マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

三位一体主日・聖霊降臨後第1主日 『霊の働きに身を委ねる』

 本日は 三位一体主日聖霊降臨後第1主日です。午前・高崎、午後・新町の教会で聖餐式を捧げました。
 本日の聖書箇所は、イザヤ書6:1-8、詩編29、ローマの信徒への手紙8:12-17及びヨハネによる福音書3:1-17。説教では、イエス様とニコデモの対話の概要を知り、霊の働きに身を委ね、新たに生まれ、永遠の命を得ることができるよう祈り求めました。
 本日の中心聖句から思い浮かべた星野富弘さんの御本「風の旅」及びその中の一文「渡良瀬川」も引用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 先週の主日は「聖霊降臨日」(ペンテコステ)でした。本日は「聖霊降臨後第1主日」であると同時に「三位一体主日」と言われる主日です。

 本日の聖書日課についてです。先ほどお読みしました福音書は、ヨハネによる福音書の3章からで、イエス様とニコデモとの対話の箇所です。3節の「新たに生まれる」、5節の「水と霊とから生まれる」との言葉によりイエス様は洗礼に言及しています。さらにイエス様は15節で「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得る」こと、17節で「御子によって世が救われる」ことを語っています。

 ニコデモはイエス様の弟子ではなく、ファリサイ派ユダヤ人たちの指導者、新共同訳では「議員」と訳され(元々の意味は「指導する者」)、イスラエル社会のエリートということができる人物です。ニコデモはヨハネによる福音書では、このあと7章と19章の2回登場します。7章でのニコデモは、ファリサイ派の同僚がイエス様を調べもせずに否定したとき、「本人から事情を聞かずに判決を下すのは間違っている」と戒め、19章ではイエス様の埋葬のために貴重な香料を大量に持参しています。そのような人物です。

 本日の福音書箇所の3章に戻ります。2節です。 
 ニコデモは、ある夜、イエス様のところへ来ました。夜来たとありますから、人目をはばかって、こっそり来たのかもしれません。そして、イエス様に言いました。
「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるし(奇跡)を、だれも行うことはできないからです。」
 こう語っているのはお世辞ではなく、イエス様への尊敬心の現れであり、イエス様と親しく語り合いたいと願っているのだろう、と思います。イエス様はニコデモにこう言いました。3節です。
「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
 「よくよく言っておく」は、特にヨハネ福音書に頻繁に出てくる言い回しですが、直訳では「アーメン、アーメン、私はあなたに言う」です。大切な宣言をされる時、神の言(ことば)を告げる時、「アーメン」と主イエス様は仰るのです。私たちも祈りの後、アーメンと言います。それは「その通り。全くそうです」という意味です。また、「神の国」とは、天の国、永遠の命と言い換えられます。
 イエス様の言葉に、ニコデモは、驚いて言いました。4節です。
「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母の胎に入って生まれることができるでしょうか。」
 ここで、イエス様とニコデモとの間にあるずれが明らかになりました。
  イエス様が言った「新たに生まれなければ」の「新たに」と訳されたギリシア語は「アノーセン」であり、ニコデモが言った「もう一度母の胎に入って」の「もう一度」と訳されているのは「デウテロン」という別の語でした。「アノーセン」には、「もう一度、新たに」の意味のほかに、「上から」という意味がありますが、ニコデモは「もう一度」の意味と取りました。「アノーセン」が示す「上から」は文字通り空間的に「上から」を意味しますが、「神から、天から」の意味にもなります。
 ニコデモは、母親のお腹から生まれる胎児のことを思っています。生物的な誕生、目に見えて肉体を持って生まれる姿を頭に描いています。しかし、イエス様は、まったく違う次元のことを言っておられるのです。
 イエス様がニコデモに言った「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」の「生まれなければ」は受動態です。「新たに生まれ」るとは「上から(神から)生まれさせられる」ということです。新たな生は神様から一方的に与えられるものです。

 さらにイエス様はお答えになりました。5節・6節です。
「よくよく言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」
「水と霊とから生まれなければ」と言われた「霊」という言葉は、ヘブライ語では、「ルーアッハ」という言葉です。それは、ギリシャ語で、「プネウマ」という言葉に翻訳されています。「ルーアッハ」も「プネウマ」も両方とも、その元の意味は「風の動き」「風」という意味で、「霊」という意味にも使われています。鼻や口から出る風という意味から「息」とも訳されています。霊とは、「神様から出る目に見えない力」というような意味を持っています。昔から、神様から人に吹きかけられる息、それが「霊」とか「聖霊」と同じ意味に使われています。
 イエス様は、8節で「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と言い、「プネウマ」という言葉が、「風」と「霊」という両方の意味を持っていることから、一種の語呂合わせをしておられるのかもしれません。「風」も「霊」も見ることのできない人知を超えた働きをしています。
 ニコデモは、イエス様から「新たに(上から)生まれなければ」と言われると、肉体的に生まれることしか思いあたりませんでした。これに対して、イエス様は、神様との関係の中で、神様から出る霊によって生まれなければ、神の国に入ること、永遠の命を得ることはできないと言われるのです。

 そして、14節から15節にこうあります。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」
 「人の子」とはイエス様のことです。ここでは民数記21章で、モーセが神様の指示に従って造った炎の蛇を竿の先に掛けることで民が命を得た故事を引用し、イエス様が十字架に上げられることによって信じる者が永遠の命を得ることを示しています。
 さらに16節です。「聖書の中の聖書」と呼ばれる箇所です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 神様は、独り子であるイエス様をこの世に送り十字架に上げるほど、この世を、そして私たちを愛しておられるのです。私たちが求められているのは神の御子であるイエス様を信じることであり、そうする人は永遠の命を得るのであります。
この「世」とは、単に人の住む領域ではなく、滅びに向かい、裁きを免れない人類のことです。神様は私たち人類を愛するがゆえに、独り子を与え、御子を世に遣わされたのです。
   
 今回、この箇所を丁寧に読んで、私の心に響いたのは、8節の「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。」というみ言葉でした。このみ言葉から思い浮かべた本があります。それは星野富弘さんの詩画と文章の入っている本「風の旅」です。

 この本の題名は、ギリシャ語で「霊」とも訳される「プネウマ(風)」が思いのままに旅をするというイメージです。
 この本の中に「渡良瀬川」という文章があります。富弘さんは小学生の頃に、渡良瀬川で溺れかけたことがあるそうです。必死になってもがいて、水を飲んで、死にそうな思いをされたそうです。その時に、水に流されて亡くなった子どもの話が頭の中をかすめ、同時にいつも眺めていた渡良瀬川の流れる姿を思い浮かべたそうです。それは、深い所は青々と水をたたえているが、それはほんの一部で、あとは白い泡を立てて流れている、人の膝くらいの浅い所の多い川の姿でした。その時に、富弘さんは、「今、自分が溺れかけ流されている所は深いが、流れのままに流されていけば、必ず浅い所に行くはずだ」と気づいたそうです。今までは、元いた場所に戻ろうと必死にもがいていた。それで川の流れに逆らって、ますます溺れそうになっていた。流れのままに流されていけば、浅い所へ行くのではないかと思い、流れに抵抗するのをやめて、流されていって足を降ろしたら、水は股(もも)ほどもなく助かったのだそうです。
 その当時のことを思い出して、富弘さんは次のように書いています(P.21)。
『怪我をして全く動けないままに、将来のこと、過ぎた日のことを思い、悩んでいた時、ふと激流に流されながら、元いた岸に泳ぎつこうともがいている自分の姿を見たような気がした。そして思った。「なにもあそこに戻らなくてもいいんじゃないか…流されている私に今できる一番よいことをすればいいんだ。」その頃から、私を支配していた闘病という意識が少しずつうすれていったように思っている。歩けない足と動かない手と向き合って、歯をくいしばりながら一日一日を送るのではなく、むしろ動かないからだから、教えられながら生活しようという気持ちになったのである。(後略)』

 星野富弘さんの「風の旅」が発行されたのは1982年(昭和57年)です。私がこの「渡良瀬川」という文章を読んだのもこの頃と思います。私は前年に26歳で受洗しました。この文章は洗礼を受けたばかりで、キリスト者としてどう生きていけばいいかよく分からない私に、大きな示唆を与えたように思います。自分の力で激しい水の流れに対抗するのでなく、私も富弘さんのように、風や聖霊の導くままに、大きな流れ・存在に身を委ねること、その上で自分のできることをすればいいのだと・・・。

 皆さん「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛され」ました。それをほど神様は私たちを愛しておられます。しかし、私たちは普段そのことに気づかずに生活しています。人知を超えた神様の愛を知るためには、霊の働きに身を委ねる必要があります。人間の理解を超えた霊の働きを知って生きる者となることが求められているのです。霊の働きに身を委ねるとき、私たちは神様の無限の愛を知ることができます。そのとき、人は新たに生まれ、神様の思いの中で永遠の命を生きる者へと変えられていくのであります。

 ニコデモは、ヨハネ福音書の最後のところで「新たに生まれ」た自分がそこに立っているのに気づきます。思いのままに吹く風のような力(霊の働き)が、彼の生き方を変えました。私たちもニコデモのように、霊の働きに身を委ね、神様の愛に包まれ新たに生まれ、永遠の命を得ることができるよう、祈り求めたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン