マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活節第3主日 聖餐式 『イエス様とペトロの言動に倣う』

 本日は復活節第3主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 本日の聖書箇所は、エレミヤ書32:36-41とヨハネによる福音書20:19-31。復活したイエス様がティベリアス湖で弟子たちに現れ行った言動に目を留め、イエス様は私たちの日常にもおられることを知り、日々の生活の中でイエス様の御言葉に聴き従い、神の道を歩んでいくよう祈り求めました。「舟の右側」という、主に教役者を対象としたキリスト教総合誌にも言及しました。

   イエス様とペトロの言動に倣う

<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は復活節第3主日です。福音書箇所はヨハネによる福音書21:1-14です。ヨハネ福音書は本来20章で終わっていたと考えられますので、21章は後に付け加えられた部分ということになります。本日の箇所は、遠い昔の出来事ではなく、今も私たちの中で繰り返される出来事として読むことができます。

 本日の箇所の前後も含めた概略はこのようです。
『復活したイエス様はエルサレムで弟子たちに会われた後、ガリラヤに行くように命じられました。弟子たちはガリラヤでイエス様を待ちました。しかし、イエス様は現れず、弟子たちは不安に駆られて、元の職業である漁師の生活に戻りました。彼らはティベリアス湖で夜通し漁をしましたが、何も捕れませんでした。ティベリアス湖はガリラヤ湖の別名で、この地の王が当時のローマ皇帝ティベリアスへの忠誠を示す意味で湖畔の街をティベリアスと名付けたことにちなみます。夜が明ける頃、イエス様がその湖の岸に現れましたが、誰もそれがイエス様だとは気づきませんでした。イエス様は「舟の右側に網を打ちなさい。」と言われ、それに従ったところ、153匹もの多くの魚が捕れました。弟子たちはそれがイエス様だと分かり、ペトロは上着をまとって湖に飛び込み、イエス様の方へ向かいました。他の弟子たちは舟で岸に戻ってきました。イエス様はすでに炭火をおこし、食事の準備をしており、パンと魚を弟子たちに与えられました。』
 このような話でした。
 
 本日は、復活後、弟子たちに現れたイエス様の言動と、弟子たちのリーダーであるペトロの言動にスポットを当てて見ていきたいと思います。
 ペトロは再び、主に従う前の生活に戻ろうとしています。一度は舟も網を捨てて主に従う者となったはずなのに、舟と網を手にし漁を行いました。彼は復活の主にお会いするという素晴らしい体験をした後、日常の生活に戻っていたのです。
 
 今回、まず注目したいのは5・6節です。こうあります。『イエスが、「子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか」と言われると、彼らは、「捕れません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまりに多くて、もはや網を引き上げることができなかった。』
 漁師としてのプロであるペトロたちですが、イエス様の言葉と命令に従った時に驚異的な奇跡、大きな恵みが与えられました。これらのことに気づく信仰の目が必要であり、大切なのだと思います。
 なぜ右側なのでしょうか? 実は聖書では、「右側は神の道であり、左側は人間の道」という象徴として用いられています。一つの例では、最後の審判で神様は人を右側と左側に分け、右側の人を「天の御国」に入れ、左側の人を「永遠の火」に落とします。右側の人は神様の御心を行った人で小さな者のために尽くした人、左側の人は人間の欲望に生き自分のことしか考えない人です。
 左側にいて、人の思いのままに行動するとき、そこには滅亡があります。右側に身を置き、神様の思いに従って生きるとき、そこに祝福があるのです。

 続く7節はこうです。『イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。』
 イエスの愛しておられたあの弟子とは、愛弟子であるヨハネのことと考えられます。ヨハネは、イエス様から愛され受け入れられているという信頼を持っていました。そのヨハネが大漁という出来事に込められた「しるし」を見抜き、この方の正体に気づいたのです。
 そして、ペトロはイエス様が岸にいると分かったとき、上着をまとってすぐに湖に飛び込み、イエス様の方に向かいました。ここに私は、私たちの信仰者としての姿があるように思います。日常の中で、普段の仕事や生活をしているときに、主の臨在、神様が、イエス様がここにいてくださるということに気づかされるときがあります。そのとき、上着を着るように身を正してイエス様の方に向かうということ。ペトロは弟子たちのリーダーでしたが、弟子たちに言葉で指示するのでなく身をもって行動で示したのでした。

 9節はこうです。『陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚が載せてあり、パンもあった。』
 イエス様は、お腹をすかし疲れた弟子たちのために、すでに食事の準備をしてくださっていたのです。イエス様は私たちの給仕をしてくださる方であり、もてなし(サービス)をしてくださるお方なのであります。

 そして、11節にこうあります。『そこでシモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。』
 当時知られていた魚の種類が全部で百五十三種類だったそうです。それは世界に存在する様々な人種や民族の象徴です。つまり「世界中のあらゆる人種、民族の人々が、イエス様の救いの網の中に入れられる。」ということだと考えます。

 さらに、12・13節の中にこうあります。『イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。・・・イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。』
 この朝の食事は、聖餐式を想起させます。イエス様は優しくそれをするよう弟子たちに声をかけておられます。イエス様は私たちをも食卓に招き、日々の糧であるパンや魚をふるまってくださるお方です。

 皆さん、復活されたイエス様は私たちの日常生活の中にもおられ、適切な助言を与え日々の糧を与えてくださっています。イエス様が弟子たちに言われた「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ。」との御言葉は、私たち一人一人にも呼びかけられています。「舟の右側」というキリスト教総合誌がありますが、イエス様が命じられた「舟の右側に網を打ちなさい。」という御言葉に聞き従っていきたいと思います。

 さらに、イエス様は主日聖餐式等を通して、御自身の御体と御血をお与えになっていることもおぼえたいと思います。

 今日の福音書を通して、神様は、私たちが日々の生活の中でイエス様の御言葉に聴き従い、神の道を歩むことの重要性を教えています。私たちも、ペトロのように主が共にいてくださることに気づいたときは、身を正してすぐにイエス様の方に向かいたいと願います。
 イエス様は御言葉と聖餐によって御自身を現し、私たちの給仕をしてくださっています。その恵みをおぼえ聖餐に預かり、日々の生活の中で御言葉に聞き従き、小さな者に仕え神の道を歩むことができるよう、そして、私たちの信仰の目を主が開いてくださるよう、祈り求めて参りたいと思います。