マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第10主日『人間の必要に応えられる神』

 本日は 聖霊降臨後第10主日です。午前・高崎、午後・新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、列王記下4:42-44 、詩編145:10-18、エフェソの信徒への手紙3:14-21及びヨハネによる福音書 6:1-21。説教では、「五千人の給食」の箇所から、「パンはどこから来るか」を悟り、人間の必要に応えられる神様を知り、「その恵みに対してどうあるべきか」を問い続けたいと述べました。
 本日の福音書箇所の舞台に現在建っている「パンと魚の奇跡教会」の画像も活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
  主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第10主日です。先ほどお読みしました本日の福音書ヨハネによる福音書の6:1-21で、試用版の聖書日課で新たに取り上げられた箇所です。この箇所は大きく2つの場面からなっています。1-15節と16-21節で、聖書協会共同訳聖書の小見出しは前者が「五千人に食べ物を与える」、後者は「湖の上を歩く」です。ヨハネ福音書ではイエス様は 3回エルサレムに上っていますが、2回目のエルサレム訪問からガリラヤに戻ってきた直後の出来事が本日の箇所です。前半はガリラヤ湖畔における「五千人の供食」とか「五千人の給食」と呼ばれているイエス様の奇跡の場面、後半は嵐で荒れる湖上の舟の中の弟子たちのもとにイエス様が湖の上を歩いておいでになったという場面です。今回は主に前半を中心に思い巡らしたいと思います。

 4つ全部の福音書が、この「イエス様が5千人に食べ物を与えられた」という奇跡物語を記しています。この奇跡が起きたのは、ガリラヤ湖畔の北西のタブハというところで、私は6年前にここを訪れました。ここには「パンと魚の奇跡教会」と呼ばれる教会が建っています。

 この教会は4世紀に創建され、5世紀半ばに再建されました。現在の教会はその時と同じ間取りで1982年に再建されたものです。内部の祭壇前はこうです。

 祭壇下には岩の一部が残されていますが、これはイエス様がパンを増やされた場所の小さな岩とされています。また、祭壇前のパンと魚を描いたモザイクは5世紀ごろに作られたものだそうです。本日の福音書の出来事が初代教会で大切にされていたことが分かります。
 この箇所では、およそ5,000人の人々が、少年が持っていたパン5つと魚2匹で十分食べ、しかも残ったパン切れを集めると12の籠がいっぱいになったことが述べられています。以前の新共同訳聖書では「男たち」と訳されていましたが、本来は今回の訳のように「人々」であり、当時は女性や子供は人数外でした。全体では、おそらく一万人以上が十分食べ満腹したと考えられます。

 今回は特に、この箇所に登場する人物の発言にスポットを当てたいと思います。
 まず注目したいのは、5節のイエス様がフィリポに言った言葉です。
「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」
 イエス様はどこでパンを買うかと「場所」を聞いています。このイエス様の問いはヨハネ6章全体にかかわる大きな問いです。
 6節で「フィリポを試みるため」とありますが、この問いは私たちにも向けられていると思います。「どこでパンを得るか」ということです。「フィリポを試みるため」という部分はヨハネ福音書だけが伝えています。それに対して、フィリポは、7節で「めいめいが少しずつ食べたしても、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう」と答えました。イエス様は「場所」を聞いたのに、フィリポは「量」を答えました。
 1デナリオンは当時の1日分の賃金です。仮にそれを1万円とすれば、200デナリオンは200万円です。「1万人の食料を得るためには200万円でも足りないでしょう」というのです。一人あたり200円ということですから、確かにそうかもしれません。それに対してアンデレは、9節で「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう。」と答えます。二人とも結論は無理だと言っていますが、ここには微妙な違いがあります。
 フィリポははじめから「不足分の計算」をしました。これだけのものがあっても足らないと。アンデレも悲観的ですが、しかし、彼は「持っているものの計算」をしました。ここに5つのパンと2匹の魚がある、と。この視点の違いは、その後の生き方に大きな差を与えていくことになります。「不足分の計算をする」ということは、神様が与えてくれないものに対する関心であり、それは「不平・不満」になっていきます。それに対して、「持っているものの計算をする」とは、そこにあるものに関心を持つということで、それは神様が与えてくださっているものへの関心であり、その思いは「感謝・賛美」へとつながっていくと考えられます。イエス様が受け入れ、用いられたのは、アンデレの視点でした。つまり、「持っているものの計算」であり、現実をプラス思考で見るということです。「200デナリオンでも足りない」ではなく、「5つのパンと2匹の魚がある」と見るということです。そして、11節にイエス様がなさったことが記されています。
「そこで、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」
 「パンを取り、感謝の祈りを唱え」るとは、イエス様が「パンを神に捧げた」ということです。これは聖餐式で司祭が行っている所作を彷彿とさせます。私たちの目には「わずか」と思われるものでも、イエス様の祝福によって、「人々が十分食べる」という大きな量の給食を実現されたのです。
 そして、その奇跡が起きたのは、少年が「自分の持っていた食べ物を差し出した」からということも忘れはならないと思います。この少年は、「それを差し出したら自分の分がなくなる」という発想ではなく、「わずかなものでも、今、自分の持っているものをイエス様に差し出した」のです。イエス様はその捧げられたものを用いて素晴らしい奇跡を起こされました。少年は自分に与えられた小さな賜物をイエス様へお捧げしたのです。イエス様はその思い、その心を「よし」とされ、用いられるのです。

 この奇跡の後、12節でイエス様は弟子たちにこう言われました。
「少しも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい」と。
 神の恵みに無駄なものはない、ということを思います。ここにイエス様が伝えたいことの中心があります。「無駄にならないように(メー・アポレータイ)」という言葉に注目します。実は、この言葉はヨハネ福音書3章16節の有名な御言葉「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」の「一人も滅びないで」と同じ言葉なのです。給食の奇跡には、ただ食べ物を備えてくださる、私たちを養ってくださるだけでなく、神の恵みに無駄なものは何一つないということ、そして、私たちが誰「一人も滅びないで、永遠の命を得る」ために、「神様はイエス様をこの世に派遣された」という大きな救いのメッセージも込められているのです。
 
 16節以降の、弟子たちの乗る舟が嵐の湖上で5kmほど漕ぎ出した時、舟に近づくイエス様に恐れる弟子たちに、20節でイエス様はこう言われます。
「私だ。恐れることはない。」と。
 「私だ」という言葉はギリシャ語で「エゴー・エイミ」と言います。英語で言えば「I am」です。出エジプト記モーセに対して神が御自身の名を明かされたとき、神は御自身を「わたしはあるという者だ」(新共同訳・出エジプト3:14)とおっしゃいました。この「わたしはある」のギリシャ語が「エゴー・エイミ」です。つまりここでイエス様は、かつてモーセに神が御自身を顕されたように、弟子たちに神である御自身を顕されたと言えます。「神である私が一緒にいる、だから恐れることはない」と言っているのです。
 神であるキリストを弟子たちが舟に迎え入れました。「すると間もなく、舟は目指す地に着いた」とあります。舟は目的地に着きました。神が共におられるので、無事に目的地に着いたのです。

 今回、聖書日課として新たに取り上げられたこの箇所の中で、特に私の心に響いたのは、イエス様がフィリポに言われた「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」という言葉です。イエス様の問いは「どこからパンは来るのか」ということです。この問いは私たちにも向けられています。このパンは、「命のパン」であり「日ごとの糧」、私たちに生きる力と永遠の命を与えるものです。これを私たちは聖餐式ごとに「御聖体」「キリストの体」としていただいています。このパン(糧)は、端的に言えば神様からいただいたものです。ですから、「パンは神から来る」と言えます。本日の箇所では、イエス様を通して、イエス様が増やされたパンこそが「しるし」となりました。ヨハネ福音書ではイエス様のなさった奇跡のことを「しるし」と言っています。イエス様の「しるし」を見て、それを受け入れる者に永遠の命が与えられます。そして、イエス様と一緒に舟に乗るとき「神の国」という目的地に到着することができるのです。

 皆さん、イエス様はフィリポの「不足分の計算」ではなく、アンデレの「持っているものの計算」を「よし」とされ、少年が差し出した「5つのパンと2匹の魚」を用いて大きな奇跡(しるし)をなされました。それは私たちが「永遠の命を得る」ために「神様がイエス様をこの世に派遣された」ことを示すものでもあります。毎主日聖餐式において、イエス様は「御聖体」として私たちの体に入り、生きる力と永遠の命を与えてくださいます。私たちはこの奇跡(しるし)を通して、人間の必要に応えられる神様を知り、私たち一人一人は「その恵みに対してどうあるべきか」を問い続けていきたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン