マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎節第4主日 聖餐式『神の恵みと私たちの信仰』

   本日は大斎節第4主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、民数記21:4-9、詩編107:1-3・17-22、エフェソの信徒への手紙 2:1-10、ヨハネによる福音書3:14-21です。説教では、イエス様をこの世に遣わし十字架にあげられた神様の恵みをおぼえ、主イエス様への信仰を深めて復活日を迎える準備ができるよう祈り求めました。
 本日の福音書箇所と関係する聖歌507番の歌詞及びこの聖歌の作詞をしたフランセス・リドリー・ハヴァガルについても言及しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は3月10日。明日は3月11日、東日本大震災から13年目の日です。NHKのニュースの中で、妻や夫、子どもなどを震災で亡くした人たちが震災直後の写真を持ち寄って写真展をしようとしている話題がありました。現在85歳の当時消防団長の「あのとき、速く逃げることを強く言えば」と語る言葉から、家族を亡くした傷は年月を経ても癒えることはないことを思いました。そして、大震災という悲劇をなかったことにするのではなく、写真展などという形で記憶にとどめることの重要性を思いました。

 さて、本日は教会暦では大斎節第4主日です。大斎節の折り返し地点に位置する日曜日で、「バラの主日 Rose Sunday」と呼ばれる主日です。この日は祭色をバラ色にし、祭壇に花を飾る教会もあります。大斎節の中間まで無事に来たことを祝うためにバラの花を教会に持ち寄った慣習からこう言われる説があります。ちなみに「バラの主日 Rose Sunday」はもう一日あり、それは降臨節第3主日です。こちらも降臨節アドヴェント)の半分が過ぎて、ホッとひと息する主日です。

 さて、今お読みしました本日の福音書ヨハネによる福音書の3章14節以下から取られています。従来の聖書日課ではヨハネ6章4節以下のいわゆる「五千人の給食」と呼ばれているイエス様の奇跡の場面でした。しかし、今年から使っている改正祈祷書試用版ではヨハネによる福音書 3:14-21が選ばれています。この箇所を含むヨハネによる福音書3章は、聖書協会共同訳の小見出しでは「イエスとニコデモ」とあり、イエス様とユダヤ人たちの指導者だったニコデモの会話を取り上げています。

 本日の福音書箇所を理解するためには、3章最初からの内容をつかむ必要があります。まず、ニコデモはファリサイ派に属し、ユダヤ人たちの指導者であると紹介されます。このニコデモに対して、イエス様は「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)と告げ、さらに新たに生まれることの意味を、「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)と語る。この教えが、キリスト教の洗礼の意味を告げるものとして重要な箇所になっています。したがって、本日の福音書箇所の14節から21節までの「人の子が上げられることによって人が永遠の命を得る」という真理も、神の国のための水と霊による新生の意味を説き明かすものである、とう視点が重要です。この意味で、この箇所は洗礼志願者への教えと、キリストを信じる人への再度の信仰の呼びかけが同時に含まれていると言えます。ここに、この箇所が大斎節の福音書箇所に配分されている意味もあると考えます。

 本日の福音書箇所を振り返ります。3章14・15節にこうあります。
「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」 
 「人の子」とはイエス様のことです。「モーセが荒れ野で蛇を上げた」話は、本日の旧約聖書民数記21章4-9節にあります。聖書日課の1ページをご覧ください。モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、荒れ野の厳しい生活に耐えられず、神とモーセに不平を言いました。その時、主が送られた「炎の蛇」が民をかみ、多くの死者が出て、民はようやく回心しました。8節・9節にこうある通りです。「主はモーセに言われた。『あなたは炎の蛇を造り、竿の先に掛けなさい。蛇にかまれた人は誰でも、それを見れば、生き延びることができる。モーセは青銅の蛇を造り、竿の先に掛けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、生き延びた。」
 本日の福音書では、モーセが神様の指示に従って造った炎の蛇を竿の先に掛けることで民が命を得た旧約聖書の故事を引用し、イエス様が十字架に上げられることによって信じる者が永遠の命を得ることを示しています。

 なお、今回の聖書協会共同訳聖書では、ここでカギ括弧が終わり、ここまでがイエス様の言葉ということになっています。この前の新共同訳聖書では本日の箇所の最後の21節にカギ括弧があり、21節までがイエス様のイエス様の言葉となっていました。原文のギリシャ語にはカギ括弧がありません。16節以降に「独り子」「御子」という言葉が出てきますが、自分のことを「独り子」や「御子」というのはおかしいので、今回のように、15節までがイエス様の言葉で、16節からは福音記者のヨハネの記述と考えるのが自然と思います。

 さて、16節です。宗教改革者ルターは、この言葉を「小聖書」と呼びました。聖書のメッセージを、一言で言い表したような言葉だからです。こうあります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 神様は、独り子であるイエス様をこの世に送り十字架に上げるほど、この世を、そして私たちを愛しておられるのです。私たちに求められているのは神の御子であるイエス様を信じることであり、そうする人は永遠の命を得るのであります。
 ここの「世」という言葉はこの世界とそこに生きている私たち人間全体を意味しています。神様は私たち人間を愛するがゆえに、独り子を与え、御子を世に遣わされたのです。ここで言われていることは「恩寵先行、信仰後続」ということです。神の恵みが先にあり、私たちの信仰はその後に続くということです。

 次の17・18節はこうです。
「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」
 18節の「信じない者はすでに裁かれている」とは、どういう意味でしょうか? その前の17節の言葉と矛盾するように思われるかもしれません。しかし、この「裁き」というのは「イエス様を信じることができない」という状態そのものが、実は裁きなのだという思いが含まれているのだと思います。であれば、それは断罪の言葉ではなくて、「あなたも信じる者になりなさい」という招きの言葉として、受け止めることができるのではないでしょうか?

 19-21節では「光と闇の戦い」が述べられています。ここでは2つのことが言われています。「①悪を行う者が闇を愛するのは、その行いが隠されるからである。②真理を行う者が光を好むのは、その行いが光によって明らかにされるからである。」です。
 神様は光をもたらす方であって、その光を受け入れないこと、つまり闇の中にとどまることが、裁かれる(=救われない状態)ということなのです。福音記者ヨハネは、イエス様の圧倒的な愛を体験し、ここにこそ、光と救いと命がある、と確信したところからすべてを語っています。だから、この方を受け入れるか否か(=信じるか否か)に救いのすべてがかかっていると言っています。

 まさに「神は愛」であります。十字架において、神様は独り子の死を惜しまぬほどに私たちを愛し慈しむ方であることが分かります。人知を超えた神様の愛を知るとき、イエス様を受け入れ信じたいと思います。十字架を仰ぎ見るとき、私たちは神様の無限の愛、恵み(恩寵)を知ることができます。そのとき、人は新たに生まれ、神様の思いの中で永遠の命を生きる者へと変えられていくのです。

 先ほど歌った聖歌507番をご覧ください。

 1節に「イエスは天なる 栄えを捨てて 暗きこの世に 降りたまえり」とあります。神の独り子のイエス様は天の栄光を捨てて、この世に降臨されたのです。3節には「救いの主は わが死に代わり 血しおを流し 命を与う」とあります。イエス様は救い主であり、私たちのために十字架に架かり、永遠の命を与えてくださったのであります。なお、この詩の作者は、フランセス・リドリー・ハヴァガルという19世紀英国の賛美歌詩人で、英国国教会の司祭の娘として生まれ、父の仕事に伴って転々としながら多くの宗教詩を残しました。この聖歌の一つ前の506番「主は命を与えませり」も彼女の作詞です。ハヴァガルは「聖潔の詩人」と呼ばれ、病弱で42歳で天に召されました。しかし、彼女の作品は今も多くの人に愛唱されています。
 
 皆さん、本日は大斎節第4主日「バラの主日」です。今日から後半に入るこの大斎の期節を、私たちを救うためイエス様をこの世に遣わし十字架にあげられた神様の恵みをおぼえ、主イエス様への信仰を深めて、復活の喜びを記念する日を迎える準備ができるよう祈り求めて参りたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン