マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨日『真理を導く聖霊』

 本日は聖霊降臨日(ペンテコステ)です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 本日の聖書箇所は、使徒言行録2:1-21、詩編104:22-32・33b、ローマの信徒への手紙8:22-27及びヨハネによる福音書15:26-27・16:4b-15。説教では、神が私たちに真理を導かせるために聖霊を送られていることを知り、真理の霊である聖霊を祈り求めました。
 テーマと関連するエル・グレコの絵画「聖霊降臨」も活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨日(ペンテコステ)です。クリスマス、イースターと並ぶキリスト教の3大祝日の一つです。聖霊降臨日はイエス様の復活から50日目に聖霊が降ったことを記念する日です。伝統的に、復活節(イースターシーズン)の終わる今日までパスカルキャンドル(復活ろうそく)をともします。明日からは聖霊降臨後の節に入ります。  

 先ほど読んでいただいた使徒言行録2章では、五旬祭というお祭りで人々が集まっている時に弟子たちに聖霊が注がれた出来事が語られています。五旬祭は、イスラエル民族がエジプト脱出(過越)から50日目にシナイ山モーセを通して神の言葉(十戒)を受けたことを祝うお祭りです。そのお祭りの日にイエス様の弟子たちに聖霊が降ったのです。ちなみに聖霊降臨日を「ペンテコステ」というのは、ギリシア語の50番目・50日目を意味する言葉(ペンテコステ)に由来します。そして聖霊が最初のメンバーにくだった後から、そこにいた弟子たちは励まされて、聖霊の力によって多くの人々に福音を伝えるようになりました。聖霊を受けたこの日、弟子たちは清められ信仰が強められ、宣教の働きが始まったのです。そこで、聖霊降臨日は信仰共同体である教会の誕生日とも言われます。

 この箇所は多くの画家が描いていますが、今回はエル・グレコのものを紹介します。

 ここでは、突然、天から烈しい風が吹いてくるような音が聞こえて、弟子たちのいた家に満ち、炎のような舌が現れ、分かれて、おのおのの上にとどまりました。すると、彼らはみな聖霊に満たされ、霊が言わせるままに、いろいろな国の言葉で話し始めたところを描いています。この絵では、皆さんから向かって左側にはこの奇跡を前にして両手を広げて驚いているペトロ(黄色い服)を、右側には大きく左手を広げて驚きと賛美を表すヨハネ(薄い青の服)を配置しています。上部には聖霊のハト、中心には、ただ1人静かに祈る聖母マリアがいます。この絵には男性12名と女性3名が描かれてています。男性はマティアを含む12使徒聖母マリアの隣りの女性はマグダラのマリア、ペトロの隣りの女性はクロパの妻マリアと私は想像します。女性3人はイエス様の十字架を目撃した3人のマリアではないかと。この一人一人の上には、聖霊を現す炎のような舌がとどまっています。これが使徒言行録が伝える「聖霊降臨」の出来事です。
 
 さて、本日の福音書の箇所は、ヨハネによる福音書15:26-27と16:4b-15です。この箇所はヨハネ13章から始まったイエス様の告別説教において、イエス様が弟子たちに語った話の一つです。その主な内容は、イエス様が世を去り、目に見える形ではいなくなるが、違う形で居続ける、という大きな約束です。告別説教では聖霊を送る約束が4箇所ありますが、今日の箇所はその最後の部分です。この約束はイエス様の復活・昇天後に実現します。

 15章26節をご覧ください。
「私が父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなさるであろう。」
 ここで「弁護者」と訳されたギリシャ語は「パラクレートス」ですが、この語は「パラ〈わきに〉」と「カレオー〈呼ぶ〉」による合成動詞「パラカレオー〈呼び寄せる・慰める・励ます〉」から派生した名詞で、「誰かを救助するために呼び出された者」を意味します。「弁護者(パラクレートス)」は口語訳では「助け主」と訳されていましたが、聖霊のことです。その方がイエス様を証しするというのです。

 続いて、16章5-6節をご覧ください。
「しかし、今私は、私をお遣わしになった方のもとに行こうとしている。それなのに、あなたがたのうち誰も、『どこへ行くのか』と尋ねる者はいない。かえって、私がこれらのことを話したので、あなたがたの心は苦しみで満たされている。」
 そうイエス様は弟子たちに語られました。弟子たちは、イエス様のおっしゃる言葉の意味が分かっていません。しかし、もし主イエス様と別れるのであれば、自分たちは迫害を受けるかもしれないという恐れ、不安で満ちています。愛する主イエス様との別れ、自分に迫る迫害。これは具体的で現実的な恐れ・不安・苦しみをもたらします。この恐れ・不安・苦しみに対して、イエス様はどう弟子たちを支え、慰め、導くと言われるのでしょうか?
 イエス様は7節でこう言われました。
「しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」
 主イエス様が弟子たちにこの時与えられた約束は、「弁護者を送る」ということでした。この時、弟子たちはまだこれを知りませんでした。ですから、弁護者、助け主、聖霊が来ると約束されても、弟子たちは少しも慰められず、励まされることもなかったのです。しかし、イエス様が十字架に架かられた後、復活し、昇天され、聖霊が送られました。弟子たちはそのことを実際に経験して、聖霊が送られるということがどんなことなのか、どれほど力あることなのかを知りました。主イエス様が「私が去って行くのは、あなたがたのためになる。」と言われたのは「本当のことだった」と、その時、彼らは知ったのです。

 では、主イエス様が去り、聖霊が与えられることによって得られるものは何でしょうか? ここでは、三つのことが挙げられています。
 8節に「その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする。」とあります。
 第一に、罪について世の誤りが明らかにされます。罪について、世はどう考えているかといえば、してはいけないと定められていること、その代表的なものが十戒であり律法ですが、これをしてしまうことが罪だと考えています。しかし、本当の罪は「的外れ」、神様の方を向かないことです。神様から離れていること、これが根本的な罪であります。
 次に、義についてです。義については、人々は自分が善い人間になって、義しい生き方をすることだと世は思っています。しかし、そうではなくて、イエス様が「父のもとに行き、あなたがたがもはや私を見なくなること」(10節)、つまり、イエス様が十字架に架かり、復活されて天に昇る、ここに義がある、と言われるのです。この義とは、神の義、神の義しさです。神様が、愛する独り子を十字架に架けて、その独り子を死から復活させ、天の御国への道を開いてくださった、ここに義があります。この神の義によって、私たちの罪は赦され、神の子とされ、永遠の命へと招かれるのです。
  第三に、裁きについてです。裁きといえば「この世の支配者が人々を裁く」と世は思っています。しかし、イエス様は「そうではない、この世の支配者が裁かれる」と言うのです。イエス様は、この世の支配者によって十字架につけられました。この世の支配者によって裁かれたのです。しかし、本当の裁きとは、主イエス様を十字架につけたこの世の支配者が、神様によって裁かれることだというのです。イエス様は、これらのことを聖霊が明らかにすると言われたのです。

  イエス様は続けてこう言われました。12~13節前半です。
「言っておきたいことはまだたくさんあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。」
 イエス様は、罪と義と裁きについて、御自身の十字架と結びつけてでなければ何も分からないし、そのことを真理の霊である聖霊は明らかに教えてくれると言われました。真理の霊が来て、初めてイエス様の言っていることがどういうことなのかが、後になって分かるとイエス様はおっしゃっています。その時は分からないけれど、後になってみて、「あの時のことはこうだった」と、真理の霊に照らされて初めて分かるというのです。聖霊が弟子たちに教えてくれることは、罪と義と裁きについてだけではありません。「あらゆる真理に導いてくれる」と言われているとおりです。この真理とは、主イエス・キリストの十字架と復活の救いの恵みが明らかにされるすべての真理ということだと考えられます。主イエス様の十字架と復活について教えられることによって、私たちは自分の罪の姿(つまり、神から離れている姿)がいよいよ明らかにされ、悔い改めないではいられない(つまり、神に立ち帰る)者とされるのであります。
 イエス様は真理の霊である聖霊について、こう語りました。13節後半~14節です。
「その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方は私に栄光を与える。私のものを受けて、あなたがたに告げるからである。」
 「その方」とは聖霊のことです。聖霊は、イエス様と無関係に新しいことを私たちに教えるのではありません。イエス様が語られたことを、本当のことだと分からせてくださるのが、真理の霊である聖霊です。聖霊は、イエス様が栄光を受けるために働かれるのです。
 聖霊を受けた弟子たちは、ここから新たな歩みが始まります。「イエス様が誰であるのか」を人々に伝える使命は、ここから始まります。
 15節にこうあります。
「父が持っておられるものはすべて、私のものである。だから、私は、『その方が私のものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
 父なる神様のものはすべて子なるイエス様のものです。そして御子イエス様は、父なる神様から命じられたままを語り、「その方」と表記されている聖霊はイエス様の言葉を語ります。神様が、この世の弟子たち、そして私たちを、真理に導くために働いておられるのです。

 皆さん、本日は、「聖霊降臨日」です。神様は私たちを真理に導くために聖霊を送られました。聖霊はいつも私たちに与えられています。聖霊は太陽の光のように私たちに注がれて、炎のような舌が分かれて私たち一人一人の上にも、とどまっているのです。これにより私たちは清められ信仰が強められ、宣教の働きを行うことができるのです。これからも聖霊が私たち一人一人をあらゆる真理に導いてくださいますように、祈り求めて参りたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン