降臨節第1主日『イエス様の来臨に際し神を見上げ祈る』
本日は 降臨節第1主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
聖書箇所は、エレミヤ書33:14-16、詩編25:1-10、テサロニケの信徒への手紙一 3:9-13及びルカによる福音書 21:25-36。説教では、降臨節の始めの主日にあたり、イエス様の来臨の日を喜びを持って待ち、日々、神を見上げ、イエス様を信じ、目を覚まし祈ることができるよう導きを祈りました。
チャンセル内のアドベントクランツや聖堂に飾られたアドベンスリース、今日から読み進める北関東教区・東京教区合同の黙想集も紹介しました。
本日の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は降臨節第1主日で、教会暦では一年の最初の主日です。今日から始まる教会の2025年度の聖書日課はC年で、ルカによる福音書を中心に読んでいくことになります。
アドヴェントクランツのろうそくの1本目に火が点りました。

降臨節はカトリックやプロテスタントの一部の教派は、「待降節(降臨を待つ意)」と呼んでいます。降臨節も待降節も英語では同じ「アドヴェント」です。「アドヴェント」は「だんだんやってくる」という意味を持っています。「何がやってくるか」と言いますと「救い主イエス様」であり、「主イエス様」の来臨を期待を込めて待つ期節、それが降臨節です。本日の聖歌も、主イエス様を迎えるのにふさわしいものが選ばれています。
この「降臨節」というシーズンには、3つの意味があります。第1は、神の子キリストが、ユダヤのベツレヘムにおいて、人間の肉体をとり(受肉)、私たちが住むこの世に来られたという「来臨」を待ち臨むということです。これは「初臨」とも言います。第2は、私たちの毎日の生活の中にキリストが来てくださるという「来臨」を待つということです。そして、第3は、世の終わり、つまり「終末」にキリストが再び来るという来臨、つまり「再臨」を待ち望むことです。
本日の福音書は、ルカによる福音書21章25節-36節で、3つの段落から成っています。聖書協会共同訳聖書の小見出しは、それぞれ「人の子が来る」、「いちじくの木のたとえ」及び「目を覚ましていなさい」と記されていて、全人類を裁くため雲に乗ってくる人の子の来臨が述べられ、信じる者たちの救いの時と神の国の接近が告げられる箇所です。今回の試用版聖書日課で3つ目の段落が付け加えられました。旧約聖書では、エレミヤ書33章から、ダビデの子孫から出現する「若枝=メシア」がもたらす救いが語られ、「その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに暮らす。」(16節)という部分が読まれました。使徒書では、福音書と似た「私たちの主イエスが、そのすべての聖なる者たちと共に来られる」(13節)という表現のあるテサロニケの信徒への手紙一3章からの箇所が読まれました。どれも主の来臨がテーマとなっています。
本日の福音書を解説を加えて振り返ります。この箇所はイエス様がエルサレムに入城した週の火曜日、オリーブ山で弟子たちにした説教の一部です。
まず、第1段落についてです。今、私たちが生きているこの世界にははっきりと終わりがあり、その後に神が直接支配される世界が始まる、それが終末という出来事なのですが、そのときには天体にも変化が起こると書かれています。私たちの世界から神の国(神の支配)に移るときには、「この世が一度崩れ去るような、非常に大きな変化があるのだ」ということを本日の箇所は語ります。
この世の終わりかと思われる混乱の中にあって、「人の子が雲に乗って現れる」と27節で示されています。その前に天変地異を前にして「人々は気を失うだろう」とも書かれています。人々が気を失うほかないほどのことが起こる中にあって、「人の子が力と大いなる栄光を帯びて雲に乗って来る」と言われるのです。「人の子」とはイエス様を表す言葉です。イエス様は大混乱の中を私たちの方に向かってやってきます。「雲に乗って」という言葉は、妨げるものが何もない中を通り抜けてくるイメージがあります。だからその時を逃さないように、28節で「このようなことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの救いが近づいているからだ。」とイエス様はおっしゃています。気を失うほどの恐ろしいことはひどいことに終わるのではなく、あなたがたの救いの時は近いのだから、恐ろしいことの向こうにある救いを待ちなさい。恐ろしさに囚われたままでいるのではなく、恐ろしさの向こうにあるものを信じて待ちなさい。終末という言葉から「恐ろしいことが起こる」という思いを抱くのではなく、「イエス様がやってくる」という思いを抱きなさいと言っているのだと思います。なお、ここで「救い」と訳された言葉はギリシャ語では「アポリュトローシス」で、直訳では「解放」で、新共同訳聖書では「解放の時」と訳していました。英語の聖書(NRSV・KJV)では「redemption(贖い、キリストによる救い)」でした。人の子が到来する時はイエス様を信じる者にとっては「解放の時」であり、それこそが「救い」なのです。だから身を起こし頭を上げ神を見なさいと、イエス様はおっしゃっています。
そして、第2段落の29-33節では、イエス様は、いちじくや他の木の葉が出たら夏が近いと分かるのと同じように、「このような天変地異やこの世界の混乱が起きたら神の国(支配)が近いと悟りなさい」(31節)と注意を喚起しています。
さらに、第3段落の34-36節では、イエス様は弟子たち、そして私たちに目を覚まし祈るよう命じておられます。この「祈り」は「心が鈍くならないように」(34節)するためであり、「起ころうとしているこれらすべてのことから逃れ」るためであり、さらに「人の子の前に立つことができるように」(36節)なるためのものです。
本日の福音書では、世の終わり及び主の来臨の兆候が出たときは、私たちは身を起こし頭を上げ、目を覚まし祈るよう命じられています。その根底には、それは私たちの解放の時であり、救いが近づいているからということがあります。
本日は教会暦で1年の最初の主日であり、主の来臨を待ち望む降臨節(アドヴェント)の第一主日です。アドヴェントになると、クリスマスツリーを出したりリースを飾ったりします。最近は巷(ちまた)では、11月に入るとクリスマスモードに入る傾向があります。当教会では、11月7日(木)に、会館で12名の参加を得てリース作りが行われ、その後も有志によって制作が続けられました。そして、先日、聖堂に多くのリースが飾られ、今、目の前にはアドヴェントクランツがあります。
アドヴェントのリースは神の無限の愛を象徴する丸い形をしていて、「イエス・キリストがもたらす永遠の命の希望を示す」常緑樹の葉を用います。そして、チャンセル内のアドヴェントクランツでは、アドベントの4週間を示し、かつ「キリストの降誕を通して世界にもたらされたキリストの光」をも象徴するキャンドルの明かりを主日ごとに一本ずつ増やします。その光は、それぞれ、希望、平和、喜び、愛を表します。そして、5本目のキャンドルを降誕日またはその前夕に灯し、クリスマスを迎えるのです。これらのキャンドルは主イエス・キリストの来臨を待ち望むこと、そしてクリスマスには、この地上に救い主が来られたことの喜びを象徴しています。
ところで、先々週の聖堂の照明改修工事により、これまでの吊り下げられていた照明が撤去され、天井の左右のへりから2列目と3列目にテープの照明が貼られ間接照明となりました。これによりすっきりして、身を起こし頭を上げたときに、正面の十字架やステンドグラスのイエス様をしっかり見つめ、祈りに集中できるようになったように思います。
福音書朗読の前に歌った聖歌465番をご覧下さい。このうちの1節と4節の歌詞をお読みします。
1.しずけき川の岸辺を 過ぎゆくときにも
憂(う)き悩みの荒海(あらうみ)を 渡りゆくおりにも
心 やすし 神によりて やすし
4.大空はまき去られて 地は崩(くず)るるとき
罪の子らはさわぐとも 神によるみ民は
心 やすし 神によりて やすし
この聖歌では、どのような時も、憂いや悩みの荒波の中にあったり、世の終わりの兆候があったりしても、神に頼り、委ねるなら、心が安らかになり、安らぎが与えられることが示されています。
終わりの日、終末、それは主イエス様が再びこの世に来られる日です。今、苦しみの中にあっても神にすべてを委ね、イエス様を信じて生きる者にとっては、その日は大きな喜びの日、希望の日です。しかし、神に逆らって生きている者にとっては、それは裁きの日になります。
皆さん、本日は降臨節第一主日、新しい教会暦の始まりの日です。北関東教区と東京教区が合同で制作した黙想集『2024年~2025年 み言葉と歩む降臨節から降誕節』(黙想集を見せる)も今日、12月1日から始まります。。

今回は聖職だけでなく信徒の方も執筆され、北関東は伝道区ごと、東京はグループごとに各一名の信徒の黙想文が掲載されました。群馬伝道区では当教会のS・Mさんの黙想文が掲載されています。この黙想集を毎日読み続けることで、神の御心に思いを馳せ、イエス様の来臨を迎える準備が整えられると思います。
私たちが、イエス様の来臨する日を喜びを持って迎えることができるよう、そして、日々、神を見上げ、イエス様を信じ、いつも目を覚まして祈ることができるよう、導きを祈りたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン