本日は顕現後第2主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、サムエル記上3:1-10、詩編139:1-6・13-18、コリントの信徒への手紙一6:12-20、ヨハネによる福音書 1:43-51。
説教では、フィリポとナタナエルがイエス様に出会う場面から、イエス様の弟子として信仰の友との交わりを大切にし「来て、見なさい」という呼びかけに答え、聖書を読み思い巡らし神様に祈る日々を送るよう祈り求り求めました。
本日の福音書箇所の舞台であるベトサイダやナザレ等の位置を示す地図も活用しました。
説教原稿を下に示します。
<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン
新町の教会としては本年初めての礼拝です。皆さん、新年、おめでとうございます。2024年の初めは波乱に満ちたものでした。1月1日の午後4時過ぎに石川県能登半島で大きな地震が起きました。津波も起き、一刻も早く「高台に逃げて」というテレビのアナウンサーの呼びかけが続きました。翌2日には羽田空港で海上保安庁の航空機とJALのエアバスとの衝突事故がありました。そして、この地震の被災地では今も過酷な現実が続いています。先ほど特祷の後に「能登半島地震のための祈り」を捧げましたが、主のみ守りと必要な支援が速やかに与えられるよう祈るものであります。
さて、本日は顕現後第2主日です。顕現節という期節のテーマは、「イエス様とはどのような方であるか」ということです。そのことについて、主に本日の福音書を通して思い巡らしたいと思います。
本日の福音書の箇所は、ヨハネによる福音書 1:43-51で聖書協会共同訳聖書の表題は「フィリポとナタナエル、弟子となる」です。二人に対するイエス様の呼びかけ・召命に本日の旧約聖書箇所であるサムエルへの神の呼びかけが対応しています。
本日の福音書の箇所を、解説を加えて振り返ります。
本日の箇所の場所はどこでしょうか? 聖書に明示していませんが、ヨハネ1:28で洗礼者ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側のベタニアにいたことが分かり、二日間ヨハネとイエス様が出会って、本日の箇所はその翌日ですから、ベタニア周辺での出来事だと考えられます。(地図で確認する・・・死海の北)
イエス様がガリラヤへ行こうとしておられる時に、フィリポに出会い、「私に従いなさい」と言われました。フィリポは、ペトロとその兄弟アンデレの出身地であるベトサイダの人でした。(地図で確認する・・・ガリラヤ湖の北岸)彼は、後に12弟子の一人になっています。
その後で、フィリポは、ナタナエルに出会ってこう言いました。
「私たちは、イエスという人に出会った。この人はナザレの人で、ヨセフの子イエスという人だ。この人は、モーセが律法に記し、預言者たちが預言しているメシア、救い主だ。」と。そして、ナタナエルは言いました。
「ナザレからそのような方が出るということなど聞いたことがない。そんなことはあるはずがない」と。心の中で、預言者ミカが「救い主は、ベツレヘムから出る(ミカ5:1)」とはっきりと言っているではないか。」と思ったことでしょう。また、当時のユダヤでは、ガリラヤ地方は蔑視されましたので、ナタナエルもそのような見方をしていたのでしょう。ナザレという名は旧約聖書にまったく見られませんし、目立たない町であったのだろうと思います。(地図で確認する・・・ガリラヤ湖の西方)
次に、フィリポは「来て、見なさい」と言いました。
イエス様は、ナタナエルが自分の方へ来るのを見て、彼に突然言われました。
「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
ヨハネ福音書では「ユダヤ人」と「イスラエル人」を区別して使っています。「ユダヤ人」は、旧態依然のユダヤ教を信じる人々。これに対して「イスラエル人」は、イエス様の救いを受け入れようとする人です。
ナタナエルはびっくりしました。ナタナエルが、「どうして私を知っておられるのですか」と尋ねると、イエス様は、さらに答えて言われました。
「私は、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た。」と。
当時の熱心なユダヤ教の信者は、木の下で、律法を読み、黙想をするのが常でした。とくに葉が生い茂ったいちじくの木の下は、涼しく黙想に適した所とされていました。ナタナエルは、フィリポに会う前に、いちじくの木の下でいつものように黙想していたのです。この「前に」という言葉に注目します。これは時間的な「前に」ということ以上に、イエス様がフィリポよりも前に(つまり、先に)ナタナエルを理解していることをも意味しています。言い換えると、イエス様と人間との出会いは、いつもイエス様が先であるということです。
イエス様の言葉を聞いて、ナタナエルは、
「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言って信仰告白をしました。
すると、ナタナエルは「もっと大きなことをあなたは見るであろう」と予告されます。それは「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りする」ことですが、このことは創世記28:12のヤコブの夢の故事に基づいており、神様とイエス様との交わりが特別なものであることを示しています。
創世記28章 12節はこうあります。
「夢を見た。すると、先端が天にまで達する階段が地に据えられていて、神の使いたちが昇り降りしていた。」
これはイサクの息子のヤコブが見た夢です。ヤコブは神からイスラエルという名前を与えられます。イスラエルとはヘブライ語で「神と闘う」という意味を待ちます。ここでは、一つの階段が天と地の間を結ぶ役割を果たし、神の使い(天使)たちが昇り降りしているのは天と地のコミュニケーションであり、イエス様は天と地を結ぶ新しいコミュニケーションの方法であることを示しています。
そして、イエス様は神様のもとから来て、私たちの間に宿られた方、肉となった言であります(「受肉」と言います)。そして、イエス様が神の独り子である神であることを「見るであろう」という約束は、ナタナエルだけでなく、「あなたがた」に、言い換えれば、イエス様と出会ってイエス様を信じる者となる、私たちすべての人に向けられているのです。
なお、「ナタナエル」という名前は「神、与えたもう」「神の賜物」という意味があります。そこには、私たちが神を知る以前から、神は私たちと共にいてくださっている、というメッセージが込められているように思います。これ以後、ナタナエルは、イエス様に従う者となり、弟子の一人になったと言われています。12人の弟子たちのリストの中で、フィリポの次にバルトロマイという人の名前が出てきますが、たぶんこの人がナタナエルのことではないかと言われています。
本日のこの箇所から、イエス様はどのようなお方であると考えられるでしょうか? また、私たちはどうあったらいいでしょうか?
イエス様はナタナエルがご自分に近づいたときフィリポから聞く前に彼を理解していました。このように、イエス様は私たちがイエス様に近づいていくとき、既に私たちのことを知っていてくださり、受け入れてくださるお方なのであります。ナタナエルにそのことが示されたのは信仰の友であるフィリポの「来て、見なさい」という言葉を信じて従ったからで、それがイエス様との出会いを生みました。イエス様と出会うことがなければ、人は信じる者となることはできません。友を信仰へと招くために人にできることは、イエスと出会う場を作ることです。 昨日、前橋の教会で第1回の「キリスト教文化入門」という集いを会館で行いました。8人の参加がありました。これは、「赤毛のアン」を英語で読み、背景にあるキリスト教精神やキリスト教文化等について思い巡らすというものです。この集いがイエス様と出会う一つの場となることを期待しています。
さらに、イエス様が見たのは「いちじくの木の下にいる」ナタナエルであったことにも着目します。そこで彼は神様を思い、み言葉に聞き、黙想していたのです。その結果、彼は神を見ました。
その神は私たちに何を求めているでしょうか?
そのことでは、本日の旧約聖書が参考になります。サムエル記上3:1-10です。サムエルは、紀元前11世紀のユダヤの預言者で士師(民族指導者)の一人です。サムエルという名前は、ヘブライ語で「神は聞いてくださった」「彼の名は神」という意味です。サムエルは、ずっと子供を望んでいたハンナがようやく授かった子でした。ハンナはこれに感謝し、サムエルを祭司エリに仕えさせました。今日の箇所では、主の言葉がサムエルに臨みましたが、それに気がつかないサムエルに、祭司エリが「呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」と指導しています。この言葉はエリから教えられた「祈りの言葉」であります。祈りには、二通りあると思います。一つは、「主よ、お聞きください。僕は話します」であり、もう一つは「主よ、お話しください。僕は聞いております」と言えます。「祈り」といいますと、神にお願いすること(神に話すこと)と思いがちですが、「祈り」は神との対話ですから、神の言葉を聞く(受け止める)ことも「祈り」なのであります。では、どうすれば神の言葉を聞くことができるのでしょうか? それは聖書を読み思い巡らすことだと思います。
皆さん、今日の箇所ではフィリポとナタナエルが神の呼びかけを受けました。私たちもまた、イエス様の弟子として信仰の友との交わりを大切にし「来て、見なさい」という呼びかけに答え、聖書を読み思い巡らし神様に祈る日々を送るよう招かれています。それにより神を見ることができるのです。そのことを確認し、全人類の救いのもとである主イエス様にすべてをゆだねることができるよう祈り求めたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン