マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

顕現後第3主日聖餐式 『イエス様に耳を傾ける』

 本日は顕現後第3主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、アモス書3:1-8とマタイによる福音書4 :12-23。イエス様は「闇の中に住む民」にとっての「大いなる光」であることを知り、神に立ち帰りイエス様が私たちを御覧になっていることを意識し、その語りかけに耳を傾けるよう祈り求めました。
 本日のテーマである「召命」から思い浮かぶ使命や賜物についても思い巡らしました。

<説教>
    父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は顕現後第3主日福音書はマタイによる福音書4章12節からで、イエス様の公生涯のスタートの箇所をお読みしました。その第一声が「悔い改めよ。天の国は近づいた」です。そして、イエス様は宣教の務めを行うにあたり、4人の弟子を召されました。このことに本日の旧約聖書アモス書が、特に3章8節以下の「主なる神が語られる 誰が預言せずにいられようか」、つまり神はアモスたち、預言者(神の言葉を預かる者)を召していること等が対応しています。
 本日の聖書の箇所を通して、神様は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか? また、私たちに何を求めておられるのでしょうか?
 
 福音書を中心に考えます。本日の福音書の箇所は、イエス様の宣教開始の場面です。ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒れ野で悪魔の誘惑を退けたイエス様が、本格的にキリスト、救い主としての活動を始められた箇所です。取り上げられたマタイによる福音書4章12節から23節は3つの部分からなっています。聖書協会共同訳聖書の小見出しでは、12節から17節が「ガリラヤで宣教を始める」、18節から22節が「4人の漁師を弟子にする」、23節からが、区切りとしては25節までですが、「おびただしい病人を癒やす」となっています。
 今回私が注目した言葉は3つです。それは「ガリラヤ」という地名とこの箇所にあるイエス様の2つの言葉「悔い改めよ。天の国は近づいた」と「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」です。

 1つずつ見ていきます。
 まず注目したいのが、イエス様が宣教の開始をガリラヤで行われたということです。新約時代のパレスチナヨルダン川の西側を大きく3つに分けますと1番北がガリラヤ、中央部がサマリア、南部がユダヤです(右手で示す)。ガリラヤという言葉は「ガリル」というヘブライ語に由来する言葉で、「ガリル」は「周辺の地」を意味するようです。また、本日の福音書の4章15節の預言者イザヤの言葉の引用の中に「異邦人のガリラヤ」とありますが、これはガリラヤ地方の歴史的な事情を反映しています。ガリラヤはイスラエルの北の国境に接しているので、アッシリアをはじめとする北の大国の支配下に常に置かれることが多く、異邦人の移住が繰り返されました。こうして、住民の大半は純粋なユダヤ人ではなくなり、中央にいるユダヤ人からは軽蔑の対象とされていました。(なお、イザヤは紀元前8世紀、北イスラエル王国アッシリアに滅ぼされていった時代の、南ユダ王国預言者です。)ガリラヤはイザヤの時代のユダヤ人から見れば、まさに「異邦人のガリラヤ」と呼ぶべき暗闇の地だったと考えられます。16節の「闇の中に住む民は大いなる光を見た。死の地、死の陰に住む人々に光が昇った」というイザヤのメシア預言の成就として、マタイはイエス様を見ています。つまり、マタイは、ガリラヤに移り住んだイエス様こそ「闇の中に住む民」にとっての「大いなる光」であり、「死の陰に住む人々」に昇った「光」だと言っているのです。
 イエス様は、ガリラヤのナザレやガリラヤ湖畔の町カファルナウムに住まわれ、宣教をガリラヤで開始し、主要な活動の舞台もガリラヤでした。復活したイエス様が弟子たちに姿をあらわす場所もガリラヤの山です。ガリラヤは特別な場所だったと考えられます。イエス様は、ガリラヤという、辺境で軽蔑されていた所で宣教活動を始め、そこでくまなく福音を宣べ伝え、多くの民衆を癒されたのです。

 次に「悔い改めよ。天の国は近づいた」という、イエス様の宣教開始の言葉についてです。ギリシャ語の聖書を見ると「悔い改めよ」は「メタノエオー」の二人称・複数・命令形でした。その名詞形が「メタノイア」です。
 「メタノエオー」をギリシャ語の辞書でひくと、「考え直す・心を変える・悔い改める・改心する」とありました。また、もう少し詳しいギリシャ語釈義事典にはこうありました。「意味の特徴的徴(しるし)は心の変更である。新約の理解にとって決定的なのは、旧約のヘブライ語シューブ(今までのものから離れて出発点に立ち戻る)という意味での「悔い改める」である。シューブは預言において宗教的な意味を獲得し、主眼は「主との元来(がんらい)の関係への立ち戻り」に向けられており、全実存にかかわる行為を示している。」と。つまり、本来の神様との関係に戻ること、「神に立ち帰る」ことが「悔い改める」ということです。
 「天の国は近づいた」についてですが、ユダヤ人たちは神様を畏れ、尊ぶあまり「神」という言葉ではなく代わりに「天」という言葉を使いました。ですから「天の国」とは「神の国」と同じです。また、「国」と訳されている言葉の意味は「支配」ということです。「神の国」とは「神の支配」のことです。以前にもお話ししましたが、支配とは「支え配る」と書きます。ですから、神の支配とは、神が私たちを支え私たちに必要なものを配ってくださるということです。また、この「近づいた」(完了形)には「近づいてもうここに来ている」というニュアンスがあります。ですから、「神の支配」がもう私たち一人一人に来ている。神様が私たちと共にいる。それが「天の国は近づいた」ということの意味と考えられます。
  そうすると「悔い改めよ。天の国は近づいた」とは「神の支配が私たち一人一人に及び、神が共にいてくださるから、神に立ち帰りなさい」という、福音と勧めの言葉であるように思います。

    続いて考えたいのは「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」というイエス様の言葉です。それはガリラヤ湖畔でのことで、数年前に行った時の写真がこれです。

 穏やかな湖です。現在、ここにはペトロ召命教会という教会が建っています。

 イエス様の「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という言葉で、私は、かつて前橋の日曜学校で子供たちに話したことを思い出しました。このように話しました。「これまでは魚をとる仕事をしていた漁師のペトロさんとアンデレさんに、イエス様はこれからは魚ではなく、人間をとる漁師にしよう、と言われました。網にかかって舟にあげられた魚はどうなりますか? 死んでしまいますね。でもイエス様の網にかかってあげられた人間は神様の国でいつまでも生きるようになるのです。そして人間をとるために使う網はイエス様の言葉です。弟子たちは新しい網であるイエス様の言葉で人々を救うのです。」と。
 この話のように、「人間をとる漁師」とは、イエス様のみ言葉、福音によって人々を救いに導く人である、と思います。また、この話は召命物語です。ペトロとアンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブヨハネという二組の兄弟がイエス様の呼びかけに応えて、すぐにイエス様に従います。この人たちはイエス様がどのような方であるかを既に知っていたと考えられます。先週の箇所でアンデレはイエス様と一緒に泊まり、その後すぐに兄のペトロに「メシア(救い主)に出会った」と話していました。今日の箇所では、網を捨てたり舟と父親を残したりして、というのが、実際はなかなか難しいと考えるように思います。私はこう思います。ここでの「網」や「舟と父親」というのは「この世の価値観」ではないかと。そして、「この世の価値観」ではなく「神の価値観」で生きることが「イエス様に従う」ということではないかと。
 二組の兄弟がイエス様に従うという「召命」、つまり、主に呼ばれ招かれ、召し出され弟子になったという行為は、自分がイエス様を求めて、選んで弟子になったのとは違います。そこではまず、イエス様が「御覧になる」という行為が先にあります。イエス様が彼らの様子を御覧になり呼びかけをし、彼らの「従う」という行為がそれに続いています。それがイエス様が弟子を招く方法です。それが「召命の形だ」ということをここで示しています。そして「召命」は、聖職者だけでなく、すべてのキリスト者に対してなされることであります。

 皆さん、本日の聖書の箇所を通して、神様が私たちに伝えようとしていることは何だと思われますか? また、私たちに求めておられることは何だと思われますか?
 私は、神様が私たちに伝えようとしていることは、神様は辺境とされる地や軽蔑された人々を特に愛していること、そして、イエス様は「闇の中に住む民」にとっての「大いなる光」であることではないか、と思います。また、私たちに求めていることは、悔い改め、つまり神に立ち帰ること、そして、イエス様が私たちを御覧になっていることを意識し、その語りかけに耳を傾けることではないかと思っています。
 
 さて、本日の福音書では、二組の兄弟の召命についての箇所が取り上げられましたが、神様は私たち一人一人に応じた方法で使命を果たすように召しているのではないでしょうか? そして、それは自分に与えられた賜物を生かすことによってなされるのではないでしょうか?
  私は前橋の教会の聖堂で「朝の祈り」を捧げていますが、その中で、今年に入ってからはカトリックの方がするように「アヴェ・マリアの祈り(天使祝詞)」を何度も唱えて「ロザリオの祈り」を行っています。先日、祈りを終えて、イエス様を意識してしばらく思い巡らしていると、「傷も賜物だよ」という声が聞こえた気がしました。賜物は能力や人間関係だけでない、私たちがこれまでの人生で遭遇した痛みや傷も賜物なのか、と思いました。あまり欲しくない痛みや傷も、ある意味があって神様が私たちに与えたものなのかもしれないと、その時思いました。

 皆さん、今や神の支配が私たち一人一人に及び、神様が共にいてくださっています。神に立ち帰りましょう。イエス様はいつも私たちを御覧になっています。その語りかけに耳を傾けましょう。神様は私たち一人一人のガリラヤにおいて、それぞれに与えられた賜物(能力や人間関係や傷等)を生かして使命を果たすことを望んでおられます。私たちは神様の御心に従い、そうできるよう祈り求めて参りたいと思います。