マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活節第5主日 聖餐式 『主イエス様の与える新しい戒め』

 本日は復活節第5主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。本日の礼拝で私が感動したことがありました。当教会では特祷の後にカンタベリー大主教とヨーク大主教が作成した「ウクライナの祈り」捧げているのですが、本日は自然と会衆も一緒にこの祈りを声を出して唱えたのでした。信徒の皆さんのウクライナの人々への思いが言葉として表れたのだと思い心が震えました。
 本日の聖書箇所は、レビ記7:9-17とヨハネによる福音書13:31-35。主イエス様の与える新しい戒めの意味を知り、「互いに愛し合いなさい。」のみ声に聞き従うために、私たちにイエス様の愛を注ぎ導いてくださるように祈り求めました。この箇所の舞台である「最後の晩餐の部屋」(アパ・ルーム)」の写真も紹介しました。

   主イエス様の与える新しい戒め

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は復活節第5主日です。復活節の福音書ヨハネ福音書が継続して朗読されます。復活節第5主日には毎年、十字架直前にイエス様が弟子たちに言い残した「告別説教」の中から選ばれています。今年、C年はイエス様がこの世を去るにあたり「互いに愛し合う」という「新しい戒め」を与えることを述べています。
 
  本日の福音書の箇所、ヨハネによる福音書13章31-35節を振り返ります。
 本日の個所の前にはイエス様が弟子たちの足を洗うということが記されております。その後、弟子たちといわゆる「最後の晩餐」が行われ、その最中にユダの中にサタンが入り、皆で食事をしていた場から彼が出て行くところから、本日の福音書が始まっています。最後の晩餐ですから、イエス様が亡くなられる前の晩のことです。私は4年前のイスラエル旅行でも、エルサレムの南部のシオンの丘にある「最後の晩餐の部屋」を訪れました。

  それはダビデ王の墓がある建物の2階にあり、それ程広くはなく、何もないがらんとした空間でした。この建物自体は14世紀に再建されたものです。2階座敷(アパ・ルーム)と呼ばれたこの部屋は、復活したイエス様が弟子たちに姿を現された場所でもあります。ユダはイエス様のことを密告するためにその場から出ていきました。イエス様の受難がここから始まっています。 
 十字架の死がすぐそこまで迫っている時に、イエス様は弟子たちに、思いのすべてを伝えるように多くのことを話されました。それは「告別説教」と呼ばれ、ヨハネ福音書13章31節から16章33節にまとめられています。
 
 本日の箇所には、2つのテーマが語られています。第一は「栄光を受ける」ということ、第二は「新しい戒め」についてです。

 まず、第一のテーマについてです。
 イエス様は言われました。31・32節からです。「今や、人の子は栄光を受け、神は人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる」と。
 「人の子」とはイエス様ご自身のことです。イエス様は、救い主としてご自分のことを語られる時、ご自分を「人の子」という称号で呼んでおられます。
 「人の子が栄光を受けた」と言われる、「栄光」とはどういう意味でしょうか?
 ヨハネ福音書では、イエス様が十字架にかかられること自身が栄光であると、イエス様がおっしゃっています(12:27-33)。十字架に上げられていくことが栄光であると語っています。通常、栄光というのは、成功したり、うまくいったり、この世界でのぼっていくことだと考えられます。しかし、イエス様にとって栄光というのは十字架の死に向かって上げられていく、それこそが栄光であるというのです。私は、イエス様が自らの十字架をもって「栄光を受ける」と語られたことを、心に刻んでおきたいと思います。

 続いて、第二のテーマについてです。34節をご覧ください。
「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
 イエス様は弟子たちに「互いに愛し合いなさい。」という新しい戒めを与えられました。イエス様の言う「新しい戒め」とは何でしょうか?
 「新しい戒め」があるということは「古い戒め」もあるということです。では「古い戒め」とは何でしょうか? すぐに思い浮かぶのは「モーセ十戒」です。また、先ほど旧約聖書日課で読んでいただいたレビ記19章の内容もどれも立派な内容ですが「古い戒め」と言えるかもしれません。最後の18節には「隣人を自分のように愛しなさい。」とあります。既に旧約の律法においてこのように記されているのですから、「互いに愛し合いなさい。」という戒めは少しも新しくないのではないか、と思う方もおられると思います。
 しかし、そうでしょうか? イエス様のこの戒めのどこが新しいのでしょうか?
 実は、この主イエス様の戒めの新しさは、「私があなたがたを愛したように」というところにあるのです。「互いに愛し合いなさい」という言葉を、分かっていることとして、もう知っていると受け取る人は、自分の力で愛せると思っているし、この言葉を「互いに仲良くしなさい」という程度のこととして受け取っているのかもしれません。しかし、イエス様がここで言われていることは、そういうことではないようです。
 イエス様が「新しい」とおっしゃっているのは、その戒めの守り方の新しさなのです。「私があなたがたを愛したように」と、「ように」と日本語に訳されている言葉ですが、ギリシャ語で「カソース」という単語が使われています。「カソース」という言葉は、根拠とか、理由とか、原因とか、を表す言葉です。ですから、ここはかなりはっきりした表現です。そこで、そのことを意識してイエス様の言葉を言うなら、こうです。
「私があなたがたを愛した“その愛で”あなたがたも互いに愛し合いなさい」
「私があなたがたを愛した“その愛を使って”あなたがたも互いに愛し合いなさい」・・・ここに新しさがあるのです。

 さらに、ここで主イエス様が語られた愛は、どのような愛かというと「十字架の愛」です。それは神様がイエス様に与えた「栄光」です。「栄光」と「十字架の愛」とは表裏一体です。その意味では本日の第一のテーマと第二のテーマは一体と言えます。「十字架の愛」とは、神様がご自身に反して罪の中を歩む私たちのために、愛する独り子を贖いとして、身代わりとされた愛です。自分にとって大切な人、好きな人、気が合う人、その人のために力を尽くす。そういう愛ではありません。親が子を愛する、恋人を大切にする、友人と仲良くする。そういうことでもありません。「主イエス様が十字架で示されたその愛で、互いに愛し合いなさい」と言うのです。ですからそれは、たとえ自分と気が合わない人でも、嫌な人でも、その人のために労苦をいとわず、愛の業に励むことでもあります。主イエス様はそれを「互いに為せ」と言われ、「これが戒めだ」と言われたのです。これは実に「新しい戒め」であります。

 ちなみにこの「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」を学校建学の理念としている学校があります。ご存知でしょうか? それは共愛学園です。共愛学園は、この聖書の教え「互いに愛し合う、共愛」を理念としています。共愛学園は1,888年(明治21年)に創立されました。我がマッテア教会の宣教開始の1年前です。共愛学園はこの崇高な聖書の教えを校名、及び建学の理念としてこれまで歩んでこられたのです。

 福音書に戻ります。最後の35節に「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。」とあります。
 このような愛に生きる人たちこそ本当のイエス様の弟子であり、多くの人たちは、互いに愛し合っている私たちの様子を知ることによって私たちがイエス様の弟子であることを認めると、イエス様は言われるのです。

 主イエス様が告別説教の冒頭で遺言のようにおっしゃられた「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という愛を、実行することは自分の力でできることではありません。イエス様が十字架で示されたような愛は、私たちの内側から自然と湧き上がることはありません。ではどうすればいいのでしょう? 
 イエス様の告別説教が語られた2階座敷(アパ・ルーム)は何もないがらんとした空間でした。それはまるで私たちのようです。私たちにはイエス様が十字架で示されたような愛を行う何ものも持っていないのです。この愛は、主イエス・キリストから注いでいただかなければ実行できないものです。そのためには、主イエス様に愛と導きを祈り求めなければなりません。「イエス様、あなたの求める『互いに愛し合いなさい』という「新しい戒め」を実行できるようにあなたの愛を私たちに注ぎ導いてください」と祈ることが肝心なのだと思います。

 皆さん、私たちは、人生のある時に、主イエス様に出会い、その呼びかけに応え、信仰の道に入り弟子となりました。イエス様は私たちの罪の贖いのため、十字架にかかってまで私たちを愛し抜いてくださいました。その愛を心に留め、イエス様が遺言のようにおしゃられた「互いに愛し合いなさい。」のみ声に聞き従うために、イエス様の愛を私たちに注ぎ導いてくださるように祈り求めましょう。
 そして、私たちのこの教会が、イエス様が教えられる新しい戒め、本当の愛で満ちた教会となるように祈り求めて参りたいと思います。