マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

主イエス変容の日 聖餐式『イエス様の変容、イエス様に聞くこと』

 本日は主イエス変容の日。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、ペトロの手紙二1:13-21、詩編99:5-9とルカによる福音書9:28-36 。説教では、「主イエス変容の日」にあたり、イエス様変容の意味を知り、神様が「これに聞け」と命じられていることを思い、そうできるよう祈り求めました。
 ベッリ-二の板絵の油彩画「キリストの変容」も活用しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は8月6日、教会の暦では「主イエス変容の日」です。
 主イエス様の変容は、受難(十字架)の40日前に起こったと伝えられてきました。そのため、9月14日の「聖十字架日(335年、発見された聖十字架を聖墳墓教会に納めた日)」の40日前の8月6日に、祝うようになりました。

 同時に、8月6日は、「広島に原爆が投下された日」です。また、昨日、この教会では「前橋空襲一斉慰霊」が行われ、前橋空襲で逝去された方々の慰霊と平和のための祈りを捧げました。この後、9日の長崎原爆の日、15日の終戦記念日と続き、お盆もあります。8月という月は、戦争と平和、死と命について、私たちに大きな問いを投げかけているように思います。

 本日の福音書ルカによる福音書9:28-36で、ペトロ、ヨハネヤコブという3人の弟子だけがいる山で、イエス様の顔の様子が変わり、衣が白く光り輝いた、という不思議な出来事の箇所です。
 使徒書はペトロの手紙二1:13-21で、イエス様のご変容を目撃したペトロが
その時のことを振り返った形で述べています。この時、父なる神の声を聞いたことが「預言の言葉(19節)」、つまり旧約聖書全体(モーセとエリヤ)を確かなものとして、その言葉を心に留めるよう勧めています。

 本日の福音を振り返ります。  
「この話をしてから八日ほどたったとき」と始まりますが、「この話」とは、本日の福音のすぐ前に書かれているイエス様の死と復活の予告を指しています。
 イエス様は、ペトロ、ヨハネヤコブを連れて、祈るために山に登られます。その祈りの中でのことです。イエス様はその祈りの中で姿が変わられます。この変容は神の子としての本質の現れであり、神の栄光をお受けになったという出来事です。その出来事の直接の引き金になったのが「祈り」であったと言えます。
 見ると、旧約の中で、律法と預言者の代表者であるモーセとエリヤの二人がイエス様と語り合っています。話の内容は「イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最後のことについて」です。ここで「最後」と訳されたギリシャ語は「エクソドス」で直訳は「出発」です。「エクソドス」は出エジプトを指す表現でもあり、また死を表す婉曲表現としても使われます。栄光に包まれた彼らがイエス様の死について語り合うのは奇妙に思いますが、イエス様の栄光は死と矛盾するような栄光ではなく、十字架に死ぬとき、最も輝きを発する栄光なのです。そしてそれは、単に「最後」なのでは新たな「出発」でもあるのです。
 この時、弟子たちは眠りこけ目を覚ますと、栄光に輝くイエス様と、一緒に立っている「二人の人」が見えました。二人がイエス様から離れようとしたとき、ペトロはイエス様に提案します。「幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために」と。こうして、ペトロは幕屋(新共同訳では「仮小屋」)を建てることにより、栄光に輝く三人を地上にとどめようとしたのです。やがて雲が現れ、彼らを覆い、雲の中から「これは私の子、私の選んだ者、これに聞け」という声が聞こえ、イエス様だけがそこにおられました。
 このような話でした。

 この場面を描いた絵画は数多くあります。ラファエロやフラ・アンジェリコやチチアーノ等です。
 今回は、このベッリ-二の「キリストの変容」を取り上げます。

 ベッリーニはイタリア、ルネサンス期のヴェネツィア派の画家であり、この『キリストの変容』は1480年頃の板絵の油彩画です。
 天上から声を聞き、自らが神であることを示す主イエス様を中心に、両脇にはモーセ(右)とエリヤ(左)を配し、イエス様の下には弟子のペトロ(中央)、ヨハネ(右)、ヤコブ(左)が平伏しています。
 
 この主イエス様の変容は何を意味し、この箇所を通して、神様が私たちに求めておられることは何でしょうか?

 山の上で、イエス様が祈っておられる時に、姿が変わられたという出来事は、イエス様ご自身が、神の子、「神」として、弟子たちに姿を示された瞬間です。神様が、神の御子が、人間の肉体を取り、この世に来られました。この時、山の上で、神の御子が、神の栄光を現わしたのです。どこかから差して来た光に照らされて輝いたのではなく、御子ご自身が光り輝き、神の栄光を発せられたのでした。白く光り輝く神そのものに変貌された瞬間でした。主イエス様の変容は、イエス様が神であることを弟子たちに示された出来事でした。しかし、弟子たちはその意味を理解せず、イエス様をモーセやエリヤと同等と考えました。イエス様の本質が分かっていなかったのです。私たちはどうでしょうか?

 今日の箇所の最後にあたる34節から36節では、雲が現れ彼らを覆い、雲の中から「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」という声が聞こえます。雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。雲の中からの声は、もちろん神様の声です。それが、弟子たちに「これに聞け」と呼びかけられます。聖書における「聞く」はただ声を耳で聞くというだけでなく、「聞き従う」ことを意味します(申命記18:15等参照)。受難・復活・昇天へと進む神の子、救済の業を行うため神様が選んだ者に私たちも「聞き従わなければならない」ということであり、それこそ神様が私たちに求めておられることだと思います。

 主イエス様の変容はイエス様が神であることを示された出来事であり、神様が私たちに求めておられることはその「イエス様に聞く」ことだと言えます。
 
 ところで、本日の入堂聖歌は434番「深い悩みの世の中にも」でした。この曲のメロディーは「埴生の宿」として知られ、原題は「Home, sweet home」です。
 この聖歌では、天のみ国であるわれらの家の素晴らしさ、また、それをこの地上で先取りする「聖なる者の集い」である教会、そこで行われる「喜び満つる宴」である聖餐式等を高らかに謳っています。   
  この聖歌の各節の折り返しの歌詞は「ああ すばらしい 天(あま)つ み国の われらの家」です。
 本日は2年前の8月10日に帰天されたマリア・H・Mさんのご家族が参列しておられます。H・Mさんは、この「すばらしい 天(あま)つ み国の われらの家」に一足早く住んでおられます。私たちもいずれそこに行き、また会えるのです。

 皆さん、本日は「イエス変容の日」であり「広島原爆の日」でもあります。8月の間、私たちは、戦争と平和、死と命について思い巡らしていきたいと思います。主イエス様の変容はイエス様が神であることを示された出来事であり、神様が私たちに求めておられることはその「イエス様に聞く」ことであります。私たちは、日々イエス様が神であることを自覚し、神様が「これに聞け」と命じられたことを深く思い、そうできるよう祈り求めて参りたいと思います。
 
  父と子と聖霊の御名によって。アーメン