マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎節第5主日聖餐式 『捨てられた石が隅の親石に』

 本日は大斎節第5主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。お聖堂前の桜が満開です(写真は昨日のもの)。

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 聖書日課はフィリピの信徒への手紙3:8-14 とルカによる福音書20:9-19 。説教では、イエス様こそ、私たちを砕き新しく生きるようにするための「隅の親石」であることを知り、神様の方を向きイエス様につながり、復活日を迎えることができるよう祈り求めました。

    礼拝後、雨の中でしたが、午後1時30分から嶺公園内教会墓地にて「逝去者記念の式」がありました。

 

    『捨てられた石が隅の親石に』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
  
 本日は、大斎節第5主日です。大斎節も終盤、イエス様の十字架がいよいよ近づいて来ました。次の主日は復活前主日、いよいよ聖週に入ります。

 本日の福音書箇所はルカによる福音書20:9-19で、聖書協会共同訳聖書の小見出しは「ぶどう園と農夫のたとえ」です。この箇所を振り返ります。
『ある人が、ぶどう園を造り、これを農夫たちに貸して、長い旅に出ました。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、次々と3人の僕を農夫たちのところへ送りました。ところが、農夫たちは、この僕たちを袋だたきにして、追い返したり放り出したりしました。
 そこで、ぶどう園の主人は、『どうしようか。わたしの愛する息子を送ろう。この子なら、たぶん敬ってくれるだろう』と言って、一人息子を送りました。すると、農夫たちは『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、財産はこちらのものだ』と、この息子をぶどう園の外に放り出して、殺してしまいました。当時の決まりによると、相続人のいない財産はそれを最初に占領した者の財産となりました。農夫たちは不在地主の息子が来たのを見て、地主が死んだと思い、跡取りを殺せば財産が自分たちのものになると考えたのでしょう。これに対して、ぶどう園の主人は、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない』と、イエス様は言いました。すると、これを聞いていた人々は、「そんなことがあってはなりません」と言いました。・・・

 このたとえ話の、ぶどう園の主人とは誰のことでしょうか? また、ぶどう園とは何のことでしょうか? 農夫たち、僕、息子とは誰のことでしょうか?
 このたとえの中の、ぶどう園の主人、すなわちぶどう園の所有者とは、父なる神様のことであり、ぶどう園とはイスラエル、そのぶどう園で働く農夫とは、イスラエルの民のことを表していると考えられます。「長い旅」とは、旧約聖書の長い歴史のことです。また、次々と送られた3人の僕とは、神様から遣わされた預言者たちを意味しています。例えばエリヤであり、イザヤであり、エレミヤです。そして、最後に遣わされた「息子」とは、子なる神であるイエス様であります。 
 物語に即してたとえを解釈するとこうなります。
 神様は、イスラエルの民を選び、神の民とすることを約束されました。イスラエルの民は、神様に選ばれた民として、律法が与えられ、神様の御心に従って生きることを約束しました。しかし、彼らは、その約束、契約を破り、神様の言うことを聞きません。そこで、神様は、次々と預言者たちを遣わして、神様との契約に立ち帰ることを求めました。しかし、イスラエルの民は、預言者たちに危害を加え、追い返しました。そして、最後に、神様は、「愛する息子」であるイエス様をこの世にお遣わしになりました。ところが、イスラエルの民は、イエス様を殺してしまいました。
 イエス様が、この何千年にも渡る歴史的な事実を、たとえとして語られると、人々は、「そんなことがあってはなりません」と言って、農夫たちを非難しました。

 さらに、イエス様は、この話を聞いていた人々を見つめて言われました。
「それでは、こう書いてあるのは、何のことか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その石が落ちて来た者は、押し潰される」と。
 この最初の部分は、詩編118編22節「家を建てる者の捨てた石が隅の親石となった。」の引用です。
 当時のこの地方の家や建物は、石を積み上げて作られていました。石工は、ちょうど良い石を選び、要らない石を捨てていました。しかし、時代が変わり、次の新しい建物が建てられる時には、この捨てられた石が、石工の目にとまり、次の建物の親石(コーナーストーン)となって、新しい建物の基礎なる石として取り上げられるというのです。これはイスラエルの民によって、捨てられた石、すなわちイエス様が、親石として、大役を果たすことになるということと考えられます。
 そして、18節の「その石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その石が落ちて来た者は、押しつぶされる」という御言葉は、隅の親石となる主イエス様を拒み、敵対するなら、その人は滅びに至る、ということを意味していると考えられます。言い換えれば、この石としっかり結び合わされることによって、神様による救いにあずかることができ、神の民の一員となることができるというのだと思います。
 また、この引用は、今、目前に迫っているイエス様の十字架の死、受難の予告にもなっています。受難、十字架の死、それに続く復活によって、ご自分が「隅の親石」となる新しい家、救いの家が建てられていくことをイエス様は示そうとしておられるのです。
 多くの人々に交じって、イエス様の話を聞いていた祭司長たちや律法学者たちは、イエス様が、自分たちに当てつけて、このようなたとえを話されたのだと気づいてイエス様を殺そうとしましたが、民衆を恐れて、それはできませんでした。

 このような話でした。今回、この箇所で私が注目したのは17節の「それでは、こう書いてあるのは、何のことか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』」という御言葉です。
 「家を建てる者の捨てた石」、これは先ほどもお話ししましたように詩編118編22節の言葉ですが、通常では考えられない事が起こったということです。この詩編の先はこうです。
「これは主の業 私たちの目には驚くべきこと。今日こそ、主が造られた日。これを喜び躍ろう。」(詩編118編23節~24節)
 主のなさる救いの御業は、人の目には不思議に見えます。人が捨てた石を主は拾い、それを隅の要の石にし、その石をないがしろにする人は、その石に押し潰されます。しかし、一旦は石を捨てても神様が拾ってくださる時に、神様の方を向きイエス様につながるとき、神様はその者たちが誰であっても、イエス様によって救ってくださるのです。これは私たちの目には驚くべきことであり、喜び踊るべき御業なのであります。
 今日はこの後、午後1時30分から嶺公園内教会墓地にて「逝去者記念の式」があります。この墓地に眠っている方々は皆イエス様とつながり救われています。私たちは、その信仰の先達に倣いたいと思います。

 皆さん、イエス様は、私たちのために十字架に向かわれました。人々から石のように放り出され、見捨てられたのです。しかし、イエス様は十字架の死から復活されました。それは「隅の親石」となって、私たちを砕き、新しく生きるようにするためです。それは大いなる恵みです。私たちはそのことに感謝し、神様の方を向きイエス様につながり、復活の喜びの日を迎えることができるよう、祈り求めて参りたいと思います。

 

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                      <「逝去者記念の式」の様子>