マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『バッハのカンタータ第99番「神のみわざはすべて善し(神の業こそ、麗しい)」(BWV99)に思う』

 前々回のブログで、バッハの「ゴルドベルグ変奏曲」について記し、最初と最後のアリアは「天国」、30の変奏は「この世」であると黙想しました。そして、第30変奏のメロディがカンタータ第99番「神のみわざはすべて善し」(BWV99)のコラールに類似していることに言及しました。
 家に確かこの曲の入ったCDがあったはずと探したら、見つかりました。バッハ・コレギウム・ジャパンの「バッハ:カンタータ全曲シリーズの㉕」です。

 このCDは以下のURLで聞くことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=d9wqYVNTLqw

 このカンタータ第99番「神のみわざはすべて善し(神の業こそ、麗しい)」(BWV99)は1724年9月17日に初演されました。この日、三位一体後第15主日福音書箇所はマタイ第6章25~34節のいわゆる「山上の垂訓」であり、そのテーマをよく伝えることができるようにと意図して、バッハは本カンタータを書かしめました。
 特に「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」(マタイ6:25・26)の聖句を通して、説教者は会衆を「神の御業への絶対なる信頼」へと導きました。
 本カンタータのテキスト作者(不詳)は、聖句の取り込み方に非常に注意を払い、より積極的な解釈をして「山上の垂訓」の表象を行ない、本コラールと聖句を結びつけたと考えられます。
 このカンタータの訳詞を下に示します。

I. 合唱
神の行なわれる御業はすべて善きもの その御心はいつも義に満ちている
神が私をどのように導こうとも 私はただあなたに従う
我が神なるお方 困難のなかにあっても
私を養ってくださる術をご存知 ゆえに私は一切をあなたにゆだねる

II. レチタティーヴォ(バス)
まこと神の言葉は真実であり 決して私を欺かない
この言葉ゆえに、神を信じる者は倒れることも堕落することもない
その言葉は私を生命の道に導き入れ、私の心を捉え、満たす
父なる神の真実、慈しみ、そして寛容ゆえに
思いもよらぬ災難が襲う時も 神はその全能の御手をもって
災厄を遠ざけてくださる

III. アリア(テノール)
弱き我が魂よ、恐れおののくな たとえ十字架の杯が苦くとも 
神こそが知恵ある医者にして奇跡なる方 
毒をもってあなたを死にいたらしめることはない 
ひそかに甘みを加えられることはあっても

IV. レチタティーヴォ(アルト)
あなたとの永遠の契約が 私の変わることなき信仰の礎
確信をもって語る 死の時も生ける時も
神こそわが光、 私はあなたに従う
そして日々もたらされる 多くの苦しみや苦難に耐え続け
十分に涙を流しきった時 やがて救いの日が訪れ
神のまことの思いが現れる

V. 二重唱(ソプラノ・アルト)
十字架の苦しみと 肉なる人の弱さが相見えるならば
それも御旨にかなうこと 苦しみの十字架を耐えがたいと思う者は
そののち、喜びにあずかることはないだろう

V. コラール
神の行なうことはすべて善きこと 私はいつもそこに身を置く
たとえ険しい道を歩む時 嘆きや死、惨めなことに翻弄されようとも
神は私を 父なる愛をもって 御腕の中に守ってくださる
ゆえに私は一切をあなたにゆだねる

 この詩には神への絶対的な信頼が溢れています。人生を生きる上でこのことはエッセンシャル、必ず必要なものであると言っているように思われます。

 バッハ家は代々、熱心なルター派の信徒でした。バッハは9歳の時母が死に、その9ヶ月後に父も亡くなりました。バッハは両親に死に別れ、孤児になってしまいました。そして14歳年上の兄の家に引き取られ、音楽に打ち込むことでその寂しさに打ち勝とうとしたのです。
 実は、私も10歳で母を亡くしました。子供なりに「人生にはいくら祈ってもどうにもならないことがある」と思い、絶望感に陥りました。父が不憫に思ったのかピアノを買ってくれました。それから私は先生についてピアノを習い出しました。小学校4年で、楽器演奏を始めるのに決して早くはありませんでした。私は母のいない寂しさを紛らわすかのように、毎日約1時間ほどピアノの練習に打ち込みました。高校1年で止めてしまいましたが、小学校や養護学校の教師だった時には大いに役立ち、教会音楽もすんなり受け入れ、今もミュージック・ケアのセッションの最後にピアノを弾いています。
 ピアノに親しんだことは、キリスト教に触れたときにあまり違和感がなかったことにも関係しているように思います。高校の時に好きだったのはバーンスタイン・ロンドン響の「ヴェルディ・レクイエム」のレコードで、自分が亡くなる時はこの音楽に包まれたいと願ったほどでした。

 カンタータ第99番「神のみわざはすべて善し(神の業こそ、麗しい)」(BWV99)のコラールでは、「神の行なうことはすべて善きこと(略)神は私を父なる愛をもって御腕の中に守ってくださる」と歌っています。
 幼い時に親を亡くすことは決してうれしいことではありませんが、それをそれで終わりにせず、何かに打ち込むこともできるのです。それが新たな希望を生みました。それが私をキリスト教に導き、今は聖職に就いています。「神のみわざはすべて善し」なのだと思うのであります。