マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第8主日『洗礼者ヨハネの殉教』

 本日は 聖霊降臨後第8主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
本日の聖書箇所は、アモス書7:7-15、詩編85:8-15、エフェソの信徒への手紙1:3-14及びマルコによる福音書  6:14-29。説教では、洗礼者ヨハネの死(殉教)により、彼の時代が終わりイエス様の時代が始まり罪を赦す神の愛が示されたことを知り、その恵みに感謝し、神の栄光をほめたたえ、主の喜ばれることを願い求めることができるよう祈りました。 
 本日の福音書箇所を発展させたオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」にも言及しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第8主日です。先ほどお読みしました本日の福音書箇所、マルコによる福音書 6:14-29は、聖書協会共同訳聖書では「洗礼者ヨハネ、殺される」という表題がついています。この箇所は、これまでの主日の聖書日課では取り上げられていませんでした。私たちの教会が昨年の降臨節から使用している「改正祈祷書試用版」の聖書日課(RCL)で、今回初めて取り上げられた箇所です。この箇所が私たちに示すメッセージ等について思い巡らしたいと思います。

 この箇所を解説を入れて振り返ります。ここは大きく2つの場面からなっています。前半がオープニングの14~16節、後半が回想の17~29節です。

 まず、前半の14~16節です。
 イエス様や弟子たちがガリラヤを巡り宣教し、多くの人を癒やしたことなどにより、イエス様の名前が知れ渡りました。イエス様の評判は、ガリラヤの領主であるヘロデの耳にも入りました。「ヘロデ王」と記されていますが、このヘロデはヘロデ大王の息子の「ヘロデ・アンティパス」のことです。「ヘロデ・アンティパス」は、王ではなく、ガリラヤとペレアの領主でした。「ヘロデ王」はいわば俗称でした。人々は、イエス様について、こう言っていました。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、あのような力が彼に働いている」、それは、「イエス様が奇跡を行うことができるのは、ヨハネが死者の中から生き返って、イエス様のうちに働いているから」と考えたということです。
 その他にも、イエス様について、「彼はエリヤだ」という人もいれば、「昔の預言者の一人のようだ」という人もいました。マラキ書を読むと、「主の日が来る前に私は預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」と記されています(マラキ3:23)。天に上げられたエリヤが、主の日(世の終わり)が来る前に遣わされると人々は信じていたのです。「そのエリヤこそ、イエスだ」とある人は言っていました。また、ある人は、イエス様を「昔の預言者のような預言者だ」と言ったのです。確かにイエス様は、御自分が預言者であることを意識しておられました(マルコ6:4)。しかし、イエス様は、預言者に留まらない、王であり、大祭司でもあるのでした。
 このようなイエス様についての評判を聞いて、ヘロデはこう言いました。「私が首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」。このヘロデの言葉によって、私たちは、洗礼者ヨハネがヘロデの手によって殺されたことを知ります。そして、福音書記者マルコは、この後、回想して過去に起こったヨハネの死の物語を記します。

 続いて、後半の17~29節です。
 ヘロデは、異母弟フィリポの妻だったへロディアと結婚し、そのことで、ヨハネを捕らえ、牢につないでいました。なぜなら、ヨハネが、「兄弟の妻をめとることは許されない」、つまり、「兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言っていたからです(レビ20:21)。へロディアヘロデ大王の息子ヘロデ・フィリポの娘で、ヘロデ・アンティパスの姪に当たります。ヘロデ・アンティパスとヘロディアの結婚、それは叔父と姪の結婚です。このことが既に律法違反でした(レビ18:12・13)。へロディアヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていました。へロディアは、ヨハネを殺すことによって、ヨハネが語る神の言葉を聞かなくてすむようにしようとしたのです。しかし、それができませんでした。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護していたからです。また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからです。
 ヨハネを殺そうと思っていたへロディアにとって、良い機会が訪れました。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに重臣や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催したのです。その宴会の場に、へロディアは、娘を送りこみ踊らせます。その娘の名前は示されていませんが「サロメ」です。サロメはへロディアの前夫、フィリポの子供でした。「サロメ」はオスカー・ワイルドの戯曲で有名です。

    ビアズレーの挿絵でも知られています。

 この戯曲はこの箇所を発展させて物語っています。この時のサロメの踊りは官能的なものだったと思われます。喜んだヘロデは、少女にこう言いました。「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」。さらに、「お前が願うなら、私の国の半分でもやろう」と固く誓ったのです。ヘロデは王ではなく、領主ですから、実際は、そのような権限があるわけではありません。しかし、ヘロデは、あたかも王であるかのように振る舞ったのです。ちなみに、ここで「少女」と訳されたギリシャ語は「コラシオン」です。この言葉は、12~14歳の、当時は結婚可能な年齢の女性を表していました。ヘロデは義理の娘をあらぬ目で見つめていたのではないでしょうか? 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言いました。早速、少女は大急ぎで王の所に行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願いました。
 王は、少女の願いを聞いて非常に心を痛めました。なぜなら、ヘロデは、ヨハネが正しい聖なる人であることを知っていたからです。しかし、王は、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくありませんでした。ヘロデは、衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るように命じました。その王の言葉に従って、衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はヨハネの首を母親に渡しました。
 正しい聖なる人であるヨハネは、少女の踊りの褒美として首をはねられたのですが、このことを聞いたヨハネの弟子たちは、ヨハネの遺体を引き取り、墓に納めました。このようにして洗礼者ヨハネは、その地上の生涯を閉じたのです。

 本日の福音書箇所が私たちに与えているメッセージは何でしょうか?
 洗礼者ヨハネはイエス様の先駆者として登場し、イエス様に洗礼を施し、旧約聖書新約聖書をつなぐ預言者であると位置づけられています。イエス様の本格的な宣教が始まった時に、洗礼者ヨハネはその生涯を閉じました。私たちは生きるのも死ぬのも神様の御心のままであり、人はこの世の使命を果たした時に天に帰る(帰天)と考えています。洗礼者ヨハネの死は理不尽とも思える死に方ですが、彼なりにこの世での使命を果たしたとも考えられます。

 洗礼者ヨハネの死、これは「殉教」ととらえることができると思います。「殉教」と訳されるギリシャ語(マルトゥリア)は「証し」とも訳される言葉です。自分の命(死)をもって信仰を証しする、それが殉教です。洗礼者ヨハネの死は、無意味な死ではなく、来たるべき方、イエス・キリストを「証し」する殉教でありました。

 洗礼者ヨハネはイエス様の予型、予兆として登場し、共通点が多くあります。マタイによる福音書ですが、この二人の宣教開始の言葉が全く同じです。それは「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ3:2及び4:17」という言葉です。
 ただ、同じ言葉ですが、中身はまったく違います。当時、洗礼者ヨハネが語った言葉を聞いた人は、この世の終わりが来るので、罪をなんとか清算して地獄行きを免れようとしていたのではないかと考えられます。
 しかし、イエス様が語られる悔い改めの意味は全く違います。イエス様の言う「天の国は近づいた」は、裁きが来たのではなくて、神の救いが来たということです。つまり、イエス様と共に、まさしく罪を本当の意味で赦してくださる神様の憐れみ、神様の愛の心が示された。だから「悔い改めよ」というのが、イエス様の言わんとしていることです。
 洗礼者ヨハネの死は彼の時代が終わったことを意味し、イエス様の時代が始まったことを象徴しています。それは罪をなんとか清算しようとするヨハネの発想ではなく、罪を赦してくださる神様の愛が示されたというイエス様の発想こそが重要であるというメッセージであると思います。

 そのことに関係して、本日の使徒書を見たいと思います。
 パウロはエフェソの信徒への手紙の1章において、4節で「天地創造の前にキリストによって私たちが選ばれている」ことを述べた後、6節でこう言っています。「それは、神がその愛する御子によって与えてくださった恵みの栄光を、私たちがほめたたえるためです。」と。
 神様は、私たちを愛するがゆえに、何ものにも比べられないような素晴らしい「恵み」を、愛する御子によって与えてくださり、私たちがその「恵み」をほめたたえるために、私たちを選ばれたのです。
 まさに、神様の愛や恵みは私たちの信仰や宣教に先行して与えられているのであります。恵みを受けることがまず最初にあり、そこから悔い改めが生まれ、信仰につながるのだと思います。「恩寵先行・信仰後続」です。そして、私たちは神の栄光をほめたたえるのです。

 皆さん、私たちは皆、人生のある時に、神様からイエス様を通して大いなる恵みを与えられた者です。それは何ものにも比べることのできない「驚くべき恵み(Amazing Grace)」です。私たちはその恵みに感謝し、神の栄光をほめたたえ、主の喜ばれることを願い求めることができるよう祈りたいと思います。
    
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン