降臨節前主日『真理であるイエス様の声を聞く』
本日は 降臨節前主日です。午前は高崎、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。
聖書箇所は、ダニエル書7:9-10・13-14、詩編93、ヨハネの黙示録1:4b-8、ヨハネによる福音書18:33-37。説教では、イエス様は神の国の王であり、その王が真理を証しするためにこの世に来たことを理解し、真理であるイエス様のものであり、イエス様の声に聞く者であるよう祈り求めました。
本日のテーマから思い浮かべた映画『パッション』からのピラトとイエス様の対話も紹介しました。
高崎の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
昨日、第92回定期教区会が志木聖母教会でありました。高崎からは代議員の秋吉さんが出席され、すべての報告とすべての議案が承認されました。秋吉さんお疲れ様でした。
この会議の冒頭の主教告示の中で、髙橋主教様は私の定年退職について触れて「来年3月末で退職される福田司祭の経験と賜物を生かした奉仕に感謝します」と話されました。また、すべての議事が終わったところで、私の「これまでの働きに感謝する」という動議が出され、拍手をいただき、一言挨拶をいたしました。これまであまり意識していなかったのですが、「いよいよあと四ヶ月で、牧師または管理牧師としての職務は終わる。主のみ旨が果たせるよう導きを祈ろう。」と、思いを新たにしました。
さて、本日は降臨節前主日です。降臨節前主日は、教会暦で一年の最後の主日にあたります。「王であるキリスト」の日とも「キリストによる回復」とも言われる日です。本日の特祷にその内容が入っています。そして来週は「降臨節第一主日」という、教会暦の新しい一年の始まりになります。
本日の福音書箇所は、ヨハネによる福音書 18章33節-37節で、この箇所を含む聖書協会共同訳聖書の小見出しは「ピラトから尋問される」と記されていて、「王」に関するイエス様へのピラトの尋問の場面が選択されています。私は改正祈祷書試用版の聖書日課を採用していますが、これまでの福音書箇所はヨハネ福音書18章31節-37節でしたが、今回はカトリック教会の聖書日課と同じになり、一層イエス様が「王」であることを強調しているように思います。ピラトとは、私たちが礼拝などで唱えている「ニケア信経」や「使徒信経」に出てくる「ポンテオ・ピラト」のことです。本日の福音書箇所では、イエス様は「政治的な王(この世の王)」ではなく、「真理について証しをするために世に来た王」であることが(37節)示されます。
旧約聖書はダニエル書7章「四頭の獣の幻」(ダニエルが夢で見た幻)からの箇所で、それらが表す世界の帝国への裁きの幻の場面です。人の子が天の雲に乗り、「日の老いたる者」(神の称号(「ずっと生きている」の意)の前に出て、権威、威光、それに「王権」を受けるという描写は、キリストの再臨を想起させます。使徒書の黙示録1章でも、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」(4、8節)、「王たちの支配者」(5節)、イエス・キリストが「雲に乗って来られる」(7節)という部分が選ばれています。
本日の福音書箇所を解説を加えて振り返ります。
この箇所はイエス様がゲッセマネの園で捕らえられた翌日、金曜日の明け方のことです。本日の箇所の直前で、人々はイエス様を大祭司のところから総督官邸に連れて行き、ピラトにイエス様を死刑にするよう訴えます。ピラトの本音はイエス様の裁判には関わりたくない様子が見て取れます。
しかし、33節で、ピラトは官邸に入り、イエス様を呼び出して、「お前はユダヤ人の王なのか」と尋ねます。これは、ユダヤ教の指導者が、「イエスは自分を王であると称して民衆の反ローマ運動を扇動する者」として訴えたので、「もしそうならば放っておけない」と、ピラトはイエス様に念を押したのだと思います。イエス様が王であると認めれば政治犯として裁判にかけられ、ローマ帝国への反逆であれば、ローマ式の十字架による死刑に相当します。
ピラトの「ユダヤ人の王なのか」という問いに対して、イエス様は「本当にそう思うのか」というような答えをし、ピラトは「私はユダヤ人ではないので、お前が王であると考えたりするはずはない」というような話をします。そして「一体、何をしたのか」と問い詰めます。
それに対して36節でイエス様は答えられました。
「私の国は、この世のものではない。もし、この世のものであれば、私をユダヤ人に引き渡さないように、部下が戦ったことだろう。しかし実際、私の国はこの世のものではない。」と。
イエス様の国はこの世のものではありません。この国は神の国のことと考えられ、それは領土や場所のことではなく、神様が王として恵みと力とをもって支配されることです。しかし、ピラトにはそれが理解できません。
37節にこうあります。
『ピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「私が王だとは、あなたが言っていることだ。私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。」』
ちなみに、「王」はギリシャ語で「バシレウス」と言い、この言葉から「国=バシレイア」という言葉が生まれました。英語の聖書では「King」と「Kingdom」ですので、「バシレイア」は「王国」と訳した方が正確と言えます。「バシレイア」には、「王としての支配」という意味もあります。ピラトはイエス様が「私の国(=バシレイア)」(36節)と言ったのを聞いたので、「それでは、やはり王(=バシレウス)なのか」(37節)と問い詰めました。
それに対して、イエス様は、「それはあなたが言っていることだ」と肯定も否定もせず、ご自分の使命のこと「真理について証しをするために世に来た」と言われたのです。
このような箇所でした。
今日の福音書の箇所から思い浮かべる映画があります。それは「パッション」という映画です。今回、久しぶりにDVDで見直しました。

この映画は2004年に公開され、鞭打ちのシーンなどかなりリアルで、アメリカではショック死した人も出て話題となりました。この映画はイエス様のゲッセマネの園での祈りから十字架上の受難(パッション・死)までの約半日を描いています。
この映画の前半で、ピラトの官邸内でのピラトとイエス様とのやりとりがあります。「お前は王か?」

と問うピラトに対して、イエス様は「私の王国は地上にはない」

と答えます。ピラトの考える「王」とイエス様の考える「王国」はまったく違っていますが、ピラトには理解できない様子が描かれていました。
本日の主題は「イエス様は王であるか」ということ、そして、王ならば「どのような王なのか」ということです。率直に言えば、イエス様はこの世の王ではなく、神の国の王であります。その王が、真理を証しするためにこの世に来たのです。
では、真理とは何でしょうか?
「真理」はギリシャ語では「アレーセイア」と言います。この言葉には「隠されたものが顕わになること」という意味があります。一方、「真理」と訳されるヘブライ語は「エメト」で、これは「アーメン」という言葉と同じ語根で「確かなもの、頼りになるもの」を表します。ヨハネ福音書の「真理」という言葉は、この両方のニュアンスがあるようです。ここでの「真理」は、「何よりも確かで、頼りになる神ご自身をイエス様が言葉と生き方を通して現す」ということを示している言葉と言えます。そしてそれはイエス様ご自身でもあります。ヨハネの福音書第14章6節に『イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。』とあります。さらにヨハネの福音書第8章32節に「真理はあなたがたを自由にする。」という言葉があります。イエス様の言葉と生き方が私たちを自由にする、真理であるイエス様が私たちを自由にされるのです。それは言葉を換えれば、イエス様によってあらゆる者が神様の思いから離れた状況から回復され、解放されることであると言えます。
本日の福音書の最後で「真理から出た者は皆、私の声を聞く。」とイエス様はお話になりました。ここのギリシャ語を直訳すると「真理からある者はすべて私の声に聞く」です。英語の聖書(NRSV)では、「Everyone who belongs to the truth listens to my voice.”(真理のものである者(真理に属する者)は皆、私の声を聞く)」でした。私たちは真理であるイエス様のもの(イエス様に属する者)であり、イエス様の声を聞く者でありたいと願います。
説教の冒頭で、私は来年3月で退職というお話をしましたが、それは牧師または管理牧師という職務のことであり、司祭という職位は変わりません。また、キリスト者・キリストの弟子であることももちろん続き、それは死後も続きます。このことについては皆さんも同様であります。
皆さん、イエス様は神の国の王であり、その王が真理を証しするためにこの世に来られました。私たちは教会暦の終わりの主日にあたり、この一年、イエス様のもので、イエス様の声に聞く者であったか、自己を見つめたいと思います。そして、来たるべき新たな年を、私たちがイエス様のものでありイエス様に聞くことができるよう、また、すべての人が真理であるイエス様のもとに来て、神様の思いから離れた状況から回復するよう、導きを祈りたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン