マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第3主日『招きに応えてイエス様の許に』

 本日は 聖霊降臨後第3主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
 本日の聖書箇所は、創世記3:8-15、詩編130、コリントの信徒への手紙二4:13-18及びマルコによる福音書3:20-35。説教では、イエス様は私たちを真の神の家族の一員として招いておられることを知り、イエス様の許に行き、み言葉を聴き「見えないものに目を注」ぐことができるよう祈り求めました。 
 テーマと関係する星野富弘さんの詩画「真っ直ぐに(オミナエシ)」や福音書前に歌った聖歌446番「いさおなきわれを」にも言及しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第3主日です。聖霊降臨後の節は降臨節アドベント)に入るまで5ヶ月以上ありますが、この期節は、聖霊降臨後の今を生きる私たちが、キリスト者の指針である様々なイエス様の教えを学び、深めていく時と言えます。
 
 本日の福音書箇所は、マルコによる福音書の3:20以下から取られています。
 この箇所は3つの箇所に分けられます。最初の箇所は、20節・21節のイエス様が身内の人に気が変になったと思われた記事、次が、22節から30節までの、律法学者たちとのベルゼブル論争、そして、最後が31節~35節までで、イエス様が語る真の家族についての話、です。

 最初の箇所では、多くの群衆が集まっていることとイエス様の身内の人たちはイエス様は「気が変になっている」と判断して「イエス様を取り押さえ」るために来たことを記しています。
 次の箇所は、イエス様の癒やす力は「どこから来るか」という論争です。当時は、病いは悪霊が取りつくために起きると考えられていました。22節で「エルサレムから下って来た律法学者たち」とありますが、これは「権威を持った律法学者たち」ということです。その律法学者たちは、「あの男は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言いふらしました。
ベルゼブル」とは、古いシリア地方の神の名で、「家の主人」という意味です。この言葉は、サタンの別名としても使われています。
 旧約聖書の列王記下1章に「あなたはエクロンの神バアル・ゼブブに伺おうと人を送り出すが‥‥」と、預言者エリヤが、王アハズヤに3度も問いただしたという記事があります。この異教の神の名「バアル・ゼブブ」が「ベルゼブル」ではないかと言われています。「ハエの神」としても知られています。
 このベルゼブルにとりつかれているとか悪霊の力で病いを癒やしているという指摘に対して、イエス様はそんなことはあり得ない、これは聖霊の働きによるものだと反論されたのです。それが29節のイエス様の言葉「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠の罪に定められる。」の真意と考えます。

 最後の箇所は、31節「イエスの母ときょうだいたちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。」と始まります。 
 この箇所で、私は「外に立ち」という言葉に注目しました。「家の中」に群衆は集まっていましたが、イエス様の家族は「外に立ち」、イエス様が神の言葉を語っている「家の中」に入って、その人々と一緒に御言葉を聴こうとはしなかったのです。 
 続く32節から35節はこのようです。
 群衆がイエス様の周りに座っていると、ある人が「御覧なさい。お母様と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と告げました。すると、イエス様は「私の母、私のきょうだいとは誰か」とお答えになり、さらに周りに座っている人々をご覧になって、「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言われたというのです。「私の母、私のきょうだいとは誰か」とは随分冷たい言葉のようです。しかし、イエス様が御自分と一緒にいる人々を示し「神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」というのは、肉親の拒否ではなく、「神の国に入ってほしい」という真の神の家族への招きの言葉なのだと思います。ちなみに、今回の聖書協会共同訳では男兄弟だけでなく姉妹も含んでいるときに「きょうだい」とひらがな表記にしています。
 なお、イエス様は「私の母、私のきょうだい」と言い、「私の父」には言及していません。これはどういうことでしょうか? 一つには、既にヨセフが亡くなっていたのかもしれませんが、もう一つの意味としては「私の父」は天におられる全能の父なので、イエス様は(または福音書を記したマルコは)意図的に抜かしたのかもしれない、と私は想像します。
 いずれにしてもイエス様は「神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」と断言されたのです。

 では、「神の御心を行う人」とはどういう人でしょうか? 「御心」は原文のギリシャ語聖書では「セレマ」でした。英語の聖書では「the will」とありました。「セレマ」をギリシャ語辞典でひくと「望み・喜び・意志」とありました。であれば「神の御心を行う人」とは、神様の望まれること・喜ばれること・意志を行う人であり、その人こそイエス様の「兄弟、姉妹、また母」、つまり「真の家族」であるというのです。
 神様の望まれること・喜ばれること、神様の意志を行う人とは、どのような人でしょうか? それは、イエス様の家族のように「外に立つ」人ではなく、イエス様の周りに集まった群衆のように「家の中」に入って、イエス様の近くに座り、イエス様の言葉、御言葉を聴く人ではないでしょうか?
 それは、別の言葉で言えば、先ほどお読みした本日の使徒書、コリントの信徒への手紙二の4:16にある、「内なる人」のことであると考えます。そしてその人は、「見えるものではなく、見えないものに目を注」ぐのであります。

 「神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」という教えは、イエス様が運ぶ「神の国(支配)」が、血脈を中心とする「外なる人」という人間関係ではなく、神様に呼ばれた「内なる人」としての人間関係であると言えます。そして、「内なる人」とは、イエス様の近くに座り御言葉を聴き、「見えないものに目を注」ぐ人と言えます。
 そのような「神の御心を行う人」「内なる人」として、4月28日に帰天された星野富弘さんを挙げることができると思います。星野富弘さんは中学校の部活動の指導中に怪我をして首から下が動かなくなり、一時は「こんな体で生きている価値があるのか」と悩みますが、そのような時に神様に出会い、聖書を読み、生きる意味を与えられ、口に筆を加え多くの詩画を生み、多くの方に勇気と希望を与えました。先日、6月1日のハレルヤブックセンター5周年記念の読書会「星野富弘さんと私のストーリー」でも、参加者が富弘さんの作品や生き方から多くの示唆をいただき生きる力を得たことを語っていました。そこではさらに、富弘さんの作品や生き方の原動力は神様からの愛、そして信仰だったと気づかされました。
 では、富弘さんが信じた神様が望まれることはどんなことでしょうか?  それはこの福音書の群衆のように、イエス様の所にやってきてイエス様の周りに座り、御言葉を聴くことではないでしょうか?
 富弘さんも詩画集「足で歩いた頃のこと」の中の「真っ直ぐに(オミナエシ)」という詩でこう言っています。

『坂道もあるけれど 
 この道の先には
 両手を広げて 待っている 人がいる
 真っ直ぐに この道を行こう』
 私たちも、私たちを招いてくださるイエス様に向かって、真っ直ぐに歩いて行きたいと思います。

 そのことに関しては、先ほど福音書前に歌った聖歌でも述べています。聖歌446番「いさおなきわれを」です。1節はこうです。
『いさお(勲)なき我を 血をもて贖(あがな)い
 イェス招きたもう われみ許(もと)にゆく』
 意味は、何の手柄もない(価値もない)自分をイエス様は十字架によって救い、招いてくださる。私は喜んでイエス様の許に行こう、ということです。
 2節以下も神様の恵み、神様の憐れみがあふれ、イエス様の許に勇んで歩むキリスト者の姿が描かれています。この聖歌を作詞したのは英国国教会の信徒のシャーロット・エリオットでした。彼女は30歳を過ぎた頃から50年以上病いに伏しますが、この詩は、その中で実感したイエス様の愛と罪の赦し、それに応えて「み許に行こう」という信仰に満ちています。
 
 皆さん、イエス様は神の御心を行う者をご自分の真の家族としてくださいます。私たちは、イエス様のいらっしゃる家の外にいてはいけないのです。私たちは「外なる人」でなく、イエス様の近くに座り御言葉を聴き、「見えないものに目を注」ぐ「内なる人」であるよう招かれています。それは、神様の前に自分を置き「神様の声に心の耳を澄ます」行為でもあります。それこそ「祈り」であります。 
 私たちは、私たちを招き、真の神の家族の絆に結びつけてくださる主イエス様を信じ、神の御心を行うことができるよう、イエス様の許に行き、そばに座りみ言葉を聴き、「見えないものに目を注」ぐことができるよう、祈り求めたいと思います。 

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン