した神である御自分の姿を、あらかじめ示されたのだと考えられます。ですから、私たちにとって十字架とは、苦しみの時に苦しみだけに終わるのではなくて、復活の恵みに繋がるという希望を持って歩んでいくということであります。それは、私たちの信仰の基本的なことではないかと思います。

 皆さん、イエス様は私たちを神様に出会う山に連れて行ってくださいます。そこで神様は私たちにイエス様を「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け。」と言っておられます。私たちは神様のみ心を知るために聖書を読み、祈ります。イエス様は様々な姿に変容して私たちに近づき、直接触れてくださり「私が一緒にいるから恐れるな」と言われます。そして、聖餐式などを通して、私たちも、このキリストの姿に変容させられていきます。この神秘的な出来事の後、山を下り、日常の中で宣教という使命、それぞれの十字架を神様は私たちに与えておられます。私たちは神様によってそれを負う力を強めていただき、イエス様と同じ栄光の姿に変えていただくよう、祈り求めて参りたいと思います。