マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

三位一体主日・聖霊降臨後第1主日 聖餐式『疑う者にも近寄り派遣するイエス様』

 本日は三位一体主日聖霊降臨後第1主日。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、コリントの信徒への手紙二13:11-13、詩編150とマタイによる福音書28:16-20。説教では、イエス様は疑う者にも近寄り、そのような者にも「共にいる」と言って「弟子にするよう」に派遣することを知り、父と子と聖霊である三位一体の神を生涯信じ、日々、主と共に歩むことができるよう祈りを捧げました。
 「聖三位一体」のイコンも活用しました。

<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 先主日、私たちはキリスト教の三大祝日である聖霊降臨日(ペンテコステ)を祝いました。そして、本日は、教会暦では「聖霊降臨後第1主日」であるとともに、「三位(さんい)一体主日」という日です。それは、聖霊降臨の1週間後に、父と子と聖霊なる三位一体の神を信じる信仰を「確認」する日です。「三位一体」とは、「父」なる神と、神の独り「子」であるイエス・キリストと、神の力である「聖霊」が、一体であり、神の本質と同一であることを意味します。

 また、本日は先ほどお祈りしましたように「地球環境のために祈る日」及び「原発のない世界を求める週間」の最初の日です。聖霊降臨の恵みをいただいた私たちは、原発のない世界を求め、地球環境を守るために祈りたいと思います。

 本日の聖書は、福音書はマタイによる福音書の最後のところ、28:16-20で、復活したイエス様が山上で11人の弟子たちに宣教命令を与える箇所です。19節に「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」という句があり、三位一体への言及があります。また、使徒書はコリントの信徒への手紙二13:11-13で、13節に祝祷として用いられている「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」という、やはり三位一体の神に言及している箇所が選ばれています。

 本日の福音書を振り返ります。11人の弟子たちは以前イエス様が「先に行っている」と予告されたガリラヤに行き、指示された山に登りました。そこは、山上の説教が行われた所かもしれませんし、イエス様の変容貌(姿が変わられた)の山かもしれません。
 最初に注目したいのは、28章17節から18節です。弟子たちは『イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。』とあります。 
 11人の弟子たちはガリラヤの山で復活されたイエス様にお会いし、ひれ伏しました。「ひれ伏す」とは礼拝するということです。信仰を持って行う行為です。しかし、弟子たちの中に疑う者もいたというのです。疑う者も含めてイエス様は近寄られたのです。
 そして、19節にあるように「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。」と言って、派遣の使命を与えました。その根拠は、イエス様が「天と地の一切の権能を授かっている」からということです。ここで「権能」と訳されているギリシャ語原文は「エクスーシア」で、英語の聖書(NRSV)では「authority」でした。「エクスーシア」は「力・権威」とも訳される言葉で、「エクス(の中から)」と「ウーシア(実体・本質)」の合成語です。ここでの「ウーシア(実体)」とはイエス様御自身であり、権能とは「イエス様の中から出て行く力」と考えられます。復活したイエス様には、天及び地上におけるすべてを包括する力が与えられているということです。そのイエス様が、あなたがた(弟子たち)を派遣するというのです。

 次に19節から20節の前半のイエス様のおっしゃった言葉について考えたいと思います。
『あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。』
 実は、この言葉はギリシャ語では一つの文章でした。ここには動詞が4つあり、それは「行って」と「弟子にしなさい」と「洗礼を授け」と「教えなさい」ですが、原文で読みますと主動詞は「弟子にしなさい」で、ほかはすべて分詞形でした。
 つまり、弟子の使命の中心は「弟子にすること」にあるのです。すべての民を「弟子にする」ために弟子は「行く」のであり、「洗礼を授けて」イエス様から守るよう命じられたことすべてを「教える」のは、多くの人を弟子にするためと言えます。
  また、「父と子と聖霊の名によって」は、直訳では「父と子と聖霊の名の中へ」であり、「父」「子」「聖霊」という3つの位格(ペルソナ)を持つ1つの本質(ホモウーシオス)である神の中へ入っていくイメージです。それにより三位一体の神とつながるのです。洗礼は、人を神に結びつける聖奠(サクラメント)であります。

 最後に、20節の後半のイエス様の言葉について思い巡らします。
『私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』
 このみ言葉は、私たちの教会の今年度の宣教聖句であります。
 この言葉は、マタイ福音書1章23節を想起させます。こうです。
『「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。』
 幼子イエス様の誕生に関連してこのように述べたマタイは、最後に「いつもあなたがたと共にいる」というイエス様の力強い約束を伝えています。大宣教命令に伴う約束です。「神が(イエス様が)共にいる」というテーマは、マタイ福音書全体を貫くものであります。
 「すべての民を弟子にする」という使命を弟子たちに与えたイエス様は、弟子たち、そして私たちが単独でそうするように命じているのでなく、イエス様ご自身が共にいてくださり一緒に使命を果たし、共に人生を歩んでくださるのです。これは大きな福音(グッド・ニュース)であります。
 しかし、このことも考えたいと思います。それは「イエス様がいつも私たちと共にいる」ということは、影響し合う関係だということです。イエス様によって私たちが変わることを余儀なくされたり、時には心の中にある汚れたものがあらわにされたり、あるいは成長できたりする。そのような生きた関係というのが共にいるということだと思います。私たちが神と共に歩む人生、それは喜びであると共に、時には辛いこともあるのだということを忘れずにいたいと思います。

 イエス様は疑いを完全に乗り越えた者だけに近寄るのではありません。信仰が確かでない者にもイエス様は近寄ってくださいます。イエス様は疑う者にも近寄り、そのような私たちを「弟子にするよう」に派遣するのであります。そして20節のように「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とおっしゃいます。だから「弟子にしなさい」と。
 信仰の薄い弟子たちが、そして私たちが主イエス様の命じたように働けるのは、イエス様がその者たちと「共にいる」からであり、イエス様が彼らと一体となって働いてくださるからです。弟子とはイエス様と共に働く者のことであります。
 
 私はこれまで、この箇所を19節・20節にある「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。」という大宣教命令に目を奪われていました。しかし、イエス様がそうおっしゃっているのは、その前に、イエス様が疑う者にも近寄って「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されているからということに気付かされました。マタイが最後に最も伝えたかったのは「イエス様が共にいてくださる」ということではないでしょうか?

 今日はイコンを一つ持ってきました。これはいつもは会館のオルガンの上に置いてあるものです。

 このイコンは「聖三位一体」と言われるイコンで、14世紀ロシアの修道士アンドレイ・ルブリョフによって描かれたものです。修道士ルブリョフは三位一体の神の食卓、神秘を描きました。不思議な絵です。この絵は、創世記第18章の、神が旅人の姿でアブラハムに現れたことに基づいていますが、ルブリョフは、そのことから飛躍して、三位一体の神の神秘的で象徴的なイメージに変えました。
 この絵では、食卓の四隅のうち、三つの隅は、それぞれ父なる神、子なる神、聖霊なる神によって占められています。しかし、残る一つが空席になっています。それはなぜでしょうか?
 それは三位一体の神の交わりのうちの、その食卓に誰かを招くためではないでしょうか? その誰かとは? 
 それは私たちであり、疑いを残し信仰が確かでない者も含むすべての人ではないでしょうか? 
 神様はその人たちを三位一体の神の食卓に招いておられるのです。三位一体の神の食卓とは、具体的には、今行っている聖餐式と言えるかもしれません。私たちは毎主日、その三位一体の神の食卓、三位一体の神秘に預かっているのです。神はこの聖餐式を通じて、三位一体の神がいつも「私たちと共にいる」ことを伝えています。このイコンは、そのことを気付かせてくれます。

 皆さん、今日は三位一体主日聖霊降臨後第1主日です。聖霊降臨の1週間後に、父と子と聖霊なる三位一体の神を信じる信仰を「確認」する日です。復活したイエス様は、疑いを残し信仰の薄い私たちのところにも近寄って来て、「いつも共にいる」とおっしゃって派遣しておられます。そして、神は私たちを聖餐式に招いておられます。この恵みを忘れず、父と子と聖霊である三位一体の神を生涯信じ、日々、主と共に歩むことができるよう、祈りを捧げたいと思います。
                                            
   父と子と聖霊の御名によって。アーメン