マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

顕現後第4主日 聖餐式『権威ある新しい教えに従う』

 本日は顕現後第4主日です。午前は前橋、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、申命記18:15-20、詩編111、コリントの信徒への手紙一8:1-13、マルコによる福音書1:21-28。 
 説教では、「汚れた霊に取りつかれた男を癒やす」箇所から、「権威ある新しい教え」に聞き従い、神様が私たち一人一人に応じて授けてくださった権威・権能を現して、主を証しすることができるよう祈り求めました。
 本日のテーマと関係するトルストイの民話「七つの星」も活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 能登半島地震の死者は230人を越え、1万4千人以上が避難生活をしています。この寒さで学校の体育館や自家用車での避難生活を思うと、いてもたってもいられません。海外では、ウクライナでの戦闘も未だ激しく、パレスチナではガザ地区の死者が2万5千人を超えています。これらのことについて、この礼拝で共に祈りを捧げたいと思います。

 本日は顕現後第4主日です。福音書箇所は、イエス様の力ある言葉により追い出された汚れた霊の物語です。また、本日の旧約聖書である申命記18章は、イスラエル人がエジプトを出て荒れ野の旅を続け約束の地を目前にした時、指導者モーセが遺言として彼らに語りかけた箇所が取られています。また、使徒書はコリントの信徒への手紙一8章で、偶像に備えられた肉を巡るパウロの勧告です。
 本日の福音書の箇所は、先主日の続きのマルコによる福音書1章21節から28節で、聖書協会共同訳聖書の小見出しは「汚れた霊に取りつかれた男を癒やす」となっています。本日の箇所を解説を入れて振り返ってみます。

『ある安息日に、カファルナウムに着いたイエス様は、会堂に入って教え始められました。「安息日」は、ユダヤ教では金曜日の日没から土曜日の日没までにあたり、労働を休み、礼拝を行うための日です。また、カファルナウムはガリラヤ湖の北西岸にある町です。さらに、会堂は、シナゴーグと呼ばれ、ユダヤ教の礼拝が行われる場所で、子供たちに律法を教える学校であり、議会や裁判が行われる場所でもありました。そこで、イエス様の「教え」を聞いた人々は非常に驚きました。その教えは、今まで聞いた律法学者のようではなく、権威ある者のようにお教えになったからでした。
 この権威ある教え、直接、神様が語られる教えに対して、いちばん最初に反応したのがこの会堂にいた「汚れた霊に取りつかれた男」でした。その男が「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と叫びました。汚れた霊とは悪霊のことで、悪魔、サタンの使いと考えられていました。当時の人々は、病気や不幸の原因は、悪霊の仕業だと考えていました。汚れた霊、悪霊は、直感的にイエス様の正体を見抜き「神の聖者だ」と告白したのでした。
 イエス様が、「黙れ。この人から出て行け」と、この汚れた霊に命じ、叱りつけると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行きました。
 それを見た人々は、皆驚いて、「これは一体何事だ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聞く。」と論じ合いました。
 たちまちイエス様の評判はガリラヤ地方の隅々にまで広まりました。』
 このような箇所でした。

 この「権威ある新しい教え」とは、どのような教えでしょうか?
 ここで「権威」と訳されたギリシア語は「エクスーシア」という言葉で、元々は「本質(ウーシア)から出て来た」「本質から溢れ出た」という意味合いの言葉です。「権能」とも訳されます。人々が感じ、経験したイエス様の権威・権能とは、神様の本質から溢れ出る命と力と愛です。神様の命と力と愛を、人々はイエス様に接する中ではっきりと経験しました。自分たちに注がれる神様の力ある愛を経験したのです。そうしますと日本語の堅苦しい「権威」というイメージとはずいぶん違ってきます。

 イエス様は汚れた霊を従わせることによって、彼の教えが「権威」をもった新しい「教え」であることを示しました。イエス様の言葉を、「権威ある教え」として受け取った人々は、イエス様の言葉に悪霊を追い出す力があることを知り、今まで見たことも聞いたこともない「新しい教え」だと受け取ったのでした。
 イエス様の権威は、肩書きや知名度や学識からきている権威ではありません。イエス様の権威は、神様の権威であり、神様ご自身の本質・力が直接現されているものなのであります。

  「汚れた霊」と言われても現代の私たちにはピンときませんが、聖書では、この「汚れた霊」や悪霊、または悪魔やサタンを多くの箇所で描いています。具体的にそれらの正体ははっきりとは描かれていませんが、それらは神様との関係を切り離し、私たち人間に生きる上での苦しみを与えている様々な要因そのものと考えられます。例えばウクライナパレスチナでの戦闘やミャンマー等の内戦、身近には様々なハラスメント、そして1月1日に発生した能登半島地震なども「汚れた霊」ととらえることができるかもしれません。私たちはそれらの問題と向き合いつつ、その理不尽さに嘆き、人間の無力さに気付かされます。また、私たちは、人生に疲れ、魂の渇きを覚え、自分自身を見失う時もあります。この会堂にいた男性もそのようなものを背負って生きていたのかもしれません。「汚れた霊」はそのことを指し示しているとも考えられますから、決して現代の私たちと無縁のものとは言えないと思います。
 そして、「汚れた霊」は、イエス様の教え、その権威ある言葉に対して反応し、イエス様の権威ある新しい教えによって追い出されたのです。
 イエス様の権威・権能は12弟子に引き継がれました。マタイによる福音書10章 1節にこうあります。
「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒やすためであった。」
 そしてその権威・権能は、方法や効果は違うかもしれませんが、現代のイエス様の弟子である私たちにも引き継がれています。

 本日の福音書の「汚れた霊に取りつかれた男を癒やす」箇所から、私たちはどうあったらいいでしょうか? 

 そのことで思い浮かんだお話があります。
 私は玉村のマーガレット幼稚園の誕生会でお話をしています。先日、1月16日の誕生会でトルストイの民話「七つの星」の絵本を読みました。

 こんなお話です。
「むかし、ある村で、日照りが続き、女の子が、病気のお母さんのために水を探しに行きました。女の子は疲れて、森の中で眠ってしまいました。目を覚ました女の子は、目の前の木のひしゃくにきれいな水が光っているの気がつきました。「お母さんに早く飲ませてあげたい」と家にかけて行った時、水をほしがる子犬に出会い、少し水を飲ませてあげると、木のひしゃくは銀のひしゃくに変わりました。
 家に帰った女の子がお母さんに水をあげようとすると、お母さんは「おまえがお飲み」と言いました。その時、銀のひしゃくは金のひしゃくに変わりました。
 次に、おじいさんがやって来て、「一口だけ水を飲ませてください」と言いました。女の子は、おもわずひしゃくを差し出しました。おじいさんが水を飲もうとすると、ひしゃくの底にダイアモンドが七つ沈んでいて、水が、勢いよく流れ出しました。
 七つのダイヤモンドは空高く上り、七つのお星さまになり、ひしゃくの形の星座になりました。」
 読み終わって、子供たちに「木のひしゃくが銀や金になったりダイヤモンドが出たりしたのはどうしてでしょうか?」と尋ねました。するとある子が「女の子がいい子だったから」と答えました。この答えからこんなことを思いました。「いい」は英語では「good」で、この語の古英語は「god」です。神のなさることが良いことなのだと。
 次に「ひしゃくを金にしたりダイヤモンドを出したりしたのは誰でしょうか?」と尋ねると、一斉に「神様!」と答えがありました。
 女の子の無償の愛が奇跡を生みました。しかし、その良い(good)ことは神様(God)が女の子を通してなさったのです。そして、神様が弟子である女の子に、この子に応じた権威・権能を授けて、奇跡を起こさせたと言い換えてもいいかもしれません。

 皆さん、神(God)のなさることは皆良い(good)ことです。今日の「汚れた霊に取りつかれた男を癒やす」箇所で言えば、「権威ある新しい教え」こそが神様のなさる良いことです。私たちは、今、改めて本当に権威ある方の教えに聞き従いたいと願います。そして、神様が私たち一人一人に応じて授けてくださっている権威・権能を現して、主を証しすることができるよう祈り求めたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン