マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第3主日 聖餐式『身近な人々から福音を宣べ伝える』

 本日は聖霊降臨後第3主日。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、
出エジプト記19:2-8a、詩編100とマタイによる福音書9:35-10:8。説教では、イエス様は私たちを使徒として派遣し、まず身近な人々から福音を宣べ伝え、癒やすことを望まれていることを知り、私たちが、他者と共に歩み、人を癒やし人に仕え、福音を伝えていくことができるよう、収穫の主である神に祈りを捧げました。
 12人の弟子(使徒)についてイラストで分かりやすく示され本「聖書人物おもしろ図鑑・新約編」も活用しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第3主日です。聖霊降臨日(ペンテコステ)から3週間がたちました。

 本日の福音書はマタイによる福音書9章35節~10章8節です。イエス様が福音を宣べ伝え病気を癒やし、12人の弟子を選び権能を授け、派遣にあたりこう命じた、という箇所です。旧約聖書出エジプト記19章2節以下で、シナイ山に着いたイスラエルの人々に対して神がモーセを通して、特に6節で「あなたがたは、私にとって祭司の王国、聖なる国民となる。」と告げる箇所です。祭司は神と人とを結ぶ働きを担います。それはイエス様の弟子や使徒の働きと重なっています。

 福音書を中心に考えます。この箇所は3つの段落からなっています。最初はマタイによる福音書9章35節~38節、次は10章1節~4節、最後は10章5節~8節です。本日は最初と次の段落は簡潔に、そして最後の段落を詳しく見ていきたいと思います。

 最初に9章35節~38節です。
 イエス様は、先ず、ご自分で町や村を残らず回り、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒やされました。また、群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれました。
 主イエス様がなさった業は、この憐れみに基づくものです。ここで「深く憐れむ」と訳されたギリシャ語は「スプランクニゾマイ」で、それは、「はらわた」を意味する名詞から派生した単語です。「断腸の思い」という言葉と同様の思いと言えます。イエス様の「憐れみ」とは、腸がちぎれる程の痛みを伴うものだったと想像します。弱り果て、打ちひしがれた群衆を見つめるイエス様の眼差し。そしてその思い、共感、共苦がいかに深いかということが分かります。 
 38節で「収穫のために働き手を送ってくださるように」とありますが、イエス様は群衆に向けてではなく、弟子たちに向かってこう願うように命じておられます。この願いはイエス様の弟子の祈りであり、「私たちと一緒に働く人を与えてください」という祈りであります。

 次に10章1節~4節です。1節に「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。」とありますが、このことの前に、イエス様は12人を選ぶため、かなりの時間祈っただろうと私は想像します。
 そして、選んだ弟子たちに「権能」を与えました。それは「汚れた霊を支配する力」であり、それをイエス様が弟子たちに授けたのです。まさにそれは、人々から汚れた霊を追い出し、病気や患いを癒やすことができるというものでした。
 2節から4節には選ばれた12使徒の名前が二入一組で記されています。おそらく、この二人一組で派遣されたのだと思います。ここでは「弟子(マセーテース」から「使徒(アポストロス)」に変更されています。「弟子」はこの当時のユダヤ社会では「ラビ(先生)に従う者」であり、「使徒」は「遣わされた者」という意味の言葉であり、マタイは「使徒」に変更することで、イエス様から派遣されることを強調していると考えます。
 12人の弟子(使徒)については、この本「聖書人物おもしろ図鑑・新約編」の中でイラストで分かりやすく示されていました。

 受付に置いた黄色いB5の用紙「イエスさまに従った人々1 12人の弟子たち」をご覧ください。

 このページでは、性格や仕事、考え方もバラバラな12人の弟子について丁寧に記されています。この資料については、後からゆっくり読んでいただければ思います。

  そして、最後の10章5節~8節です。 
 ここでは、イエス様はこの12人を派遣するにあたり、このように命じられています。5節の後半です。
「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」
「天の国(神の国)が近づいた、神の支配が及んできた」という福音(良い知らせ)をイスラエル、身内の人たちだけに伝えなさいと言っているように聞こえます。それでは私たち異邦人には宣教はされないのでしょうか? しかし、マタイによる福音書の最後では「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。」とすべての民を対象としています。これは、マタイは「救い」を段階的にとらえており、「救い」はまずユダヤ人に告げられ、それから異邦人に広げられるというステップを踏んでいるのだと考えられます。
 遠い国の人や見知らぬ人でなく、まず自分の身近な人々、羊飼いのいない羊である人々に福音を伝えるべきとイエス様が言っているように思います。 
 では、何を伝えるのでしょうか? 7節で、イエス様は、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と言われます。「天の国」とは「神の国、神の支配」のことであり、それが近づいたということです。すなわち、一番に伝えるべきことは「神は近くにおられる」ということであります。私たちは「神は私たちのそばにおられる」という最も大切なメッセージを忘れてはいけないと思います。
 続いてイエス様は「病人を癒やし、死者を生き返らせ、規定の病を患っている人を清くし、悪霊を追い出しなさい。」とおっしゃっています。そのような権能をイエス様は弟子たちにお与えになったのでした。
 ここを原文で読みますと、まず「病人を癒やしなさい」とあり、それは「癒やす」というギリシャ語「セラペウオー」の2人称・複数・命令形でした。この言葉は英語のセラピーの語源になった言葉です。「セラペウオー」をギリシャ語の辞書で引きますと「癒やす、治療する」のほか「仕える、奉仕する」とありました。イエス様が望まれることは人を癒やし、人に奉仕し仕えることなのだと思います。
 さらに「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言っています。これは、どういうことでしょうか? 私はこういうことではないかと考えました。私たちには主からの賜物、主の思いがすでに与えられているのです。十字架上で手を広げておられる主イエス様の「思い」は、私たち一人ひとりに向けられています。私たちはそれをいただいているから、それを誰かに分かち合うことができるのです。神の愛が先に示されたのです。今度は私たちが愛を示す番です。そしてそれは、まず「癒やす」という行為で示されるのであります。

 本日のイエス様の言葉は私たちにも向けられています。私たちは人生のあるときにイエス様から「私に従いなさい」と声をかけられ、イエス様の弟子となりました。そして、聖霊を通して権能が授けられました。その内容は「人を癒やす」「人に奉仕する」というものです。さらに「天の国は近づいた」という福音を宣べ伝える使徒として、身近な人々のところへ派遣されているのです。

 皆さん、私たちの身の周りの地域、家庭、職場等には、癒しや助けを必要としている人がいます。私たち、イエス様によって使徒とされた者は、「天の国は近づいた」という福音をこのような身近な人々から伝えていきたいと思います。私たちが、他者と共に歩み、人を癒やし人に仕え、福音を伝えていくことができるよう、収穫の主である父なる神に祈りを捧げて参りたいと思います。

   父と子と聖霊の御名によって。アーメン